30 森の奥のひきこもり
「あぁ、ヨエルさんですね。知ってますよ」
ヴォルフの目の前で、森番の少年──ニルスは無邪気な笑みを浮かべて、以前カブトムシを捕りに行った森の奥を指差した。
森、というからにはどこかの広大な森を想像していたが、まさかの敷地内だった。
一体なぜ彼はこんなところで引きこもっているというのか……。
「その人に会えば、なんとかなるのかな……」
「わかりませんが、何もしないよりはましです。行きましょう」
傍らで不安そうな表情を浮かべるクリスの手を取り、森の奥へと足を進める。
昨日の深夜からクリスがおかしな行動をとることはなかった。だが、いつまた屋上から飛び降りようとしたように奇行を取らないとも限らない。
ヴォルフが付いていられるときはヴォルフが、それ以外はラウラに目を離さないように言っておいたが、クリス自身も自分の行動を不安がっているようだった。
それも無理はない。知らない間に死のうとしていた、など恐ろしくてたまらないのだろう。
繋いだ手に力を込め、ヴォルフは先導するニルスの後に続いた。
「確かこのあたりに……あったあった。あそこです」
森の奥深くへと分け入り、進むことしばらく。
ニルスが指差した先には、確かに小さな小屋が存在した。
「こんなところに住んでるんだ……」
クリスが戸惑ったような声を上げる。ヴォルフも少し困惑していた。
ヴォルフはこの城で生まれ幼い頃を過ごしたが、こんなに森の奥深くに入るのも初めてであり、こんなところに人が住んでいることも知らなかった。
「その人、なんでこんなところに住んでるんだ?」
「さぁ……僕もあんまり話したことがないのでわからないんですけど、騒がしいのが嫌いみたいですよ」
「でも不便じゃない?」
「ここに生活必需品や日用品を届けるのも僕たちの役目なんです」
「へぇ……で、その人はここで何やってんの?」
「さぁ……」
クリスとニルスはこそこそと話し合っている。
目的の小屋は静まり返っており、人がいるのかどうかはわからなかった。
「ヴォルフリート様、その……ヨエルさんって、ちょっと気難しい人で、あの……」
「……わかった。案内ありがとう。助かった」
ニルスは恐れをなしたような目でちらちらと小屋の方を見ており、あまり近づきたくはないようだ。
小屋の入り口へと近づくと、慌てたようにクリスがついてきた。
ちらりと顔を見合わせ、ヴォルフは意を決して戸を叩く。
静かな森に、存外大きくノックの音が響き渡った。
「……」
「…………出ないね」
……応答はなかった。
もう一度力を込めて戸を叩く。やはり応答はなかったが、中でかすかに何かが動く音がした。
「不在ではないようですね」
「居留守? すいませーん。変な押し売りとかじゃないんで開けてくださーい」
クリスが声を張り上げ再び戸を叩いたが、やはり応答はなかった。
「なんだよ、感じ悪いな……こうなったら引きずり出してやる!」
「ダメですよクリスさん! そういうのは逆効果です!!」
どんどんと何度も戸を叩くクリスを慌てたようにニルスが止めている。
そんな中で、ヴォルフは確かにドアの向こうの舌打ちを聞いた。
「っ、下がって!」
とっさにクリスを戸から引きはがす。
次の瞬間、蹴破る勢いで内側から戸が開いた。
「……うっせーな! なんなんだよ!!」
機嫌の悪そうな声と共に、ドアの向こうには一人の細身の青年が立っていた。
年はクリスと同じくらいだろうか。肩のあたりまで伸びた灰色の髪に、同じく灰色の涼し気な瞳がこちらを睨んでいる。
「こ、こんにちは、ヨエルさん……」
「……森番のガキか。なんだ、嫌がらせか?」
小さく声をかけたニルスに、青年は鬱陶し気な視線を向けている。
どうやら、彼が話に聞いた魔術師の息子で間違いないのだろう。
「い、いきなり開けんなよビビっただろ!」
「てめーらががんがんうっせーからだよ、馬鹿メイド」
「はあぁぁぁ!?」
ヨエルの言葉に、メイド服のままだったクリスは憤慨した。
今にも飛び掛かりそうなクリスを必死にニルスが抑えている。
「クリスさん、今は抑えてください」
「でも、こいつがっ……!」
「ここに来た目的を忘れたんですか」
そう言うと、クリスは押し黙った。
ヴォルフは一歩進み出て、真正面からヨエルを見据えた。
「……ヴァイセンベルク家の人間か」
ヴォルフの容姿を見てそう判断したのだろう。ヨエルが目を細める。
「ヴォルフリート・ヴァイセンベルクと言います」
「あぁ、氷姫の……で、なんだ? 挨拶ならいらねぇからな」
仮にも城主の一族を相手にしているというのに、ヨエルは冷笑していた。
これは一筋縄ではいかないかもしれない。
ヴォルフはじっと目の前の青年を見つめた。
長い前髪の向こうから、どこか冷めた視線がヴォルフに向けられている。
きっと、彼に嘘や誤魔化しは通用しないだろう。
「……力を、貸してください」
まっすぐに目を見つめ、ヴォルフははっきりとそう告げた。
ヨエルはじっとその言葉を聞き、しばし逡巡した後、口を開いた。
「……断る。他を当たれ」
「はあぁぁぁ!? ちょっと待てよ!」
ドアを閉めようとしたヨエルに、クリスが慌てたようにドアを押さえた。
「話くらい聞けよ!」
「嫌だ。なんで俺がそんなことしなきゃなんねーんだよ」
「それは……」
クリスが言いよどむ。その隙にヨエルはドアを閉めようとしたが、ヴォルフは足をはさむようにしてその動きを止めた。
「……足をどけろ」
「嫌です」
「めんどくせーな、なんなんだよ。他の奴のとこ行けよ」
「『他』がいないからここに来たんですよ」
そう言うと、ヨエルは少し驚いたように目を丸くした。
ヴォルフは戸惑った様子のクリスを引き寄せ、じっとヨエルを見据えた。
「この人の命に関わることです。……お願いします、手を貸してください」
深く頭を下げると、クリスも慌てて同じように頭を下げていた。
数秒たち……ヨエルの大きなため息が聞こえた。それと同時に、少し焦ったような声が聞こえる。
「……あーわかったわかった! わかったから頭上げろ! まったく、ヴァイセンベルク家の奴に頭下げさせたなんて知られたら親父に殺されちまう」
言葉通りに頭を上げると、ヨエルはどこか呆れたような顔でこちらを見ていた。
「まったく……ヴォルフリート、だったか……そんな簡単に頭下げんなよ。軽く見られんぞ」
「頭を下げて解決するならいくらでも下げます。君の協力には、それだけの価値がある」
そう言うと、ヨエルは今度はクリスの方に視線を向けた。
「……理解できねぇな。たかが使用人一人だろ」
「僕にとっては、何よりも重い存在です」
それは、ヴォルフにとっては嘘偽りのない本音だった。
だが、そう言った途端ヨエルは盛大に顔をしかめ、クリスは真っ赤になった。
「…………なるほどね。趣味を疑うぜ」
ヨエルは呆れたような顔で、何かを察したようにヴォルフとクリスに視線をやった。
そして、小さくため息をつくと諦めたように一歩下がった。
「……入れ、話くらいは聞いてやる」
ヨエルは戸を開け放したまま小屋の中へと入っていった。
……とりあえずは、一歩前進だ。
「行きましょう」
「あ、うん」
ヴォルフが小屋の中へと足を進めると、すぐにクリスとニルスもついてきた。
ヨエルはなかなか厄介そうな青年だが、今は彼を頼るしかない。
不安そうなクリスの手を引き、ヴォルフはヨエルへと近づいた。




