36 ヨエル先生
「おーい、起きろ引きこもり!」
どんどんと強くドアを叩いたが、ヨエルの部屋はうんともすんとも言わなかった。
……でも、中にいるのはわかりきってるんだ!
「おらっ、出てこい! お前が朝ごはん食べないと片付かないだろ!!」
諦めずにドアを叩き続けていると、やがて扉一枚向こうに殺気を感じる。
この後に起こる展開を予測して、俺は素早く身を引いた。
「……朝っぱらからうっせーんだよ馬鹿メイド!!」
予想通り、ドアを吹き飛ばす勢いでヨエルが現れた。
危ない危ない、1秒でも遅かったら俺も一緒に吹っ飛んでたところだ!
「ちっ、避けやがったか……」
「ふん、何度も同じ手に引っかかると思うなよ!」
実はこれまでに何度も吹っ飛ばされ済みなのだ。
さすがにそろそろ学習する。
……ヨエルがここに来て数日、俺にこの引きこもりの世話を焼くという仕事が増えた。
まったく面倒なことこの上ない。なぜ俺がいい年した男の面倒を見なければならないのか!
だが、俺がやらなければ師匠の手を煩わせてしまう。そんなことはできなかった。
「ほら、さっさと着替えろよ!」
「うっせーな……」
ヨエルは寝起きなのか頭はぼさぼさだし目は半分開いてない。
大欠伸をしながら部屋へと戻っていくヨエルを見つつ、俺は小さくため息をついた。
ヨエルの生活はとにかくぐちゃぐちゃだった。昼夜逆転なんかは当たり前だ。
一応ヴォルフに仕えているという立場になるらしいのだが、普段は部屋に引きこもってほとんど出てこない。
あくせく働く俺から見ると、率直に言ってうらやましくてむかつくのだ。
八つ当たり交じりにとりあえずヨエルの不規則な生活を改善しようとしているのだが、これがなかなかうまくいかない。
さすがにマイペースすぎる。もう少し周りに合わせようという意識はおきないものだろうか。
とりあえず着替えたヨエルを食堂に連れて行き、エーリクさんが作っておいてくれた朝食を出す。
もぐもぐと黙って咀嚼するヨエルを見ながら、俺はまたため息をついた。
ヨエルの父親はヨエルを脱ひきこもりさせたかったようだが、結局引きこもる場所が変わっただけのような気がする。
「ていうかお前も使用人だろ。もうちょっと働けよ」
「何言ってやがる馬鹿メイド。俺は食客だ」
「同じようなもんだろ」
そう言うと、ヨエルはむっとしたような顔をした。
「全然違うだろ。俺は無教養な使用人とは違う」
「無教養ってなんだよ!」
「じゃあ試してやるよ」
ヨエルはにやにやしながら馬鹿にしたような顔で俺のことを見ている。
むむっ……むかつくな……!
「カラザールの戦いにおいてフェンデル軍を破った将の名前は?」
「…………は?」
まずカラザールってなんだ。人名か地名か他の何かか……駄目だ、さっぱりわからん!
頭の中が“?”でいっぱいになった俺に、ヨエルはやっぱりな、とでも言いたげにため息をついた。
「ヴァイセンベルク地方では常識だぞ」
「お、俺はミルターナ出身だし……」
「そんなの言い訳にならねぇよ。いいかよく聞け。お前、ヴォルフリートの恋人なんだろ」
からかってるのかと思ったが、ヨエルは真剣な顔をしている。
なんか誤魔化したり嘘をつく気にもなれなくて、俺はただ頷いた。
「このまま恋人でい続けるならお前にそのつもりがなくても、お前はヴォルフリートだけじゃなくヴァイセンベルク家全体に関わることになる。あいつの兄貴だけじゃなく、他の奴らともな」
どきりとして、思わずごくりとつばを飲み込んだ。
ヨエルの言っていることは、俺もうすうす考えていたことだからだ。
「お前の無知無教養で馬鹿にされるのはヴォルフリートだ。そこんとこわかってんのか」
「…………」
ぎゅっと拳を握る。俺は……言い返せなかった。
俺自身が馬鹿だってことはよくわかってるつもりだ。旅の仲間に何度もそう言われたし、ヴォルフにだって言われたことがある。
今まではそれでよかった。何とかなった。
でも、これからは……?
俺のせいで、ヴォルフが馬鹿にされるかもしれない。
あいつは、いつも頑張ってるのに。
そう考えると、急に情けなくなった。
「お、おい泣くなよ馬鹿メイド」
「……泣いてない」
「俺が泣かせたみたいだろ」
「だから泣いてないって!」
ぱちぱちと瞬きして、ぐっと顔を上げる。
「……教養って、どうやったら身につくの」
そう問いかけるとどこか困った顔をしていたヨエルは、ぐしゃぐしゃと髪をかき回してため息をついた。
「一朝一夕で身につくもんじゃねーぞ」
「何日でも、何年かかってもいい」
「……まったく、手のかかるメイドだぜ」
ヨエルはそう言って肩をすくめた。
……生活習慣が乱れまくってる引きこもりには言われたくないな。
◇◇◇
「よし、まずは基礎知識を確認する」
「はいっ!」
こうして、俺とヨエルの勉強会が始まった。
あの後、とりあえずがむしゃらに勉強を始めようとした俺に、ヨエルは少しなら勉強を見てやってもいいと言ってくれた。
こいつ、結構暇そうだもんな。
「ヴぇイセンベルク家は貴族だ。とりあえず貴族とは何なのかを知っておけ」
「なんとなくはわかるけど……」
豪華なお城に住んで、毎日パーティーをしてる人たち……だけではないのはちゃんと知っている。
税や徴兵を課す代わりに、貴族は領地の人々を守っている。
ヴァイセンベルク家の中にも、この地を守るために自分を犠牲にして亡くなった人がいる。なんとなくそういうものだと俺は思っていた。
「六貴族は知ってるか?」
「ユグランスの中でも特に強い力を持つ家六つだろ」
「全部言えるか?」
「えっと……ヴァイセンベルク、シュヴァルツシルト、ローゼンクランツ、グリューネヴァルト……」
残念ながらそこで止まってしまった。
あと二つ、聞いたことはあるのだがどうしても思い出せない。
言葉に詰まった俺を見て、ヨエルはため息をついた。
「それじゃ四貴族じゃねぇか。……基本中の基本だ。その辺歩いてる町のガキだって知ってるぞ」
「うぅ……」
ちょっと恥ずかしい。
俺だって自分がかかわったことのある人の家は覚えてるけど、名前を聞いただけの家名はさっぱり思い出せなかった。
……こんなんで大丈夫なのかな、とまた自信を喪失しそうになる。
ふとした瞬間に、強い不安に襲われる。
俺みたいに馬鹿で物覚えの悪い平民より、ヴォルフにはもっと頭がよくて家柄がいい女の子がいるんじゃないかって。
いつもは蓋をしている嫌な想像が、どうしても心を侵食してきてしまうのだ。
きっと、それはただの想像じゃない。俺よりもヴォルフにはふさわしい相手がいる。それは事実なのだから。
でも、それでも……諦めたくない。
好きだから、一緒にいたいから、俺だって負けるわけにはいかない。
落ち込んでる暇があるならその時間を有意義に使って、ライバルとの差を埋めないといけないんだ……!
まだ見ぬライバルへの闘志を燃やし、俺は気分を切り替えた。
「……切り替え早いんだな、お前」
「まぁ、ずっと悩んでても仕方ないし」
そう言うと、ヨエルは呆れたように笑って一冊の本を取り出した。
「そんなことだろうと思って持ってきてよかったぜ」
「なにそれ?」
ヨエルが本を手渡してくれたので、ぺらぺらとページをめくる。
どうやらそれは、子供向けの絵本のようだった。
戦士たちが悪い魔物を倒して……みたいな内容がデフォルメされた絵と共に描かれている。
「……お前、俺のこと舐めすぎだろ」
「舐めてんのはお前だろ。意外と馬鹿にできねぇぞ。それ、この国の成り立ちが書かれてる本だ」
「えっ?」
てっきりおとぎ話か何かかと思ったが、どうやら昔この地で実際にあった出来事が描かれているようだった。
「まぁ、一回読んでみろよ。簡単な概要を掴むだけならその絵本で十分だ」
ヨエルに促されるまま、俺は先ほどよりも丁寧に本を開いた。




