背に腹は代えられない 23
いくらうっとりと聞きほれてしまうような美声でも、いや、聞きほれるだけの美声だからこそ、そこに込められた怒りの感情の伝播は凄まじい。
さすがに首を絞められて揺さぶられている状態で引きずられはしないけど、込められた気迫に胃がぎゅっと引き絞られるような感覚に見舞われて、コマは大きく息を飲んで、腹の底に力を込めて耐えた。
“彼”と出会った状況を聞いたあとは、力が抜けた様に襟首から手を離して頭を抱えて呆れ返った視線を投げてくる。
一瞬も逸らさないその視線が、なんだかとっても痛い。
コマは、なんだか天敵を前にした被捕食者の気分だった。
え。今もしかして僕、イリキの攻撃対象!?
どっと冷や汗が出てくる。
セイランの口は敵に回したくない。とくに今は苛烈なまでに緻密な“指示”を見た後だから切実にやめてほしい。
それに、どうしてイリキはこんなに怒っているのかがわからない。
“彼”の“真名”に何の仕掛けも無いことは分かっているはずなのに。
確かに軽々しく“真名”を教えるのはもってのほかだけど、イリキには今更だし。
「あのさ、イリキは何を怒っているの?」
意を決して尋ねてみると、ただでさえでも痛い視線が肌にざっくり突き刺さるような鋭さできらめいた。
ま、まずい、また雷がっ!
怒鳴られるのも首を絞められるのも、揺さぶられるのも、もう勘弁してほしいコマは、とっさに飛びずさってイリキから距離を取る。それまでコマがいた場所で、イリキの腕が空を切った。
「いや、わかるよ、わかってるよ!? 僕が“彼”の“真名”をイリキに教えたから、怒っているんでしょ? でもさ、もうイリキは何度も“彼女”の“真名”を呼んでいるんだから、今更じゃない」
「・・・つまり?」
地を這うような低音でもイリキの美声はそのままで、コマの目がクルリ、と大きく動く。
「だからさ、“彼”と“彼女”の“真名”は同じじゃないけど、通じあっているから、」
“彼女”の“真名”を呼んだ時点で、“彼”の“真名”を呼んだのと同じことだよ、と続けようとしたコマの言葉は続かなかった。というか、続けられなかった。
避けようもない勢いで、イリキの腕に胸倉をつかまれる。
「く、首絞め、ゆゆゆ、ゆさぶり反対!」
とっさにイリキの腕をつかんで、逃げの姿勢を見せると、イリキはコマを引き寄せて間近から睨みつけてくる。
「だったら、最初っから説明しておけ! そんな大事なことを後から説明するやつがあるか!」
か、雷避けが欲しい、切実に。
“口”の怒りの雷をこんなに間近で受けるているのは本当に勘弁してほしい。どうしても耳に意識を集中させられてしまう美声だから、なおさらに。
コマはびりびりとしびれる腹部に力を入れて、大きく息をのんだあと、反論に出た。
「だって、あのときはそんな余裕なかったでしょ? ミコトは僕が呼んでも返事ができない非常事態だったんだから!」
「だからって、説明全部を丸投げして彼らの“真名”を教えるか!? そもそも、どうして私に“真名”を教えたりしたんだ、お前は! 寝言で無意識に呼んだりしたらどうしてくれるんだっ!?」
「だ、大丈夫だよ、イリキはいびきはかいても寝言は言わないから!」
本当はいびきをかいているところも一回しか見たことがないし、寝言は皆無だから問題ないと思ったんだけど、それが余計にイリキの逆鱗に触れてしまったらしい。
それまで真っ青にしていた顔が、湯気が出るんじゃないかってくらい、真っ赤になってしまった。
「そういう問題じゃないのがわかってて言ってるだろう!?」
「だ、だって、あの時は本当にイリキに呼んでもらうしか方法がなかったんだよっ。彼らだってさすがにわかってるよ、仕方ないって思ってるよ、背に腹は代えられないでしょっ!?」
「被る被害は全部私に向いているといっているんだ、仕方ないで済ませる気かっ!?」
腹が立ちすぎたのか、イリキは襟首を掴んでいた手を放して頭に拳骨をぐりぐり押し当ててくる。あまりの痛みに涙が出てきた。
「い、いたたたたっ! そんなこと言ったって、手遅れでしょっ!? 知っちゃったものはしょうがないんだから受け入れなよ!」
「ぅぐっ、お前はっ! それができれば怒鳴ってない!!」
腹いせに思いっきり足を振り上げて、お腹を蹴っ飛ばすと意外と固い感触がした。
いくら鍛えているみたいだといっても、少しは効いているはずなのに、拳骨の威力が増すってどういうこと!?
「そんなのイリキの心意気ひとつでしょ!」
「心意気だけでどうにかなる問題かっ!!」
「大丈夫ですよ。イリキさまがお呼びになれば、主様も私もお応えしますから」
ぎゃいぎゃい騒ぎながら、取っ組み合いの喧嘩に突入した二人は、笑いを堪えた涼やかな声に、ぴたり、と動きを止めた。
イリキの右手がコマの頬を引っ張って、コマの左手がイリキの髪を引っ張っている状態で固まった二人を見て、人の姿をとったミコトは堪えきれなかったのか、袖を口に当ててクスクスと笑っている。
慌ててお互いに手を放して、一歩距離を取った。
イリキのせいで、笑われちゃったじゃないか!
あとで覚えていろよ、コマ。
視線だけで抗議すると、明らかにコマよりも刺激的な、攻撃的な、コマを痛めつける気満々の物騒な視線が帰ってきて、思わず視線をそらす。内心だらだら汗をかきつつ、コマは眉を寄せた。
もしかして、イリキって結構根に持つタイプ?
平謝りに謝ったほうがいいのかな、という考えが頭をよぎるけど、謝ったところで、イリキの気が済むとも思えないし。面倒なことになっちゃったな、とコマは小さくため息をついた。
「コマ様、泉の癒しは完全ではありません。きちんと休息をお取りください。イリキ様もですよ」
笑いを収めたミコトはにっこりと笑みを浮かべて、やさしく諌めてくれる。その優しい声を聞いて、コマは自分の頬が真っ赤になるのを感じた。
そうだよ、せっかくミコトが癒してくれたんだから、無理をするべきじゃなかった。いくらイリキに乗せられたとはいえ、乗った自分も悪い。
「ごめんなさい、もう暴れないよ。ね、イリキ」
どう見ても後でまた拳骨が降ってくる気配が濃厚なイリキに、ドサクサにまぎれて同意を得ておこうと声をかけると、イリキは呆然とミコトを凝視していた。
・・・なんだか、イリキの全身が真っ白に燃え尽きちゃっているみたいに見えるんだけど、大丈夫かな?




