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逃げ出した聖女、北の地で吸血鬼のメイドになる  作者: 柚子れもん
第2章 勇者と寵姫とひきこもり
33/110

33 黒い手

 宵闇の中でも、はっきりとわかる。

 何かが、ずるずると這い出てこようとしている。

 俺はただ固まって、その光景を見ていることしかできなかった。


 初めに、両の手のようなものが這い出てくる。そして、次は頭だろうか。

 夜の闇よりも、さらに黒い。その黒い靄に包まれた何者かは、人のような形を持っているようだった。


「あ、ぁぁ……」


 思考がマヒしたように頭の中が恐怖一色に塗りつぶされる。

 歯の根が合わずかちかちと鳴る。その音が聞こえてしまうのではないかと焦ったが、どうにもならなかった。


 ついに黒い影の全身があらわになる。

 獣のように四つん這いになっていた影が、顔を上げたように見えた。

 真っ黒なその顔の、表情などはわからない。

 でも、はっきりと感じた。



 ──こちらを、視ている



 目があるかどうかもわからないのに、強烈な視線が突き刺さる。

 殺意のような、獲物をいたぶろうとするような、おぞましい意思がびんびんと伝わってくる。


 そして、真っ黒なその顔が、笑ったような気がした。


「ヒ……ヒヒッ……!」


 爪で金属を引っ掻いたような、身の毛もよだつ笑い声が聞こえる。

 まるで昆虫のような薄気味悪い動きで、その影はゆっくりと近づいてくる。

 それでも、俺は動けなかった。

 まるで手足が凍り付いてしまったかのように動けない。

 逃げなきゃ。そうわかっているのに、思考は叫んでいるのに、どうしても体が動かない。


 もう影はすぐそこまで迫っている。


 そして影がまた一歩こちらへと近寄った瞬間──


 バサバサ、と外から大きな鳥の羽音が聞こえた。

 その瞬間、影の意識がそれ、俺もはっと我に返った。


「っ、はっ……!」


 震える手足を叱咤し、影から遠ざかろうと必死に階段を駆け上る。

 心臓がばくばく鳴っている。もつれそうになる手足を必死に動かし、俺はなんとか声を絞り出した。


「っ、ヴォルフ! ヨエル!!」


 二人はこの館の中にいるはずだ。

 すぐに助けに来てくれると言っていた。

 それなのに……


 二人は来ない。

 それどころか、俺と影以外誰の気配もない。


「ヴォルフ、ヨエル!……早く!!」


 影が追ってくる気配がする。

 長い廊下を走りながら、俺は必死に何度も二人を呼んだ。


 ……それでも、何の応答はなかった。


「ヒ、ィヒヒヒ……!」


 必死に逃げる俺をあざ笑うかのように、背後から影が迫ってくる。

 なんとか足を動かしながら、そこで初めて違和感を覚えた。


 この館は大きい。確かに廊下も掃除するのが面倒なほど長いけど……こんなに走り続けて、端までたどり着かないわけがない。

 明かりのない暗い廊下は昼間とは全く違い、その奥は闇に続いているようで果てが見えなかった。

 走りながら左右を見回す。


 そこにあるはずの部屋への扉がない。

 ただ暗い廊下が延々と続いているだけだった。


「やだっ……ヴォルフ、ヨエル!!」


 わけがわからない状況にパニックになる。

 ほとんど泣きそうになりながら必死に走り、ふいに何かにつまずき思いっきり前のめりに転んでしまう。


「痛っ……」


 しかしぐずぐずしていられない。後ろからはあの不気味な黒い何者かが迫ってきているのだ。

 何とか体を起こそうとして、そこで俺は悲鳴を上げてしまった。

 すっ転んで倒れた俺の足首を、床から生えたとしか言いようがない黒い手が掴んでいたのだ。


「ゃ……放せっ!」


 何とか引っ張ったり手飛ばしてみたりしたが、俺の足首を掴む手はびくともしなかった。

 そうこうしてるうちに、追いかけてきた影の姿が見え始める。


「ひっ……!」


 影はわざとゆっくりとこちらへと近づいてくるようだった。

 まるで、逃げようともがく俺をあざ笑うように。


「っぁ……!」


 這いずって逃げようと床についた俺の手に、足首を掴むのとは別の手が絡みついてきた。

 いつの間にか、地面から生えた何本もの黒い手がゆらゆらと揺れてこちらへと延びてくる。


「や、やめっ……!」


 群がる黒い手が体に、腰に、足に絡みつきまさぐってくる。

 あまりの恐怖と気持ち悪さに、意識が遠くなりそうだった。


「ヒ、ィヒヒヒ……女ノ匂イ……女ァ……!!」


 黒い影の不快な声がこだまする。

 その舌なめずりするような、へばりつき嘗め回すような視線に、全身が総毛だった。

 まるで巣に引っかかった獲物を追いつめる蜘蛛のように、影はじわじわと近づいてくる。


「あ、ぁぁ……ゃだ、ヴォルフ……」


 届かないということはわかっていても、助けを求めずにはいられなかった。

 もう、黒い影はすぐそこにいる。


 そして黒い影が飛び掛かろうとした瞬間──



 パァン、と何かが弾けるような音と共に、白い光が破裂した。



「っ……!」


 思わず目を瞑ってしまう。


「アアァァァァ!?」


 黒い影が苛立ったような不快な声を上げた。

 そして目を開けると飛び込んできたのは、

 影の脳天に振り下ろされたきらりと光る刃だった。


「ア゛ア゛ァアアァァァァ!!」


 影が苦痛の声を上げたかと思うと、次の瞬間黒い霧のようになって霧散する。

 その途端、俺の体を這いずり回っていた手も姿を消す。


 黒い霧が消え、見えたのは、刃を振り下ろしたままの態勢のヴォルフと若干引きつった顔をしたヨエルだった。

 ヴォルフはひどく冷たい目をして、影がいた場所を見下ろしていた。

 その目に思わず怯んでしまうほどに。


 だが、ヴォルフはすぐに腰を抜かした俺に気が付くと、慌てたように近づいてきた。


「クリスさん! 大丈夫ですか!?」


 優しい腕に抱き起こされる。

 その暖かさを感じた途端、張りつめていた物が決壊した。


「っ……ぅぅ、ぁぁぁあ……!!」


 怖かった。

 どうすることもできずに、俺はただ追いつめられただけだった。

 二人が来てくれるのがもう少し遅かったら、どうなっていたかもわからない。

 無我夢中で目の前の体にしがみつく。抱きしめ返される腕の暖かさに、ぼろぼろと涙が止まらない。


「……逃げやがったか。悪い、まさか隔離空間を作り出すとは思わなかった」


 鼻をすすりながら顔を上げると、悔し気な顔のヨエルと目が合う。

 ヨエルはそのまましゃがみこみ、じっと俺のことを観察しているようだった。


「さっきの奴に、心当たりは?」

「な、ないよ……あんなの……!」


 ヨエルは何かを確かめようとするかのようにあたりを見回している。

 俺もつられて視線を動かすと、先ほどまでの無限廊下ではなく、ちゃんと部屋の扉もあるし、端も見えるいつもの館に戻っていた。

 その光景に少し安心する。


「あれは何か言ってたか」


 ヨエルが真剣にそう問いかけてくる。

 思い出したくはなかったが、なんとか記憶を探ってみる。


「そんなに、意味のありそうなことは何も……。なんか笑ったり、あと女……とか言ってたかも」


 あの気味の悪い笑い声が頭から離れない。

 ぎゅっとヴォルフの服を掴むと、安心させるように優しく抱き寄せられる。


「お前個人を狙ってたというよりも、単に獲物になりそうな女がいたから引きずり込もうとした、ってことか……」


 ヨエルは不快そうに眉を寄せている。


「ここで殺されなくてよかったな。下手したら魂ごと捕らわれてあいつの慰み者になってたかもしれねぇぞ」


 抱き寄せるヴォルフの力が強くなる。

 言葉も出ない俺に変わるように、ヴォルフは努めて冷静にヨエルに問いかけた。


「それで……なんなんですか、アレは」

「未練を残して死んだ者の彷徨う魂……が変質したものだろうな。どんだけ時間がたってるのか知らねぇが、たちの悪い魔物みたいになってやがる。ここに現れたってことは、昔ヴァイセンベルク家に処刑された犯罪者とかじゃねぇの」


 ヨエルは面倒くさそうにそう告げると、そのまま立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ行くか」

「えっ?」

「言っただろ、いろいろ仕掛けをしておいたって。あいつ、この館から出れないようになってるはずだ。……決着をつけるぞ」


 ヨエルは真剣な目をしてそう言った。


「……クリスさん」

「うん、大丈夫」


 本当は怖くてたまらないけど、何とかヴォルフの手を借りて立ち上がる。

 大丈夫、今度はヴォルフもヨエルもいる。


「……安心してください。今度は必ず仕留めます」


 ヴォルフはそう言って剣を抜いた。

 白い刃が、暗闇にも負けずに光っている。


「うん……行こう」


 ヨエルの話だと、今は静かだがあいつはまだこの館の中にいるということだった。

 あんな危ない奴を放ってはおけない。


 大きく息を吸って、俺たちは再び暗闇へと歩き出す。



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