背に腹は代えられない⑭
空高く吐き出された水が泉に降り注ぎ、泉から勢いよくあふれ出した水は湖へと流れ込んでいく。
彼女を苦しめていた“穢れ”は恵みの水によって流し清められ、湖へと流されていく過程でその陰りを薄くし、ついには完全に浄化される。
それと同時に、荒れ狂い始めていた“見えざるもの”たちが落ち着きを取り戻し、突き刺さるような荒んだ気配から、感知できないほど、“場”に馴染んだものへと変化する。
赤茶けた大地をさらしていた湖に輝く水。
湖の底が見えるほどに清らかな水が、ほとんど涸れてしまっていた湖にいまやあふれんばかりに満々と湛えられている。
そして、何よりも。
今、イリキの前には、神々しいまでに純白な大蛇がたたずんでいる。
その瞳は、深い、深い青。
清涼な水を集めた深い泉のような、清らかな瞳。
泉と湖を覆う、清く、厳かな気配。
声を上げてしまえば、その清浄な気配を崩してしまいそうな、どこか危うい神聖さを感じて、イリキは口を利くことはおろか、呼吸さえはばかられ、息を詰めて白蛇を見つめていた。
「おかえりなさい」
イリキが生み出していた緊張感に気付きもせずに、コマはイリキの腕からふらつきながらも起き上がり、腕を伸ばす。
純白の大蛇、“彼女”はその頭をそっと下ろしてコマの手に触れさせた。
「よかった」
コマは涙を流しながら、“彼女”の頭に額を押し当てる。
「間に合って本当によかった・・・」
心底安堵したように、壊れ物のようにそっと大切に抱きしめるその姿は、本当に喜んでいることが見ている方にも伝わってくるようだ。
“彼女”のほうも、労うような優しい目でコマを見つめている。
その様子を傍から見ながら、まだしっかりと立つことが出来ないコマを後ろから支えているイリキは嫌な汗をかいていた。
コマに触れさせている“彼女”の頭は必然的にイリキのすぐ目の前にあるわけで。
別に蛇の類は好きでも苦手でもないが、ついさっき、その巨大な口がコマを丸呑みにした一部始終を見ていたせいか、どうしても身構えてしまう。
しかも、相手は“守護精霊”。
精霊の中でも、人智を超えた知性を持つ、高位の存在。
正気を取り戻したらしい“彼女”からは、純粋な力の気配が伝わってくるが、それがもしまたこちらに向かって来たら?
慈しみの色を浮かべてコマを見つめるその姿に、杞憂だと分かっていても、身体が勝手に警戒してしまう。
無意味なことだと分かっていても、だ。
いつでも動ける体制でコマと“彼女”の様子を注意深く見ていると、ふと、“彼女”の青い瞳がイリキを捉えた。
全てを見透かすような澄んだ瞳に、思わず一歩足を引きかける。
その瞬間、“彼女”はコマの両手から頭を上げ、いきなりその身体の輪郭を淡くして、溶け落ちるかの様に泉に溶け込んでいく。
輝く水に溶け込む白。
最後の鱗が泉に溶けたかと思うと、次の瞬間には、コマよりも少し年上くらいの少女が泉の水面に立っていた。
真っ白な髪と肌。
その瞳は、深い青。
何よりも、直視することさえためらわれるほど神聖で、溢れ出る泉のように清廉な気配を感じ、唐突に理解した。
この少女は。
「イリキ、彼女が『ミナカミノミコト』だよ」
あっさりと守護精霊の“真名”を口にしたコマの首を、心底絞めてやりたいとおもった。




