104 宵闇の逃走劇
大きくて、筋肉隆々の、二足歩行の狼。
俺たちの目の前で、あの親切な青年――ラグナルは、そんな姿に変化したのだ。
俺は、すぐにはその現実を受け入れられなかった。
だって、ラグナルは人間だったのに。
それなのに、どうして……
なんてぼけっとしている暇はなかった。
ウェアウルフの鋭い視線がこちらを向いたかと思うと、ものすごい勢いで飛び掛かって来たのだ。
「危ない!」
悲鳴を上げる暇もなく、ヴォルフが俺を抱き込むようにしてラグナルの突進を回避する。
そしてすぐに立ち上がったかと思うと、俺の手を引っ張るようにして洞窟の外へと駆け出した。
「ねぇ、ラグナルは!?」
「今はとにかく逃げないと!!」
ヴォルフは有無を言わせぬ強い口調でそう告げると、一目散に森の奥へと走っていく。
背後からは獣のうなり声が聞こえてくる。あれはきっと、ラグナルの……
暗い森の中を、ヴォルフに引きずられるようにして駆け抜けていく。
木々の間からうっすらと差し込む満月の他は、ろくに明かりもないほとんど真っ暗な空間だ。
それでも、ヴォルフは迷うことなく障害物を避けつつ走っていく。
ヴォルフは夜目の効く吸血鬼だ。
……狼男と同じく、人間とは違う存在。
狼男……
その存在自体は、俺も知っていた。
吸血鬼と同じ魔族の一種で、人を襲う化け物だ。
満月の夜に変身するとか、普段は人と同じように生活しているとかいろいろな逸話はあるけど、俺はほとんどおとぎ話の存在のような。まさか本当にでくわすことがあるなんて思っていなかったんだ。
でも、そうじゃなかった。
ヴォルフは吸血鬼だ。それに、前にシュヴァンハイムの街に現れたイリーナのように……確かに、夜の闇に紛れるようにして……吸血鬼は存在した。
だから、同じようにウェアウルフがいてもおかしくはないんだ。
「さっきのラグナルは、とても理性があるような状態には思えません……! とにかく、月が沈むまではどこかに隠れて――」
言葉の途中で、頭上を何かが飛び越えていった。
ヴォルフが慌てたように立ち止まり、俺を庇うように背後に隠す。
そして、木々を揺らしながら降りてきたのは……
「ラグナル……!」
荒い咆哮と共に、狼男の巨体が地面に降りたつ。
そのぎらついた金の瞳は、明らかに獲物を狙っているようだった。
――逃げられない
一瞬で、そう悟ってしまった。
今のウェアウルフに変化しているラグナルのスピードは、明らかに俺たちを超えている。
それに、ここはラグナルが知り尽くした場所だ。
どう考えても、俺たちが逃げ切れるわけがないんだ……!
「……クリスさん、下がっていてください」
「ヴォルフ!?」
ヴォルフは覚悟を決めたように、落ち着いた声でそう告げた。いつの間にか、その傍らには精霊フェンリルの姿もある。
こいつ……まさかラグナルと戦う気か!?
ラグナルはまるで間合いを測る獣のように、じっと俺たちの出方を窺っているようだ。
……本当に、今のラグナルは理性を失った獣のようになっている。
俺たちのことも、ただの餌だとしか見れないのかもしれない。
ヴォルフは手負いの状態で、さっきのラグナルの身体状況から考えると……
「無理だって、あんなの!!」
「でも他に方法はない」
「だからって……っ!」
言葉の途中で、ラグナルは再び俺たちの方へと、咆哮をあげながら物凄い勢いで突進してきた。
「ちぃっ!」
ヴォルフは俺を突き飛ばすと、ナイフを抜いて逆にラグナルへと飛び掛かった。
あいつ、殺す気か……!?
「ヴォルフ!!」
ヴォルフが素早い動きでラグナルの首を狙う。
だがラグナルもそれを察したのか、素早い動きで身を引いた。
そして、ヴォルフの腕を掴むと力いっぱい地面に叩きつけたのだ。
「ヴォルフっ!!」
だがヴォルフも負けてはいない。
まるでばねのような鮮やかな動きで、体勢を立て直すと同時に狼男の巨体を蹴り飛ばす。
狼男――ラグナルは勢いよく吹っ飛んで、背後の木に激突しバサバサと鳥たちが飛び立っていく。
だが、ラグナルはすぐにむくりと起き上がり、ヴォルフに飛び掛かっていく。
「ヴォルフ、ラグナル……!」
俺は止めに入ることもできずに、ただただ二人が傷つけあうのを見ていることしかできなかった。
俺の足元にもスコルとハティが現れていたが、二匹はラグナルに恐れをなしたかのようにぶるぶると震えていた。
……そりゃあ怖いよな。正直俺も怖い。
今のラグナルは理性を失っている。あいつはヴォルフを殺そうとしている。そして、ヴォルフが済んだら次は俺を。
ヴォルフだって負けてはいないけど……この状況じゃ手加減はできないだろう。
二人とも、俺が見ている前でどんどんぼろぼろになっていく。
今までずっとラグナルは普通だった。
ということは、きっと満月の夜が終われば彼は元に戻るだろう。
おそらくこの戦いは、満月が沈み朝が来れば終わる。
もしくは……ラグナルとヴォルフ。どちらかが死ぬか――
「っ……!」
駄目だ。そんなことはさせない。
考えろ。どうすればこの状況を打破できるかを――!
俺が今ヴォルフに加勢したとしても、役に立つとは思えない。
すぐさまラグナルに殺されるか、ヴォルフの邪魔になってしまうだろう。
だったら、他に何か方法が――
必死にそう考えた時、急に頭がクリアになる。
俺の内側から何かが囁きかけてくる。
そうか、そうすれば……
「大丈夫…………」
ヴォルフもラグナルも、こんなところで死なせたりはしない。
覚悟を決めて、俺は二人に向き直った。




