幕間 ①
目を覚ますと、隣はもぬけの殻になっていた。
寝具がきれいにたたまれていて、茶でも沸かそうとしたのか、小さな土鍋が火にかけられている。
コマはどこに、と周りを見回して湖のそばに小さな後ろ姿を見つけた。
物凄く真剣な表情で湖面を見つめている。
何かあったのかと同じように視線の先を追うが、時折波打つ湖面には、数匹の魚がゆっくりと泳いでいるだけだった。
その魚を、物凄く真剣に見つめるコマ。
なんとなく声をかけるのをためらっていると、一匹がパシャンと音をたてて跳ねた。
小さな両手が拳を握りしめ、目を輝かせて、今にも食いつきそうな勢いで身を乗り出すコマ。
・・・もう、聞かなくてもなんとなく分かった。
今、この子供の小さな頭の中はあの魚の調理法でいっぱいに違いない。
魚は次々と湖面を跳ね、無防備にその優美な姿をさらしている。
金と緑の縁取りがされ、どこまでも美しく気品に満ちたその姿は、さすが守護精霊に護られた湖に暮らす魚だというべきだろう。
イリキは起きてからさほど時間がたっていないのに、もう痛みだした頭を片手で抑えた。
そう、この湖は、守護されている。その守護の対象は、泉と湖を形成するもの全て。
つまり、あの魚も守護下にある、ということで。
食料にして良いわけがない。
「待て、コマ!」
目の前でフラフラと水の中に入って行こうとするコマの襟首を掴んで引き戻すと、丁度襟が喉を絞める形になったコマが激しく咳き込んだ。
「・・・っきなり、なにするのさっ!?」
げほげほ咳き込みながらも、鳩尾を狙って足を繰り出してくる。それほど痛みはないが、すぐに足が出るというのは、あまり好ましくない傾向だ。
「あのな、ここは彼女の守護地だ。朝食なら、まだミルヒが残ってるだろう」
「知ってるよ。ひとつミコトにあげてもいい?」
三つ残っていることも確認済みか。
言いながらも、コマの視線は魚に釘付けだ。
「大体、なんの道具もなしにどうやって・・・」
「しっ。・・・始まるよ」
声を潜めながらも、隠しきれない興奮にコマの声が震えている。
だから、何が、と言おうとして湖面に視線を送って、息をのむ。
魚達が、ひときわ高く跳ねると、その瞬間。
まるで、服を脱ぐように、するりと。
金と緑の皮が剥け落ちた。
「・・・脱皮?」
次々と跳ねては皮を脱いでいく魚たちは、より鮮やかな鱗を纏ってゆっくりと泳いでいく。
「この魚はね、ミコトの眷族なんだよ」
陽の光を受けて煌めく鮮やかな魚たち。
「錦水魚っていうんだ。綺麗でしょ?」
「ああ。・・・てっきり、食べようとしているのかと思った」
いくらなんでもそんなわけないよな、と苦笑すると、コマは不思議そうな顔をして少し首を傾げた。
「食べるよ?」
・・・お前、今、眷族だって言ってなかったか?
なんでもないことのように言うコマに再び頭痛を感じていると、コマがいそいそと湖面に手を伸ばす。
拾い上げたのは、脱皮した後の魚の皮だった。
「錦水魚の皮ってね、このまま食べても美味しいけど、さっと湯通しすると最高なんだ」
乾燥させても美味しいんだけど、そこまで我慢できないんだよねぇ、と目を輝かせて今にもよだれを垂らしそうなほどで。
イリキは、再び痛み出した頭を軽く抑えて息をつく。
「コマ。この魚を最初に食べたのは・・・?」
「初めて“彼”と会った時だけど?」
「・・・この魚に釣られて、水運びを手伝っていたんだろう?」
「うん、それもある。だって、本当に美味しいんだよ!」
なんでもないことのように頷き、嬉しそうに満面の笑みを浮かべるコマに、頭痛はひどくなる一方だ。
初めて“彼”に声をかけられた時も、こうして食べ物につられたに違いない。
早く、ロクルスタに入って資金を調達しよう。
このままだと、途中で別の旨い物に釣られて、何処かへ行ってしまうかもしれない。
「ほら、食べてみて!」
かなり真剣に今後の予定を立てているイリキに、コマが回収した魚の皮を一枚、渡す。
生のままで口にするのはかなり抵抗があったが、コマは滅多に見な・・・食事を前にした時にしか見せない、期待に満ちた目を輝かせてこちらを見守っている。
意を決して一口齧ると、独特の歯ごたえのあと、口いっぱいに上品でまろやかな甘味が広がった。
「・・・うまい」
「でしょっ!?」
コリコリとした食感の皮は、噛めば噛むほど香りが強くなってくるのに、しつこくなく、むしろさっぱりとしてして、もっと味わいたくなる。
つい夢中で噛んでいると、コマも同じように一枚かぶりついて、くぅ~っ、と幸せそうに喉を鳴らした。
「うん、美味しいっ!」
全身で喜びと満足を表現するコマを見ていると、なぜかこちらまで満たされた気分になってくる。
本当に、食べさせがいがある子供だ。
セイランに着いたら、郷土の旨いものを嫌と言うほど食べさせてやろう。
残りの皮をかじりながら、イリキは今後の日程と共に、セイランについてからのコマの餌付け計画を立て始めた。
・・・叶うことなら。
この小さな言術士が、少しでも、セイランを好きになってくれるように。




