102 久しぶりの補給
目覚めたヴォルフは二日くらい死んだように眠っていた割には、意外と元気そうだった。
その様子を見て俺はほっとした。こっそり血を飲ませていたのが、功を奏したのかもしれない。
ヴォルフは明らかにラグナルのことを警戒していたが、崖下に倒れていた俺たちを助けてくれたのもこいつだと説明すると、すぐに態度を変えた。
「そうですか、ありがとうございます……」
「いいっていいって! そんなに気にすんなよ!」
ラグナルがいい奴でよかった。
もしラグナルに拾われなければ、俺もヴォルフも今頃冷たい土の上で凍死していたかもしれない。
「お前まだ本調子じゃないだろ。しばらくは安静にしとけ」
「別にそんなことは……」
ラグナルにそう言われ立ち上がろうとしたヴォルフは、そのままがくりと膝をついてしまう。
俺は慌ててその体を支えた。
「ほら見ろ。無理するとまた傷開くぞ」
今日はおとなしくしてろ、と軽くヴォルフの肩を叩いて、ラグナルはいつものように洞窟の外へと出て行った。
その背を見送って、俺はほっと一息つく。
「心配させやがって……」
ラグナルが戻ってこないのを確認して、ぎゅっと強くヴォルフに抱き着く。
「クリスさん……」
「もう起きないかと思った」
「すみません、その……」
ヴォルフがおそるおそるといった様子で抱きしめ返してくれる。
その暖かな体温に、うっかり涙が溢れそうになってしまう。
「あなたも……無事でよかった」
強く抱きしめられると、それだけで胸がいっぱいになるようだった。
……お前がかばってくれたんだろ、とか。
……こんなに心配かけて許さない、とか。
言いたいことは色々ありすぎるほどあるのに、うまく言葉にできない。
ただ俺は必死にヴォルフにしがみついて、みっともなく泣くことしかできなかったんだ。
◇◇◇
「…………はっ!?」
なんか香ばしい匂いがするな……とぼんやり考えたところで、やっと意識が覚醒する。
慌てて飛び起きると、洞窟の外から美味しそうな匂いが漂ってきていた。
「おっ、起きたか!」
ラグナルが軽く手を振って声をかけてくる。
見れば、ヴォルフとラグナルの二人で火を起こして魚を焼いているようだった。
……どうやら俺は、ヴォルフにしがみついて泣いたまま、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
うぅ、いい年して恥ずかしいな……。
「ちょうど昼飯ができたんだ。クリスも食べるだろ?」
「うん…………」
ちらりとヴォルフの方に視線をやると、もくもくと魚を焼いていた。
その元気そうな様子に安堵に胸をなでおろす。
そして、俺も熱々の魚にかぶりついた。
昼食を食べると、ラグナルはいつものように森の方へと出かけて行った。
「ラグナルは……狩人なんですか?」
「うーん……たぶんそんな感じかな」
ただしあいつは弓などは使わない。
自らの体で獲物をねじ伏せ、弱肉強食の世界を生き抜いているのだ……と説明すると、ヴォルフは微妙そうな顔をしていた。
「はぁ……変わってるんですね、彼」
「でも、いい奴だよ」
「それは僕もわかります。しかし何でこんなところに住んでるのか……」
それは俺にもわからない。
俗世が嫌でこんなところにいる……のかと思ったけど誰かと話すのは楽しいって言ってたし、あいつはまだ若いのに、なんでこんなところで一人で暮らしてるんだろう。
うーん……やっぱり考えてもよくわからない。
「でもラグナルがいてくれて助かったよ。そうじゃなきゃ、俺たちも助からなかったかも」
「俺たち『も』……?」
目ざとくその部分を聞きつけたヴォルフに、俺は己の失言を悟った。
……でも、いつまでも隠し通せることじゃない。
「ラグナルが言ってたんだけど、このあたりに……たぶんあの襲撃で、崖から落ちて亡くなった人の遺体が転がってったって……」
「……そうですか」
ヴォルフはそれだけ言うと、じっとうつむいて押し黙ってしまった。
「……お前のせいじゃないよ。グスタヴがお前やヨエルの言うことを聞かないから」
「…………それでも、僕がもっと強く止めていれば」
「仕方ない、ことだよ」
慰めにはならないだろうけど、ぴったりと体を寄せてヴォルフにもたれかかる。
ヴォルフはなにを考えてるのかわからないけど、じっと洞窟の外を見ているようだった。
「早く元気になって、上に戻ろう? ヨエルやアストリッドはちゃんと撤退してるだろうし」
「そうですね……」
ヴォルフが力なく俺の方を振り返る。
なんだか胸が詰まったような気分になってぎゅっとその体を抱きしめると、そのまま背後に押し倒された。
「えっ?」
「……補給したい」
俺の胸のあたりに顔をうずめて、ヴォルフはくぐもった声でそんなことを言い始めた。
補給って……吸血したいってことなのかな。
「わかっ……ちょっと待って!!」
了承しようとして、俺は慌ててあることに気づいてヴォルフの下から抜け出す。
「その……水浴び、してくるから」
ここの落ちてから、一応綺麗な水で体拭いたりはしてたけど、ちゃんとした水浴びはしていなかった。
そんな状態でぺろぺろされたり吸血されるのはさすがに恥ずかしい……!
水場についてはラグナルに場所を聞いていたので慌てて立ち上がろうとすると、ヴォルフが再びのしかかってきてまた地面に押し倒されてしまう。
「そのままでいいから」
「馬鹿! 俺がよくな――ひゃうっ!」
やばい、こいつもうその気になってやがる……!
「待って、汚いからぁ……!」
「別に気にしない」
「ばっ……俺が気にし――あひぃ!!」
残念ながら俺とヴォルフじゃ、圧倒的にヴォルフの方が力が強い。
こうして俺はなすすべもなくご主人様に貪られてしまったのであった。
◇◇◇
……やりすぎた、とヴォルフは少しだけ申し訳なくなった。
目の前では、ぐったりとしたクリスが意識を手放している。
どうやら生命の危機に陥ると、吸血欲やらいろいろなものが高まるようだ。
自制していたつもりだったが、ついタガが外れて思いっきりがっついてしまった。
クリスとて心身ともに弱っているだろうに、申し訳ないことをしたと後悔しても後の祭りだ。
とりあえずクリスを抱き上げ、そっと寝床に横たえる。
心の中で謝りつつ軽く体を拭いてやり、なにやらむにゃむにゃと呟いているクリスの前髪を払う。
……クリスが無事で、本当によかった。
今回はヴォルフの不手際でクリスを危険に晒してしまった。
そのことで自己嫌悪しつつ、ヴォルフはそっと眠るクリスの髪を撫でた。
……いっそ、クリスと二人で何も恐れるものも、戦いもない平和な場所へと逃げてしまおうか。
そう思ったことも、一度や二度じゃない。
それでも、きっとクリスは了承しないだろう。
クリスは臆病で、馬鹿で、どうしようもなく弱いくせに……いつも、前を向いている。
すぐに嫌なものから逃げ出そうとするヴォルフとは大違いだ。
だから、そんなクリスに見合う、隣に立つにふさわしい男になるために、ヴォルフは逃げるわけにはいかないのだ。
クリスの周りに集まる人物は、皆クリスと同じように前を向いている。
ヴォルフがいつも後ろ向きなことばかり言っていれば、いずれクリスに見放されてしまうだろう。
そんなことになれば、自分が何をしでかすかわからないのが、ヴォルフは恐ろしかった。
「…………はぁ」
気づけばどんどんと深みにはまっていく思考を振り払おうと、ヴォルフは緩く頭を振った。
ヴォルフとて、クリスにはいつも笑っていて欲しいと思う。
だから、今はクリスに釣り合う男になれるように、ひたすら努力あるのみだ。
そう自分を鼓舞したところで、外から足音が聞こえてきた。
「お、クリスは寝たのか?」
やって来たのは、やはりラグナルだった。
それもそうだ。この辺りに落ちてから、彼以外の人間を目にした記憶はないのだから。
「はい、やはり疲れていたようで……」
「そっか、ここ何日かはずっとお前につきっきりだったからなぁ」
ラグナルの言葉に、不謹慎にも嬉しさが込み上げる。
クリスが自分のことを心配してくれていた。その事実が、何よりもヴォルフの心を浮かび上がらせる。
「……なぁ、ヴォルフ」
ふと、ラグナルに問いかけられる。
「お前はクリスのこと、好きなのか?」
振り返ると、逆光でラグナルの表情はよく見えなかった。
彼が何の意図でそんなことを口にしたのかはわからないが、答えを躊躇するような質問でないのは確かだ。
「……はい、僕にとって、誰よりも大事な人です」
「本当に?」
ラグナルの声色が変わった。
一歩一歩、ラグナルはヴォルフとクリスの方へと近づいてくる。
近くまで来てやっと見えたその表情は、いつもの快活な笑顔とは違い、どこか冷たい目をしていた。
「お前は、ただ都合のいい餌としてクリスを傍に置いてるだけなんじゃないか」
告げられた言葉に、ヴォルフは思わず息をのんだ。
「……どうなんだよ、吸血鬼」
そう言ったラグナルは、冷たい笑みを浮かべてヴォルフの方を見降ろしていたのだ。




