第9話 雨の中
二人だけになった談話室。円卓とはいえ、横に並んでいるからかセヴリードとの距離は近い。
会話はなく、紙を捲る音やペンで文字を綴る音だけが響き渡る。
シャルロットは不思議な気持ちを抱きながら、費用の概算をまとめていた。
いつもより鼓動は早いのにどうしてだか落ち着いている。一緒に同じ作業をしているのがとても嬉しかった。
ふいに隣から筆記音が止む。
「シャルはさ」
突然の呼び掛けに戸惑いながらセヴリードに顔を向ける。しかし、セヴリードは紙に視線を落としたままで、目を合わせることはなかった。
「なんでしょう」
シャルロットが返答すると、セヴリードはまたペンを走らせた。視線は変わらず紙のまま、話し始める。
「シャルはマチアスの方に行かなくて良かったの? 僕はシャルと一緒に作業できて嬉しいけどさ。この間はマチアスの魔法に興味津々だったから」
気を遣ってくれているのだろうか。
マチアスの魔法や聖女候補のアカシアの魔法も気になるが、それはそれ。セヴリードと一緒にいられる時間より魅力的なものなんて、シャルロットにはない。
この想いをそのまま伝えられたら良いが、言ったら間違いなく呪いが発動する。せっかくの心地良い時間を終わらせたくはない。
「あちらにはロニカさんがいますし、私は事務作業が好きですから」
極めて簡素に事務的に伝える。
全く想いは届いていないとは思うが、それでも何かがセヴリードに届いたようで、彼の口角は少しだけ上がった。
「そっか」
優しい声色に何か返したくなるが、これ以上会話を繰り広げては何を言ってしまうか分からない。
シャルロットは何も返さずに目の前の資料に集中することにした。
その後も黙々と二人で作業を続ける。暫くすると、また筆記音が止んだ。
「うん、これでいいかな」
そう言ってセヴリードは伸びをした。
「シャルはどう? こっちは終わったよ」
一段落したらしいセヴリードは今度こそシャルロットに視線を向け、様子を確認する。
「私も、あと少しで終わります」
請け負った書類の整理は、今まとめているもので最後だった。
セヴリードはそのシャルロットの返答に手伝いを申し出てくれたが、本当にこれで終わりなので丁寧に断りを入れる。彼はどうやらシャルロットを待ってくれるらしく、荷物をまとめ終えても席を立つことはなかった。
早く終わらせようと急いでペンを走らせるシャルロットだったが、「そんな焦らなくて良いよ」と優しい声で制止がかかったので、落ち着いて最後の一枚を終わらせた。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
荷物をまとめ席を立つ。気がつけば室内は暗くなっており、自然光だけでは心許ない状況だった。窓に視線を向けると、重たい雲が空を覆っている。暫くしたら雨が降りそうだ。
雨に降られないか心配になりながらシャルロットはセヴリードと共に退室したが――――。
「雨……」
「降っちゃったね」
玄関に二人が到着する頃には、耐えきれなかった空から大粒の雨が降っていた。
シャルロットは手持ちの魔石を確認する。風の魔石が一つあったが、それを使って雨粒を跳ね返す方法があるものの、辺りに人がいないのが前提のやり方だ。この方法は諦めた方がいい。
一般的には雨傘を使うが、急な雨なので用意はない。このまま寮まで濡れて帰るのが現実的だろう。
思わず溜息が零れそうになる。
「シャル、ちょっと待ってて」
早い段階で濡れることを覚悟したシャルロットだが、セヴリードは違ったようだ。何か考えがあるようでどこかへ行ってしまう。
強まる雨を眺めながら待っていると、セヴリードが小走りで戻ってきた。その手には傘が一本握られている。
「教員室に残っていたブルバーン先生から借りてきた。女子寮まで送るから、一緒に入ろう?」
思いもよらぬ提案にシャルロットは言葉を失ってしまう。ここから寮まではおおよそ5分ほど。短いとはいえ、肩が触れそうになる距離を5分もの間過ごさなければならないだなんて、心臓が持ちそうにない。
何も言わないシャルロットに、セヴリードは自分が困らせたと思ったのか謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、嫌だった? なら僕が濡れるからシャルが――――」
「いえ、違うんです! ただ、驚いただけで。それに、私だけ濡れずに殿下を濡らすようなことがあってはなりません。私は濡れても大丈夫です」
「自分だけ雨をしのいで女性を濡らせる男がいたら、そっちの方が大問題だと僕は思うよ。僕の名誉のために、ね? それに、もう少しシャルと一緒にいたいんだ。だから送らせて」
新緑の瞳が優しくシャルロットを見つめる。ここまで言われて断れる人はいないだろう。
「……お手間をおかけし申し訳ございませんが、お願いします」
シャルロットの声にセヴリードが満面の笑みで返す。
「よし、じゃあ行こっか」
セヴリードが傘を差し、その中にシャルロットは入った。想像していた距離より近く、肩が触れそうどころか実際に触れていた。制服越しとはいえ、セヴリードが横にいることを強く感じてしまい、それだけで頬に熱が籠ってしまう。
心臓は激しく脈打つが不思議と気分は悪くなかった。
触れる肩が気になり、正面を向いたまま視線だけを横にずらす。穏やかな表情のセヴリードは一体何を考えているのだろうか。
気にしているのは自分だけのように思えて、シャルロットは恥ずかしい気持ちを抱きながら、少し残念に思った。
セヴリードにとって、これは普通のことなのだろう。自分ではなく他の女性だったとしても、濡らせて帰らせることはしない。もう少し一緒にいたいというのも、何かと否定しがちなシャルロットの為に付け加えた言葉だろう。深い意味はきっとない。
リーナやナタリーから聞く恋物語のヒロインは感情表現が豊かだった。喜怒哀楽がはっきりしていることは社交界で褒められた所作ではないが、その社交界でも相手に好まれるように会話を繰り広げ、適度に褒めることは常識だ。ましてや否定などしない。
セヴリードの傍にいってはいけないと思いつつ、傍にいることをシャルロットは選んだ。呪いが発動しないように考える手間はあるが、それ以上の楽しさがあった。
それで満足するべきなのに、シャルロットはその次を求めていた。セヴリードにもっと近づきたい。自分の行動で彼の表情を良い意味で変えてみたい。彼のことを知りたいし、自分のことを知って欲しい。
特別な話が出来たわけではないが、今日の時間は凄く幸せな気持ちになった。もっとこのような時間を増やしたい。
となると、この呪いをどうにかする必要がある。父が積極的に動いているようだが、シャルロット自身もやれることがあるはずだ。呪いの期限切れを待つのではなく、根本的な解決を探そう。
「女子寮見えてきたね」
セヴリードの声によって現実に戻らされる。気がついたらもう女子寮が見えていた。考え事などせずに、もっとこの時間を楽しめば良かった。後悔を襲うが仕方ない。
女子寮の玄関に辿り着き、シャルロットは傘から軒下に移る。別れの挨拶を告げようと振り向くと、セヴリードの片側が濡れていることに気がつく。
「殿下、濡れているじゃありませんか!」
慌ててハンカチを取り出すが、セヴリードがやんわりとそれを制止する。
「シャルが濡れてないなら、僕はそれで十分。すぐに乾くよ」
「で、でも……」
「きっと雨で夜は寒くなるから温かくするんだよ。……じゃあね、シャル。また明日」
そう言ってセヴリードは背を向け、男子寮の方へ向かっていく。自分が何も言えてないことに気がつき、シャルロットは慌ててその背中に声をかけた。
「殿下!」
「ん、どうかした、シャル?」
「あの、えっと」
お礼の言葉を言いたいが、今の心情的にその言葉すら反転してしまう可能性をシャルロットは感じた。制限のある中で自分ができることは何か一生懸命考える。そして一つの答えに辿り着く。
「また明日もよろしくお願いします」
言葉ではなく声色に想いを乗せ、満面の笑みで感謝の気持ちを伝える。
「こちらこそ」
セヴリードにそれが届いたようで、新緑の瞳はいつもより輝いていた。




