29 誘う影
「ん……」
何かに呼ばれたような、気がした。
どうやらいつの間にか寝入ってしまっていたようだ。
ヴォルフがしつこく「なんちゃらの定理がうんたらかんたら」とか難しい話をするので俺は寝てしまったらしい。
少し肌寒さを感じて傍らの相手に伸ばした手は……空を切った。
「え?」
心地よいまどろみが一気に冷めてしまう。
ぱちりと目を開くと、ぼんやりとしたランプの光に照らされた室内が目に入る。
寝る直前まで一緒にいたはずの相手の姿はない。
「ヴォルフ……?」
起き上がり室内を見回したが探した相手の姿はない。
トイレにでも行ったのだろうか、そう思った時、ふと嫌な考えに襲われる。
──影の亡霊はその話を聞いたものを殺しにやって来る。
俺はレアにその話を聞き……ヴォルフに話した。
だったら、俺だけじゃなく……ヴォルフも影の亡霊に狙われる可能性があるってことだ。
「……!」
慌てて飛び起きる。
なんで、なんでその可能性に気が付かなかったんだろう……!
そっとヴォルフが寝ていたはずの場所に触れると、まだわずかに暖かさを残していた。
おそらくいなくなってそんなに時間は経っていないのだろう。
……大丈夫。きっとまだ間に合う。
震える手でランプを掴み、意を決して部屋の外へと出た。
静まり返った真夜中の廊下は、今すぐ暖かなベッドに逃げ帰りたくなるほど怖かった。
でも……ここで逃げるわけにはいかない。
ヴォルフはどこだろう。吸い込まれそうな闇の向こうに目を凝らした瞬間、上の方からかすかに物音がした。
「……三階?」
ヴォルフが、それとも他の何かか。
……迷っている時間はない。震える足を叱咤して、階段を駆け上る。
階段を上り切り廊下に目を走らすと、ちょうどかすかな白い人影が角を曲がっていくのが見えた。
慌てて追いかけようとした瞬間、背後からそっと腕を引かれる。
「え?」
慌てて振り返ったそこには……誰もいなかった。
人が隠れるような場所もない。ただ、俺が上ってきた階段が闇の中へと続いているだけだ。
小さなランプの明かりが届かない先、まるで奈落に続いているのではないかと錯覚させるように、階段の向こうに暗い闇が渦巻いていた。
その向こうに、なにかがいる気がした。
「ひっ……!」
俺の腕を引いたのは誰だ?
誰もいなかったのに!!
怖くなって必死に駆け出す。
さっきの人影、きっとあれはヴォルフだ。
早く、早くヴォルフのところへ行かないと……!
必死に走っているのに、何故だか体が重い。
まるで水の中を走っているかのように、ちっとも前へと進んでいかないような錯覚に陥る。
後ろに誰かがいる。早く逃げなければ。
角を曲がると、ずっと向こうをぼんやりとした白い影が歩いていた。
呼びかけようとしたが、声が出ない。
ただ必死に重たい体を動かして、追いかけるように、逃げるように走った。
◇◇◇
「くそっ……!」
ヴォルフは慌ててクリスが寝ていたはずの場所へと触れた。
……まだ暖かい。いなくなってそんなに時間は経っていないのだろう。
室内に目を走らせ、そこで変化に気が付く。
明かりを灯したままにしてあったランプと、クリスの靴が消えている。
その事実に、少しだけ安堵に胸をなでおろす。
クリスは連れ去られたわけではなく、自分で鍵を開け部屋を出て行ったのだろう。
ヴォルフはエントランスを通りまっすぐにここに戻ってきたが、その間クリスとすれ違うことはなかった。
おそらく、まだこの建物の中にいるのだろう。
廊下に出て、耳を澄ます。
すると、かすかに上から物音が聞こえた。
「……三階か!」
何故クリスがそんなところへ向かったのかはわからないが、このまま放ってはおけない。
ヴォルフは一気に階段を駆け上がった。
階段を上り切った所で、廊下の角を曲がっていく影が見えた。
「クリスさん!」
呼びかけたが、反応はない。
舌打ちし影を追う。
廊下を曲がった先にはさらに廊下が続き、その向こうに階段が伸びている。
あれは、屋上へと続く階段だ。
白い影はない。
だが、妙に嫌な予感がする。
ほとんど直感的に、ヴォルフは屋上へと続く階段へと駆け出した。
◇◇◇
「待ってよ」と叫びたいのに、声は出ない。
一体どれだけ走ったのだろう。まわりは妙に暗くて、ここがどこなのかわからない。
でも、目の前を行くアレに追いつかなくてはならない。それだけははっきりとわかった。
──まって
後ろから呼び声がする。
駄目だ、聞くな。あれはよくないものだ。
──まって
白い手が俺を捕まえようと伸びてくる。
何度か捕まりかけたが、なんとか振り払い走り続ける。
気が付けば、ずっと向こうに白い人影が待っていた。
その姿に、思わずほっとする。
よかった、早くあそこに行かないと……!
いつの間にか体は随分と軽くなっていた。
一息にその白い人影の元へ行こうとして……いきなり背後から強い力で掴まれる。
「……!」
追ってきた。捕まってしまった。あと少しだったのに……!
必死に逃げようともがくが、背後から伸ばされた腕は引きちぎりそうな強さで俺の胴体へと絡みついてくる。
暴れたが、抵抗むなしく地面へと引きずり倒されてしまう。
「やめろ、離せっ!」
逃げなきゃ、行かなきゃ、早く、早く……!
「っ……クリス!」
ぱぁん、と乾いた音と、一拍遅れて鋭い痛みが走る。
そこで、まるで世界が反転したかのような感覚に襲われる。
「ぇ……」
ぼんやりとした月明かりに照らされて、急に視界が開け、あたりの光景が目に入る。
……ここは、館の屋上だ。
俺を見下ろすようにして、息を荒げたヴォルフが俺の体を押さえつけている。
頬がじんじんと痛む。おそらく、ヴォルフが俺の頬を叩いたのだろう。
「……あんた、何やってんだよ!」
「ひっ……!」
ヴォルフは俺の胸ぐらをつかんだかと思うと、いきなり物凄い剣幕で怒鳴り散らした。
思わず体が竦む。
ヴォルフは俺が怯えたのに気が付いたのか、怒鳴るのをやめて小さく息を吐いた。
それでも食い込むほどに俺の肩を掴んだ手だけは離さなかった。
「……なにしようとしてたんですか」
「え……」
「ここで、何しようとしてたんですか……!」
声は抑えていたが、目だけは射殺しそうな視線で俺を睨みつけていた。
「な、なにって……」
「……覚えてないんですか。あんた、そこから飛び降りようとしてたんですよ!?」
ヴォルフはそう言って、ある方向を指差した。
つられてそちらに視線を向ける。そこには、俺の腹の高さほどの手すりがあった。
その向こうは……何もない。その手すりを超えてしまえば、地面まで真っ逆さまだ。
……とても、助かるような高さじゃないのに。
「うそ……」
「なんで、こんなところに来たんですか」
「だって、お前がいなくて……探して……」
そうだ。俺はヴォルフを探して、追いかけてここまで来たんだ。
それなのに、どうして……。
そこから、飛び降りようとしていた……?
そう理解した瞬間、体が勝手にがたがたと震えだす。
だって、だって……なんでこんな…………
「……戻りましょう」
ヴォルフは小さく俺の頬を撫でて、落ち着いた声でそう切り出した。
そして、震える体を抱き上げられる。
「掴まって。……目、閉じて」
言われたとおりに首元に顔をうずめ、ぎゅっと目を閉じる。
また何かが追いかけてくるんじゃないかと怖かったけど、不思議とそのぬくもりを感じると安心できた。
やがて部屋にたどり着き、優しくベッドに降ろされる。
「僕が見てるので、寝てください」
「うん……」
有無を言わさぬ口調でそう言われ、俺はただ頷くことしかできなかった。
ヴォルフがぎゅっと俺の手を握る。とても眠れる状況じゃなかったが、ただ繋がれた手だけを頼りに、そっと目を瞑る。
とても、長い夜だった。
◇◇◇
「へぇ、そんなことがねぇ」
目の前のジークベルトは形の良い眉を顰め、何事か考え込んでいる。
「それでクリスちゃんは?」
「今はラウラがついてます。朝方に少し眠って……起きてからは奇行は見せてませんね」
夜中に様子のおかしくなったクリスが屋上から飛び降りようとした。
ありのままに話すと、二人の兄は訝しげに黙り込んでしまう。
「まさか関係ないとは思いますが、巷では『影の亡霊』とかいう噂話が出回っているようで」
「影の亡霊ねぇ……そんな危ない亡霊が出現してるならもっと騒ぎになりそうだけど」
それは、ヴォルフも考えていたことだった。
クリスの聞いた「影の亡霊」とやらの話が本当であれば、もっと皆慌てていてもよいはずだ。クリスに話したそのメイドも、きっとクリスをからかうつもりだったのだろう。とても「影の亡霊」がそんな力を持っているとは思わなかった。
「影の亡霊……シュヴァルツシルトの手の込んだ嫌がらせではないのか?」
「いくらあの陰気な奴らでもこんな風に喧嘩売ってきたりはしないと思うけどね。それに、クリスちゃんだけがおかしくなったのも引っ掛かる」
博識なマティアスでさえ思い当たるふしが無いようだ。
彼は眼鏡の奥から、何かを探るような視線をヴォルフに向けていた。
「お前、あいつの嫌がることを無理強いしてるんじゃないのか?」
「……してません。まさか、クリスさんが自分の意思で自殺を図ったって言いたいんですか……!」
「何もわからない以上、その可能性も排除できないだろう」
次兄の言葉に、思わずヴォルフは黙り込んでしまう。
クリスは死ぬほど追いつめられていたのだろうか。とても、そんな風には見えなかった。
「まぁそれはないと思うよ。あの子はそういう子じゃない。詳しく調べてみないとわからないけど、感覚的にはこの城で異変があったようにも思えないけどね」
ジークベルトは特に気にしてないとでも言うように軽い調子でそう言った。
彼の態度を見る限り、大々的に何かが仕掛けられた、という可能性は薄いのだろう。
「それで、別館を調査したいんです。確か退魔に詳しい魔術師とかいましたよね。少し貸してもらえませんか」
「あぁ……そうしてやりたいのはやまやまなんだけどね。あいにく父上について王都にいるんだよ」
「そんな……」
望みが断たれ、ヴォルフは気落ちした。
また今夜にでもクリスが奇行を起こすかもしれない。悠長に構えている暇はない。今すぐにでも何とかしなければならないのだ。
こうなったら寝るときに手錠でもはめておくか……とヴォルフが考えた時、ジークベルトが何かを思いついたかのように声を出した。
「そうだ! 件の魔術師は王都だけど、彼の息子がここにいたはずだ。そんなに話は聞かないけど、ある程度の心得はあるんじゃないかな」
「あぁ、オスカリウスの息子か。あれは確か……今は何をやっているんだ?」
「さぁ……」
ジークベルトとマティアスは顔を見合わせて首をひねっている。
やがてジークベルトが家令を呼び寄せ、何事か尋ねていた。そして、にっこり笑ってヴォルフの方を振り返る。
「わかったよ。彼の居場所」
今は一刻を争うときだ。
その魔術師の息子がどの程度役に立つかはわからないが、何もしないよりはましだろう。
藁にもすがる思いで、ヴォルフは続きを待った。
「名前はヨエル。……森の奥の小屋で、引きこもって暮らしてるって」
「…………は?」
……本当に大丈夫なのだろうか。
ヴォルフは一抹の不安を覚えた。




