29話 メリー・シープドール
ルシルさんはベッドに座ると背伸びをしました。
「いやぁ、助かったよ。しつこい奴に追われていてね。もうしばらくは会いたくないんだよ」
ルシルさんはそう言いながら机の上を指さしました。
「それにしても……さっきの研究員が昼食って言っていたけど、まさか、それ?」
「はい、試作段階の完全栄養食です。朝、昼食の二回で私の1日分の栄養、カロリーが得られるそうです」
「ふうん、人間の知恵の産物か。どれ、味見させてもらうよ」
ルシルさんはブロック状の栄養食を少し削り、口に放り込みます。
「……不味いな。食べた気がしない」
ルシルさんは顔をしかめます。彼は笑っているばかりでは無いと、私は意外に思いました。
「私は今までそれしか口にしていませんので、味覚的に優れているかは判断出来ません」
「――よし、ちょっと出かけてくる。それは食べなくて良い。研究員には夢を追加で見て貰うから安心して」
ルシルさんはそう言って笑い、自動ドアから出て行きました。
「……スリーピィ、彼は、何をしに出かけたのでしょう?」
私は友人に尋ねますが、勿論彼は何も言いません。する事も無いので窓から見える青空と雲をぼんやりと眺めていました。
あの方と同じ、男性。私の1週間の人生で、二人目の男性です。
でも、あの方はこの世の全てを手に入れたがっているのに、あの人はそれが全くあるようには思えませんでした。
しばらくしてから、ルシルさんは戻ってきました。沢山のビニール袋からは、食べ物の香りが漂っています。
「お待たせ。日本食レストランがあって良かった良かった。」
「日本食……ですか?」
遙か遠い東アジアの島国だと言うことは記憶に入っています。
ルシルさんは袋から取り出すと、容器に入った球状の物体が見えました。
「そうそう、たこ焼きと言う名の食べ物だ。僕はこれが大好物でね。あんな健康食よりもずっと美味いから食べてごらん」
「タコ……デビルフィッシュですか!?」
フィエーランドでは、タコは悪魔の魚と呼ばれ、忌み嫌われています。
「そうか、この国ではそう呼ばれていたっけ。でも悪魔と呼ばれているからって、必ずしも悪いとは言えないよ。俺がそうじゃないか」
「ルシルさんは、自分が悪では無いとおっしゃるのですか」
「まあね。聖人でも無いけれど」
ルシルさんはニッコリと笑って細い木の棒でたこ焼きを刺し、私の前に差し出します。私は恐る恐る口に入れると……
「……恐らく、美味しいと言えます」
塩分、温度……。タコに小麦粉、油の味。
これが、人によって作られた料理だと言うことを、知識では無く体感で知りました。
嬉しい…? そう嬉しい。この事がとってもハッピーだと思うのです。
「気に行った?」
「……はい!」
「お、初めて笑ったね。可愛いじゃないか」
ルシルさんは頬笑みます。笑顔1つとっても、この人はとても沢山の表情を持つ方です。
私はその言葉に意外性と新鮮味を感じました。
「貴方に、初めて可愛いと言われました。私にとっては、数少ない言われ慣れている言葉です」
「僕は滅多に言わない言葉さ。受け止め切れない言葉になって返ってくるから」
あんまり美味しい物ですから、沢山会ったたこ焼きを私はいとも簡単に平らげてしまいました。
「君は見た目に反してよく食べるなぁ。――太るよ」
「その台詞は、女性にとって失礼な言葉だそうです」
「そのわりに君は怒っていないようだけど」
「メリー、君は外に出たく無いのかい?」
ルシルさんは真っ直ぐ私を見つめ、言いました。穏やかですが鋭い、カラスの様な目。
「僕はたこ焼きの他にもアメリカンコーヒーが好きだ。朝に飲む事が日課になっている。ギャンブル……特に競馬なんかも好きだ。馬はとても美しい生き物だからね。君はここに監禁か何かされている様だけど、それじゃつまらない。匿ってくれたお礼に、君を外の世界へ招待しよう」
ルシルさんはそう言って、爽やかな笑みを浮かべました。
「それは、とても楽しそうですね」
私も外の世界に出られたのなら。
ですが……
「せっかくのお誘いですが、ごめんなさい。私にはその時間は無いのです」
ルシルさんの顔は、初めて笑みを崩しました。
「私はこの国の王様にこの身を捧げる為に生まれました。メリー・シープドールの命は、今夜には亡くなります」




