38 魔術師の国へ
「もう、だから大丈夫だって言ってるじゃない」
「いやいや、もしものことがあったら困るだろう?」
そう言って中々折れない夫に、ユリエ・ヴァイセンベルクは苦笑した。
今二人を悩ませているのは、一枚の招待状だった。
ユリエに宛てられたその招待状は、ヴァイセンベルク家の次期当主の奥方ではなく、ユリエ個人へのものだ。
「そりゃあ僕だって気持ちはわかるよ? 恩師の晴れ舞台だ。でも、君一人でなんて危ないだろう」
ジークベルトはどこか拗ねたように腕を組んでいる。
普段は人を食ったような態度の夫の珍しく子供っぽい様子に、手がかかるものだ、とユリエは内心ため息をついた。
これでは娘のステラの方が聞き分けがいいのかもしれない。大きな子供には困ったものである。
事の始まりは、ユリエは学生時代に師事していた隣国フリジアの教授の受勲が決まり、その祝賀会が開かれることになったというものだ。
そこに、ユリエとジークベルトが招待されたのである。
当時はただのいち留学生だったユリエも、今では大陸きっての名家の貴婦人だ。それでも、世話になった恩師に直接祝いの言葉を述べたかった。
最初はジークベルトも乗り気で、二人で色々と準備を始めていた。
だが、ここに来てどうしてもジークベルトに外せない用事が出来てしまった。
だったら一人で行くと告げたのだが、この妙なところで心配性の夫はそれを許さないのである。
「別に一人って言っても本当に一人で行くわけじゃないのよ。使用人も護衛もいるんだから」
「でも、万が一ってこともあるだろう?」
「ないわよ」
別にユリエは危険地帯へ突っ込もうとしているわけじゃない。
普通に交流のある隣国へ、ごく普通に訪れるだけなのだ。祝賀会ともなればそれなりの人物が揃うだろう。
当然、向こうも警護には手を抜かないはずだ。
ジークベルトの心配するような「万が一」があるとは思えなかった。
「君をたぶらかそうとする男が現れるかもしれない」
「そんな人いないわよ!」
「いや、わからないな。何せあそこは魔術大国だ。うっかり魅了の呪文でも使われたら……」
「もう……」
現実離れした妄想を繰り広げる夫に近づき、そっと優しく腕に触れる。
「……私はあなたの妻なのよ。惑わされたりなんてしないわ」
「じゃあ、証拠」
ほらほら、と何かをせがむようにジークベルトが体をかがめた。
「……まったく」
本当に手のかかる夫だ。
少し照れくささを感じつつも、ユリエはゆっくりと顔を近づける。
そして、そっと唇を触れさせた。
「……これで満足?」
「いや、やっぱりこんなにかわいい君を一人で行かせるわけにはいかないな」
「もう、なんなのよ!」
まんまとしてやられたような気がして、ユリエはぽかぽかと何度もジークベルトの肩を叩いた。
「そんなこと言っても、せっかくお招きいただいたのに欠席するのも失礼じゃない」
「僕が行かなかったら不仲なんて噂を立てられるかもしれない」
「言いたい人には言わせておけばいいわ」
そう言うと、ジークベルトは負けたとでもいうように苦笑した。
「マティアスが代理で行けたらよかったんだけど、あいつもなんか忙しいって言ってたし……あ……」
そこで、ジークベルトは何かに気が付いたようにユリエの方を振り返る。
一体何なのだろう、と首をかしげると、ジークベルトはにやりと笑った。
「……そうだね、欠席するのは失礼だ。僕の代理にも一緒に行ってもらうよ」
◇◇◇
「というわけで、兄さんの名代としてフリジアに行くことになりました」
仕事が一段落した俺とヨエルがカードで遊んでいると、どこか真剣な顔をしたヴォルフがやってきた。
そして、開口一番そんなことを言ったのだ。
「何しに行くんだ」
「義姉さんの恩師である大学教授の叙勲の祝賀会への参加です」
「へぇ……よくわかんないけどすごいんだな……」
詳しいことはよくわからないけど、勲章を貰えるってことはかなりすごい人なんだろう。
ジークベルトさんの代理とはいえ、そんなすごい人の祝賀会へ行けるなんてヴォルフも偉くなったものだ。
「フリジアかぁ……」
フリジア王国はここユグランスの西に位置する国であり、俺も何度か行ったことがある。
一緒に旅した仲間の何人かはフリジアに住んでるし、末席とはいえ王女様の知り合いもいる。
そう思うと、急に懐かしくなってきた。
「フリジアのどこ?」
「内陸にあるヴィルエールという街の近くだそうです」
残念ながら聞いたことない場所だった。
ざっくりと位置も教えてもらったが、やっぱり行ったことのない場所だ。
「リルカ達には……会えないか」
ヴォルフは遊びに行くんじゃない。ヴァイセンベルク家の人間としての仕事の一環なんだ。
どこかで会えそうなら言伝でも頼もうかと思ったけど、そんな時間はないだろうな……。
「確か奥方はオレーム大学へ行ってたよな。その恩師ってのは魔術師なのか」
手持ち無沙汰にカードをいじっていたヨエルの問いかけに、ヴォルフは頷いた。
「えぇ、今回の受勲もその長年の研究が評価されたものだとか」
「なるほどねぇ。まっとうな学者ってわけか」
ヨエルは何が面白いのかいつもよりにやにやしている。
でもフリジアへ行くってことは、長期間不在にするってことだよな……。
そう思うと急に寂しくなってきた。
……でも、行かないで欲しいなんて言えないし。
小さく俯くと、上からヴォルフの声が聞こえた。
「というわけなので、二人とも準備を忘れないようにしてください」
「えっ?」
「おいおい、待てよ……」
思わず顔を上げると、ヴォルフは何か変なことを言っただろうか、とでもいうような顔をしていた。
テーブルの上のカップを倒す勢いで慌てたようにヨエルが立ち上がる。
「まさか、俺も行けっていうのか」
「えぇ、あなたとクリスさんには僕に同行してもらいます」
「ほんとに!?」
俺も一緒に行ける!? フリジアに!?
嬉しくて立ち上がった俺とは違い、ヨエルは面倒そうな表情をヴォルフに向けている。
「なんで俺まで……」
「……何もないとは思いますが、行き先は魔法大国。招待客も魔術に精通したものばかりです。こちらもそれなりに知識のあるものを連れていきたい。もちろん護衛もつきますが、騎士は魔術師相手では後れを取る可能性もあるので」
ヴォルフは淡々とそう説明した。
ヨエルも、さすがに拒否権はないと察したのだろう。ため息をついて再びソファに沈み込んだ。
「まったく、面倒くせぇ……」
「いいじゃん、頼りにされてるってことだろ」
そう言うと、ヨエルはそっぽを向いてしまった。
これは照れてるのか拗ねてるのか……まぁどっちでもいいや。
「でも、ヨエルはわかるけど俺もいいの?」
ヨエルが魔術師対策で駆り出されるのはわかる。
でも、俺は何なんだろう。正直あまり役に立つとは思えない。
そう問いかけると、ヴォルフは優しく笑った。
「だって、あなたは僕の専属メイドじゃないですか」
ヴォルフは当たり前だとでもいうようにそう口にした。
やばい、思わずにやけてしまう。
頬を押さえて俯くと、ヨエルがわざとらしい大きなため息をついた。
「まったく、四六時中てめぇらのそのやりとり見せられるのかと思うと気が滅入るぜ」
「羨ましいですか」
「羨ましくねぇよ!!」
遂にヨエルはどかどかと大きな足音を立てて部屋を出て行った。
まぁ、なんだかんだ言ってあいつもやるときはやるし、ちゃんと一緒に来てくれるだろう。
「というわけなのでクリスさん。よろしくお願いします!」
「おう、任せとけ!!」
これはヴォルフの仕事の一環で、俺たちは遊びに行くんじゃない。
そうわかっていたけど、今の俺はまるで旅行の前のようにうきうきが収まらなかった。
いろいろ準備して、そのヴィルエールのことも調べておこう。
名産品とか、おいしい料理とか、お土産とか、名所とか……。
そんな風に想像を膨らませる俺を見て、ヴォルフは苦笑していた。
ユリエは関連作品の「生真面目令嬢と腹黒貴公子のビターチョコレートな関係」の主人公になります!
こんなタイトルですが、今考えるとジークベルトは腹黒というよりも素でおかしいだけな気がしてきます。




