100 寒地の青年
水を汲んだ青年が戻ってきても、ヴォルフは目覚めなかった。
傷つけないようにそっと服を脱がせ、溢れる血を拭っていく。
「怪我自体は大したことない……わけでもないが、致命傷になりそうな傷はないな」
「うん……」
「ただ、かなり衰弱してる。しばらくは危ないかもな」
青年は淡々とそう告げた。
危ない、という言葉を聞いて涙が溢れそうになったけど、ぎゅっと拳を握り締めてなんとかこらえる。
泣いてる暇なんかない。そんな暇があったら、少しでもヴォルフの為に何かしないと。
「水飲ませてやれよ。脱水症状に陥ったらよくなるものもよくならないぞ」
「うん、ありがとう……」
青年から水筒を受け取り、そっとヴォルフの口に持っていく。
優しく流し込もうとしたけど、水は口に入ることなく零れてしまう。
こうなったら……
ぐい、と自分で水を口に含み、口移しの要領で水を飲ませていく。
唇を合わせ、舌で流し込むようにしてやると、確かにこくり、とヴォルフの喉が動いたのが分かった。
その動きに安心して、少しずつ水を飲ませていく。
「…………おぉ」
その様子を見ていた青年が、驚いたような声を上げた。だが、気にしている暇はない。
まだまだ緩慢で弱弱しい動きだったけど、確かにヴォルフは水を飲んでくれた。
そのことに少しだけほっとする。
「すげぇな、あんた……」
そっとヴォルフの頭を撫でていると、青年が俺の隣に屈みこみ、感心したように声をかけてきた。
「そいつ、あんたの彼氏なのか?」
「…………そんな感じ」
「へぇ、やるなぁ。あんたは比較的怪我も軽いみたいだし、そいつがかばったのかもな」
「…………」
「お、おいっ、泣くなよ……」
「泣いてない……」
ぐし、と溢れそうになった涙をぬぐい、俺は青年に向き直った。
青年はどこかきょとん、とした表情で俺の方を見ている。
「その、厚かましいってわかってるけど……今夜、ここに泊まらせてもらってもいいか?」
洞窟の入り口から外の様子を見る限り、じきに日が暮れてしまうだろう。
この青年にとっては迷惑だろうが、できればここにいさせて欲しかった。
青年は一瞬驚いたように目を丸くして、すぐにおかしそうに笑いだした。
「なんだ、そんなことか! 気にすんなよ。俺も手負いの人間を寒空に放り出すほど冷血じゃないからな」
「……ありがとう。何から何まで」
運よく彼に出会えなかったら、俺たちは今でも寒い台地で吹き曝しになっていたことだろう。
丁寧に頭を下げると、青年は気にするなとでも言うように俺の肩を叩いた。
「あんたは彼氏のことだけ考えときな。俺はちょっとまた外見てくるから、遠慮なくここにいろよ」
そう言って、青年はまた洞窟の外に出ていく。
それを見送って、俺は懐からナイフを取り出した。
一応、武器として杖以外にもいざという時の為にナイフは常備してある。戦闘以外にも、いろいろ使えるし。
そして右手でナイフを持ち……意を決して左腕に滑らせる。
「っ……!」
鋭い痛みが走り、すぐに左腕から血が溢れ出す。
その血を丁寧に舐めとり、口に含み……そして再び、未だ目を覚まさないヴォルフに口づける。
押し込むようにして血を流し込んでやると、確かにヴォルフの舌がその味を求めるようにして動いたのがわかった。
「……欲しいだけ、あげるから」
お前が元気になるなら、俺の血くらいいくらでもあげるから。
吸血鬼は血を飲むことで力を得ることができる……はずだ。
どのくらい効果があるのかはわからないが、今は少しでもできることをしたい。
そのまま青年の戻ってくる足音が聞こえるまで、俺はひたすらヴォルフに血を飲ませ続けた。
◇◇◇
戻ってきた青年は、手慣れた手つき火をおこし、食事を作り始めた。
俺はただぼぉっと、その様子を見ていた。
「……そういえば、まだ名前聞いてなかったな」
ふとそう口にすると、青年が驚いたように振り返る。
「名前?…………俺の?」
「他に誰がいるんだよ」
くすりと笑うと、青年はどこか照れたように視線を逸らした。
「名前、なんて聞かれたの……久しぶりだ」
「え、そうなの?」
「ていうか、人間との会話自体も久しぶりな気がする」
「えっ」
俺は驚いてまじまじと青年を凝視してしまった。
人間との会話が久しぶりって……どういう状況なんだ?
青年は一度調理の手を止めると、少し緊張気味に俺の方を振り返った。
「……俺はラグナル。もうずっと、この辺りで暮らしてる」
「この辺りって……」
ここはミューレンとトレーマを結ぶ山道の、かなり下の方で、見たところ近くに人里らしき場所はなさそうだ。
この辺りで、暮らしてるって……
「ここ。この洞窟周辺だよ。狩りとかしてれば案外何とかなるもんだぜ」
そう言って、青年――ラグナルは笑った。
俺は絶句してしまった。俺と大して年も変わらなそうなラグナルが、こんな山奥でたった一人、大自然を相手に生きているなんて。
「……家族は」
「いない」
「ごめん……」
「別に、気にしなくてもいいぜ。もうずっと昔からいなかったから」
ラグナルは火で焼いていた魚を一つ手に取ると、俺の方に差し出した。
「ほら、食えよ。あんたも腹減ってるだろ」
「……ありがとう」
ヴォルフがまだ目覚めないのに、とは思ったが、腹が減ってるのは確かだ。
俺はラグナルがくれた魚にかぶりついた。
熱々で口の中が火傷しそうになる。
そして、ほとんど味がつけられていない魚は、普段城でのエーリクさんが作るおいしい料理になれてる俺にとっては、少し味気なく感じられた。
でも、そんな文句は言ってられない。
むしゃむしゃと熱々の魚にかぶりつく。
「……俺は名乗ったぞ。あんたは?」
そうラグナルに促されて、俺はやっとまだ名乗っていないことを思い出す。
「あ、ごめん。俺はクリス。怪我してるのは、ヴォルフって言うんだ」
「ふーん、クリスにヴォルフか……あんたら、なんで落ちてきたんだ?」
正直に話すべきかどうか、迷った。
でも、ラグナルはこんなに俺たちによくしてくれてるのに、変な嘘はつきたくない。
「……上で、戦いがあって。俺がドジ踏んで、ヴォルフと一緒に落ちたんだ」
「戦いか……」
ラグナルはふと思案するように目を伏せた。
鳶色の髪がゆらゆらと炎に照らされて、まるで燃えているようだった。
そして、彼は小さくため息をつくと、ぽつりと言葉をこぼす。
「……向こうの方に、いくつか死体が落ちてた」
「っ……!」
「あんたら、運が良かったんだな」
きっと、俺たちと同じように落とされた兵士の死体だろう。
その光景を想像して、胸のあたりがつきんと痛む。
少し前までは、俺もヴォルフも城の中で平和な生活を送っていたはずなのに。
たった少しの間に、随分と遠くに来てしまったような気がする。
「……今日は早く寝ろよ。あんたまで倒れるぞ」
「うん……」
とても眠れそうな気分じゃなかったけど、眠らないとどんどんと体調は悪化していく。
せめて体を休めようと、俺はラグナルの言葉に従った。
「悪いな、こんなのしかなくて」
「ううん、十分だよ。ありがとう」
ふわふわの毛布……なんて贅沢なものはないので、ラグナルが貸してくれた毛皮をかぶり、眠りにつく体制に入る。
ラグナルの毛皮はごわごわでちくちくでやっぱり獣臭かったけど、文句なんて言えるはずがない。
それに、以前……世界を救うためにあちこち旅をしていた時は、こうやって野宿をすることもよくあったんだ。
その頃のことを思い出して、ちょっと懐かしい気分になる。
あの頃は、夜更かしするとよくヴォルフに注意されたっけ……。
そう思うと急に怖くなって、傍らのヴォルフにぎゅっと抱き着く。
その体はまだ冷たかったけど、こうしていれば少しは温まるかもしれない。
「明日には目覚めるといいな」
「……うん」
今は俺とラグナルでぴったりとヴォルフを挟み込むような形になっている。
もし明日この状態で目が覚めたら、ヴォルフは驚くかな。
……なんでもいい。もう一度、目覚めてくれるなら。
「おやすみ、ラグナル」
「…………あぁ、おやすみ」
どこか戸惑ったようなラグナルの声を聞きながら、俺はそっと目を閉じた。
100話到達です!
たぶん200話になっても終わってないと思います!!




