99.少年と英雄
少年ウーゼルは、生まれて初めて目にする風景に目を輝かせていた。
七歳にして初めての遠出。その最初の目的地は、鍛冶町だった。
昼下がりの町は賑わっていた。
丁度今日からの五日間は「解放記念祭」の期間だ。「解放記念日」の三日前から記念日の翌日まで、この地域では連日祭りが催される。
ウーゼルが住む町でも祭りは行われているが、これほど盛大なものでは無い。その熱気に当てられて、彼の気分は高揚していた。
「ウーゼルちゃん、行きますよ。逸れないように気を付けて下さい」
周囲に気を取られていると、前方から声を向けられる。
それでウーゼルは些か気分を害して、ちろっと声を掛けてきた相手を睨む。
「その呼び方やめてよ。僕もう七歳なんだから」
「あー。何かいつまで経っても赤ちゃんの時の感覚なんですよねー」
としかし彼女は、悪怯れる様子も無くそう返してきた。
彼女はニーナ・バリスタ。ウーゼルの旅の同行者だ。
長い髪を後頭で結っているのだが、その髪の色は純白で目を引く。青紫色の瞳も特徴的だ。それに今は帽子で隠されている、頭の「角」も。
その角は本人曰く「悪いことをしてたら生えちゃった」らしい。だから悪いことをしてはいけないと言い聞かされてきたが、どう考えても嘘だろう。
ニーナと言う女は、変わっていた。
髪や瞳や角のような見た目の話だけでは無い。小柄なのに恐ろしく力が強いのだ。それに話し方も、幼児扱いしているウーゼルを含めて誰に対しても丁寧な言い回しをするので気になる。
しかし何を問うても、いつもはぐらかされる。謎が多い人物だった。
「ほらほら。行きますよー」
「やめてよ! 手繋がなくたってちゃんとついて行けるから!」
「ダメです。逸れちゃったら怒られるの私なんですからね」
ウーゼルが文句を付けても、ニーナは聞き入れてくれない。
力が強いため、掴まれた手を強引に振り解くこともできなかった。
止む無く、東門から手を引かれながら町の中心部へ向かって歩む。すると、複数の通りが交差する広場に人集りができていた。
「何やってるんだろ……?」
「『面割り』ですよ」
ウーゼルの呟きに、ニーナが答える。そして彼女はさっとウーゼルの後ろに回ったかと思うと、ひょいと彼を肩車した。
小柄な女が軽々と少年を肩車する様に、周囲がおおとざわついた。
ウーゼルとしては、恥ずかしいことこの上ない。
「下ろしてよ! 僕もう七歳だって言ったでしょ―――」
「でも、よく見えるでしょう?」
言われて視線を前へ向けてみれば、人垣の向こうに屈強そうな男たちが並び立っていた。
彼らの前にはそれぞれ大きな木箱が置かれていて、合図と共に彼らは箱の上面を素手で叩いて壊そうとしているようだった。これが「面割り」らしい。
「よっと」
「うわっ……」
ニーナが急に跳ねたので、ウーゼルの視界も一瞬更に高くなる。
少年を肩車したまま軽々と跳ぶ女を見て、再び周囲がざわついた。
しかしニーナは全く気にしていない様子で、何やら呟いている。
「ふむ。グルードさんはいないですね」
だがウーゼルは、落ち着いていられない。
衆目を集めていては、眺めは良くてももう前を向けなかった。
「もう良いから、下ろして……」
「はいはい、どうぞ」
漸く解放されてはあと息を吐くと、ウーゼルはじととニーナに視線を向ける。
「……ニーナ姉ちゃんなら、アレに参加しても優勝しちゃいそうだね」
「してますよ」
「してるんだ……」
その答えに半ば呆れていると、答えたニーナが不意に往時を懐かしむようにふっと笑んだ。
その顔は平生と違って大人らしく、ウーゼルは一瞬見蕩れてしまった。
だが、それも束の間のこと。
「―――さて、行きましょうか」
そう言うと、ニーナはまたウーゼルの手を取って歩き出す。
その羞恥心に顔を赤くしながら、しかしウーゼルは諦めて引っ張られていった。
そうして広場から、今度は南西方向へ伸びる通りを進んでいく。
暫く行くとニーナは、その通り沿いにある建物の前で足を止めた。
「鍛冶屋マークス」と言う看板が掲げられている建物だ。
「こんにちはー」
と挨拶しながら、ニーナはウーゼルを連れて店に入る。
すると入口の傍にいた大柄な男が、朗らかな笑みを浮かべてこちらを見た。体格の割に穏やかそうな中年の男だ。
「ニーナ、よく来たな!」
「はい、よく来ました!」
とニーナは男の声に応えて、それから後ろに控えていたウーゼルの頭をぽんと叩いた。
「今日はウーゼルちゃんを初めて連れて来たんです」
「おぉ、そうか。その子が……」
言いながら男はウーゼルの前で片膝を突くと、優しく笑んで見せる。
「俺はグルードだ。ここで鍛冶士をしてる。よろしくな」
「は、はい。僕は、ウーゼルです。よろしくお願いします」
差し出された大きな手に自分の小さな手を重ねて握手しながら、ウーゼルは怖ず怖ずと挨拶した。
少々ぎこちなかったが、その挨拶にグルードは満足したようでうんうんと頷く。
「流石、礼儀正しいな」
そう言ってからグルードは立ち上がって、奥の部屋を指し示した。
「マストロとルーマスにも会っていってくれ。喜ぶぞ」
「どうですかね? ルーマス君はともかく、あのひょろ長いおじさんは私のこと嫌いでしょうし―――」
「誰がひょろ長いおじさんだ」
と、奥の扉から男が顔を覗かせた。
鼻の下に薄い髭を生やした中年の男だ。現した全身を見ると、確かに細身だった。
「そういうことを言うから、お前は好かないんだ」
「そんなこと言って。ホントは会いたかったんじゃないですかー、マストロおじさん?」
「残念ながら、裏は無い言葉だ。―――まあ、その子を無事に連れてきたことだけは評価するが」
そう返したマストロは、ウーゼルを手招く。
「そら、こっち来て菓子でも食えや」
「はあ……」
「俺はマストロってんだ。よろしくな」
「ウーゼルです」
やり取りする二人を見て、グルードがふっと笑った。
「マストロは本当に子供が好きだな」
その声に、マストロは肩を竦めて見せる。
「うちのは随分でっかくなっちまったからな。たまにはちっこいのも世話したくなるんだよ」
「次の子作らな―――間違えた、引き取るつもりは無いんですか? そういう子はいると思いますけど」
ニーナの言葉に苦笑しながら、グルードは「うーん」と腕を組んだ。
「ルーマスがもう一段落ついたら、考えても良いかもしれないな」
「―――その言い方は、どうかと思うよ」
とそこへ、若い男の声が向けられる。
そして、マストロの後ろから一人の青年が現れた。
「人によっては、ぐれるかもよ。そういう言い方されたら」
「何言ってんだ。俺らはずっと愛情注いで育ててきてんだぞ」
とその声にマストロが言い返す。
「こんなことでお前は不安にならないって、分かって言ってんだよ」
「それはまあ、否定しないけど」
「だろ? ―――ところでお前は、弟か妹が欲しいとは思わないのか?」
問われて、青年は「うーん、どうだろ……」と呟きながらウーゼルの元へ歩み寄ってきた。
そして片膝を突いて、こちらと目を合わせる。
「こんにちは。僕はルーマス。そこの二人の子供だよ」
「こんにちは。僕は―――って、えっ? お父さんが二人いるの……!?」
驚くウーゼルを見て、ルーマスはははと笑う。
その反応には慣れているようだった。
「変でしょ。―――でも、僕にとってはそれが『普通』なんだ」
「ふうん……?」
まだ状況を呑み込めずにいると、そこへニーナが歩み寄ってきた。
「ルーマス君、また背が伸びましたかね」
「そろそろその呼び方はやめて下さいよ。僕はもう十六ですよ」
とルーマスは苦笑いする。どうやら子供扱いされているのは、ウーゼルだけで無いようだ。
「ニーナさんは、相変わらずですね」
「そですね。相変わらず美しいでしょう?」
「美しいって言うか……」
と返しながら、ルーマスは顔を逸らす。
その頬は、少し赤らんでいるように見えた。
「可愛らしい、って感じですね」
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるじゃないですか!」
ニーナがぺしぺしとその背を叩くと、彼は照れ笑いを浮かべる。
しかしその背後では、マストロが視線をじとっとニーナへ向けていた。
「こォら。うちの息子を誑かすな、小娘」
「小娘って……」
と呟いて、ニーナは呆れ交じりの息を吐く。
「私もう二十……三? くらいなんですよ」
「くらいって……」
「仕方無いじゃないですか。覚えてないんですから」
ニーナはむんと胸を張って、そう返した。
自分のことを棚に上げていることに、彼女は気付いているだろうか。
「とにかく、私はもう立派な大人の女ですよ!」
「そうかいそうかい」
ニーナの主張をマストロは適当にあしらう。
それから奥の部屋へ行くと、そこの椅子にどかっと腰掛けた。
「取り敢えず座れよ。飯くらいは出せるし―――」
とマストロが言い掛けた時、不意に店の戸が開かれる音がした。
客が来たらしい。
「失礼します」
「こんにちは」
男女の声が聞こえた。
それにニーナが、ぴくりと反応する。
「あれ、この声……」
呟き、店の表の方へ出ていく。ウーゼルもそれを追った。
すると店の入口付近でグルードが応対していた人物たちは、驚いたようだった。
「あなたは確か……、ニーナさん?」
「はい」
とニーナが答える。
「そっちはサラさんと……、マークさんでしたっけ?」
「ラークだ。ラーク・ロイド」
茶の長髪の男―――ラークが、やや不愉快そうにそう返す。
一方で彼の隣にいる長い黒髪の女……サラは、ふふと笑っていた。
その後にサラは、ウーゼルの存在に気付いたようだった。
「その子は、初めて会いますね。もしかして、ニーナさんの……?」
「そです」
「嘘を吐くな」
後ろからマストロに指摘され、ニーナはぺろっと舌を出す。
それを見てサラはあははと苦笑いし、ラークははあと呆れの交じった息を吐いた。
それからラークは、グルードの方へ向き直る。
「話が逸れました。とにかく、今回は公にしない形で視察させてもらっています」
「それでその恰好なのか」
とグルードは、二人が纏う頭巾付きの外套を見て言う。
そして、肩を竦めて見せた。
「別に、俺なんかに伺いを立てに来なくても良いのに」
「何を仰いますか」
とサラが声を上げる。
「西純人王国の産業の長に挨拶せずに、鍛冶町を見て回るわけにはいきません」
「そんなのは形だけで、俺は今も鍛冶屋組合の纏め役をしてるだけなんだがな……」
そう言って、グルードは苦笑した。
「そちらこそ、魔法新王国と東魔法王国の王に最も近い側近だろ? 恐縮してしまうよ」
「そんな大層な身分ではありません」
サラがそう返す。
「特に私がいる東魔法王国の場合、王の特権は廃したので……。特別偉いと言うことはありません」
「そう言えば、その王サマたちは元気なんです?」
ニーナが問うと、サラは「うーん」と苦笑いを浮かべた。
「マーシャルは、相変わらずですね。身体はもうすっかり良いんですけど、気が抜けちゃったみたいで王座に座っていることが多いです。王様としては、落ち着いてる今の方が良いのかもしれないですけど……」
言ってから、彼女はラークの方を見やる。
「そっちは、変わってないよね」
「ああ。堂々としている様は臣下を安心させている。少し危なっかしい部分もあるが、そこは側近たちが支えていれば問題無い」
「あー、流石。ミネアお嬢サマには甘いですねー」
ニーナが茶々を入れると、ラークはじろりと彼女を睨んだ。
そんなやり取りを目の当たりにして、ウーゼルは唖然としていた。
他国の重臣とこんな会話ができるニーナとは、一体何者なのだろうか。
恐らく現在の体制ができる前に彼らと関わり合っていたのだろうが、そうなると今から十年以上前と言うことになる。最も近い十年前だとしても、当時のニーナは十三歳くらいの少女だったはずだ。その歳で、一体何をしていたのだろうか。
ウーゼルは、昔のことをよく知らない。周囲の人間があまり詳しく教えてくれなかったからだ。
無論、歴史的な話は知っている。昔この島が「純人王国」と「魔法王国」と言う二大国で構成されていたことも、そこに「魔法」と「退魔の力」と呼ばれる力があったことも知っている。
大きな力を持つ者たちに支配されていた二大国の人々は、十年前に一人の英雄の活躍によって解放されたのだ。その後二つの王国は様々な思想を持つ人々によって七つにまで分裂したが、各国の代表が集って諸問題を話し合う「議会」が設けられたことによって一先ずの安定を得ていた。
―――と、そういう「お勉強」としての話は知っているが、その時代を生きた人々の体験談を聞く機会はあまり無かった。ウーゼルとしては、その体験談こそ聞いてみたいのだが。
例えばニーナも、ウーゼルが話を聞いてみたい人物の一人だ。あの怪力などは、きっと魔法によって得たものに違いない。今も「魔物」と呼ばれる怪物は各地に存在していると聞くし、魔法によって生み出されたものは案外身近に多く残されているのかもしれない。
しかし残念ながら、ニーナからそうした話を聞き出すことはできていなかった。
上手く聞き出す策をウーゼルが考えている内に、目の前のやり取りは終わったようだった。ラークとサラが店を出て行く。
去り際こちらに小さく手を振ってくれたサラにこくりと意味の無い頷きを返しながら、ウーゼルは未だ前時代の物語に思いを馳せていた。
*
鍛冶町に着いた日の二日後には、もうニーナはウーゼルを連れて町を出た。丸一日遊べたのは、一日だけ。随分と忙しない日程だった。
南方へ伸びる旧街道を通ってニーナが向かった次の目的地は、大都だった。
現在は鍛冶町と同じ西純人王国に属しており、王が住まう国の中枢となっている街だ。しかし街の外の人々からは、未だに解放以前の通称である「旧都」の名で呼ばれることが多いのだとか。
街の住民たちは、それを快く思っていないらしい。そのことを表明するかのように、街の門には「大都」の文字がその意味と同じく大きく掲げられていた。
大都も、祝祭に沸いていた。この地域で最大の規模を誇る街だけに、夕暮れ時の通りを行き交う人々の数も鍛冶町より多かった。解放記念日当日と言うこともあるだろう。自然、ウーゼルの気持ちも高ぶる。―――が、今度もニーナにがっちり手を握られているので、そのことに対する羞恥心の方が勝っていた。
はあと溜息を吐く彼を余所に、北門から街へ入ったニーナはそこから南門の方へと真っ直ぐに伸びる大通りを進んでいく。
そして、南門近くの通り沿いの家屋の前で足を止めた。
それは酒場だった。看板に書かれた「ルイス」と言うのが店の名だろう。
「こんにちはー」
「いらっしゃ―――、あっ!」
賑わう店内にニーナが入っていくと、こちらへ顔を向けた女がぱあと面を輝かせた。
金色の長い髪を頭の後ろで結わえた、小綺麗な女だった。
「ニーナさん、いらっしゃい! もしかして、その子は……」
「はい、私の子です!」
さらりと嘘を吐くニーナに対し、女は「あまり似てないですね」と言って笑う。冗談であることは伝わっているらしい。
女はそれから、すっとウーゼルの前へ来て屈む。
「こんにちは。私はサーシャと言います。この店の―――」
「看板娘です」
「……ちょっともう、『娘』って言うのは苦しいかな」
ニーナの声に、サーシャは苦笑する。
「『看板』には、なれるように頑張るつもりですけどね。最近、母から店を任されたので」
「へえ、店主に格上げですか」
「いつまで経っても嫁入りしなくて、諦められただけかも」
頬を掻きながらそう言った彼女は、ウーゼルに向き直って微笑む。
「よろしくお願いします。―――ええと、」
「ウーゼル、です」
「ウーゼル君。覚えました!」
言って、サーシャはウーゼルの手を握る。
その手の思いの外柔らかい感触と甘い香りに、ウーゼルはつい目を背けてしまった。
先の話からすると若くは無いようだが、容姿と言い振る舞いと言い若々しい女だった。
そんな彼女に、ニーナがこそっと耳打ちする。内容は丸聞こえだが。
「振られたからって、子供に手を出しちゃダメですよ」
「出しませんよ!」
かあと頬を朱に染めて、サーシャはウーゼルの手をぱっと放す。
ウーゼルとしては少し残念だが、彼女は多忙な身のようだ。
一方の客から「サーシャちゃん、エールのお代わり頼むよ」と声が掛かったかと思えば、別の客からも「サーシャさん、今度二人で食事でもどう?」とほぼ同時に呼び掛けられていた。……後者の目的は注文とは無関係のようだが。
そうした客たちに対して、サーシャは「はい、ただ今!」と応える。
そして、ニーナたちに詫びを入れた。
「お構いできなくて、ごめんなさい。お好きな席へどうぞ。取り敢えずエールをお出しします」
「お好きな席って……、ほぼ埋まってますけどね」
とニーナが返す間に、サーシャはもう他の客の元へ向かっていた。
そんな彼女の背を見送りながら、ウーゼルは気になったことをニーナに問う。
「サーシャさんは、誰に振られたの?」
「さあ、誰でしょうね」
としかし彼女は、はぐらかした。
その態度は気に食わないが、ただ答えが誰であったとしてもウーゼルの感想は変わらないだろう。
「その人、勿体無いことするね」
言うと、ニーナがぷっと吹き出した。
思わずちろっと睨むと、彼女は「あぁ、すみません……」とまだ笑いながら謝る。
「その話、帰ったらまたしましょう」
「どうして?」
「面白いから」
と答えて一方的に話を打ち切ると、ニーナは店内の空いている席を見つけてそこへ座った。
釈然としないが、止む無くウーゼルもそれに従った。
するとサーシャがやって来て、エールを出してくれた。
わいわいと沸く店内。
誰も彼もが愉快そうだ。
そんな賑わいの中で、客の一人の大男がマグを掲げて叫んだ。
「野郎共、乾杯だ! あのクソな時代を終わらせてくれたアルト王に、乾杯っ!」
「乾杯っ!」
と周りの客たちもマグを掲げる。
ウーゼルもそれに合わせてマグを掲げようとすると、ニーナに「ダメです」と止められた。
「何で?」
「あなたは、やっちゃダメなんです」
「理由になってないよ。ニーナ姉ちゃんは、アルト王嫌いなの?」
問うと彼女は「別に」と言う。だが、どう見ても快く思っている風では無かった。
彼女はそれから、急に立ち上がって大きな声を出した。
「煩いですよ! もうちょっと静かに呑んで下さい!」
「あァ? 酒場で静かに呑んでどうすんだ―――」
とそれに言い返そうとした大男が、ぴたと動きを止める。
「……お前、まさか」
「ラウルッ!」
とそこへ、太い女の声が飛んできた。
突然の声に、呼ばれたラウルと言うらしい大男はびくりと肩を震わせる。
その彼に向かって、店の奥から膨よかな中年の女が出てきて迫っていく。
「あんた、この間の付けは払ったのかい!?」
「それは、その……今日くらい良いだろ、祭りなんだから! 子供向けの商売は、大金取れねえんだよ―――」
「言い訳するなァ!」
「お、お母さん!」
食って掛かる彼女をサーシャが止め、その隙にラウルは店から逃げ出した。
「いやァ、良い気味ですね!」
一部始終を見ていただけのニーナは、何故かしたり顔でそう言った。
*
ニーナは、相変わらず先を急いでいた。
旧都……では無く大都も、到着した日の二日後には発った。
解放祭に沸く町を片端から見せようとしているのかとも思ったが、大都にて祭りは既に終わりを迎えていた。それでも彼女の行動は変わらないので、祭りは急ぐ理由とは関係無さそうだ。
しかしニーナ本人に訊いても、はぐらかされてしまう。故にウーゼルはもう、黙って従う他無かった。
大都からさらに南下して、ニーナが向かったのは王都だった。
十年前までは、島の南部を統べる「純人王国」の王が住まっていた街だ。
今現在もそこに聳える石城には王がいるが、彼が治めているのは嘗ての大国が三つに割れた内の一つである「南純人王国」だけだった。
夕日に照らされた王都の大通りに、鍛冶町や大都の時のような賑わいは無かった。
「……静かだね」
「お祭りは、終わりましたからね」
ウーゼルの声に、ニーナがそう応える。
「それに、嘗ての極悪非道なアルバートが暮らしていた街ですからね。今の英雄サマは違うとは言え、積極的にここに住みたいって人はいません。今住んでるのは、十年前の解放の時に逃げ出さなかった人たちだけだと思います」
「ふうん……」
祭りが終わって人通りが少なくなったと言うことでは無く、そもそも往来する街の人の数が少ないと言うことだろうか。外からやって来る人も、あまりいないのかもしれない。
立派な石造りの家屋が整然と並んでいるが、空き家も多いのだろうか。
「じゃあ、ここへ来た目的は休憩だけ?」
「いえ、挨拶にも行きますよ」
「挨拶? ここにも、知り合いがいるの?」
「います」
と答えるニーナは、街の中心部を通る南北方向の大通りを北へ向かって進んでいく。
その先には、王城が見えていた。
「えっと……。まさか、お城へ行くんじゃないよね?」
「お城へ行きますよ」
「お城にいる知り合いって……、兵士さんとか?」
「城主さんです」
「城主……」
その意味が分からないわけでは無いが、ウーゼルは思わず言葉を繰り返す。
「―――え、それって」
「こんにちはー」
ニーナがひらひらと手を振ると、街と城とを繋ぐ橋の前に立っていた二人の番兵がこくりと頷きを返す。
そして、ニーナたちを橋へ通した。
ウーゼルが驚いている間に城門も開かれ、彼女はすたすたとその先へ進んでいく。
これほど気軽に王城に入れるニーナと言う人物は一体何者であるのか……、最早ウーゼルには推測することも難しかった。
城内の厳かな雰囲気に呑まれてびくびくしながら、ウーゼルはニーナの後ろにぴったりとくっついて歩く。
あちこちへ通路が伸びている広間を突っ切って、ニーナはその先の廊下を行く。すると、荘厳な扉の前に行き着いた。
初めて城に来たウーゼルでも、予想がついた。その扉の向こうに、恐らく王がいる。
果たしてニーナが扉を開くと、その先で純白の装束を纏った黒髪の若い男が王座に掛けていた。
「……よく来た」
と王は言った。そう言う割には、あまり愉快そうに見えないが。
だがそんな王を前にしても、ニーナが臆することは無かった。
「どーも。あんまり来たくなかったですけど、頼まれたので来ました」
「ご挨拶だな。お前たちに借りが無ければ、即刻首を斬っているところだ」
首を斬る、などと言われて落ち着いていられるはずも無い。
ウーゼルはぐいぐいニーナの袖を引いて、「謝った方が良いよ……」と囁く。
そうしていると、不意に女の声がした。
「アルト、物騒なことを言うのはやめなさい。子供が怖がっているでしょう」
その中年の長い黒髪の女は、王座の奥の方から現れた。
上等な白のローブを纏った姿や口振りから、「解放の英雄」であるアルト王の母親であろうことが窺えた。
注意を受けてふいと顔を逸らすアルト王を見て、女ははあと呆れ交じりの息を吐く。
それからこちらへ目を向けて、「ごめんなさい」と言った。
「―――その子が、そうなのですね」
「そです」
とニーナが答え、ウーゼルを肘で突いて彼に挨拶を促す。
それでウーゼルは、成る丈背筋を伸ばして礼儀正しく振舞う。
「ウーゼル・バリスタ……です」
家名までしっかり告げると、それを聞いたアルト王の母はふっと微笑む。
まるで我が子を見るような、優しい目をしていた。
「やはり、可愛いものですね」
「あまり似てないな」
とそこへアルトが、不機嫌そうな顔のまま声を向けてくる。
対してニーナが「全体的には母親似ですからね」と返した。
三人のやり取りからすると、どうやらウーゼルの両親もアルト王と知り合いのようだ。
ニーナが王と繋がりを持っていることからすれば、不思議は無い。ウーゼルの両親もニーナと同じくあまり昔のことを話さないので、彼としては一つ謎が解けた気分だった。
そんな思いでウーゼルが三人のやり取りを聞いていると、不意に後背から声がした。
「来たんだね」
振り返ると、そこには白髪交じりの茶髪の中年の男が立っていた。
アルト王の母と同様に、穏やかな微笑を浮かべている。
「来ました!」
とニーナが応えた。
「これからそっちにも行こうと思ってたところです」
「そうか。ゆっくりで構わないよ」
「グレイ、何か用か」
アルト王が問うと、その男―――グレイは彼に向き直る。
「王城で典礼を執り行う件についてですが、正式にクリスト教会として受けさせて頂きます」
「そうか。それは良かった」
「但し、飽くまで『王の頼みを受け入れた』と言う形で対等な立場を取らせて頂きます。クリスト教が南純人王国の政治的な道具であると言う誤解は、避けねばなりません」
グレイの念押しに、アルト王は「分かっている」と煩わしそうに返す。
「こちらとしてもクリスト教が王都を聖地とした崇高な教えである方が、人を集められて都合が良いんだ。典礼の時には、ちゃんとあなたに頭を垂れるよ」
「私は、ただの司教です。祈りは女神に捧げて下さい」
「分かっているさ」
とアルトは面倒臭そうにそう言った。
クリスト教。ウーゼルも既に知っている教えだ。
何でも嘗て二つの宗派に分かれていた神教を、クリストン家の人々が中心となって纏め上げたものらしい。
女神を戴いている、まだ新しい教えだった。
「あの女神さんも出世したもんですねぇ」
呟くニーナの背を、ウーゼルは慌てて叩く。
「女神様をそんな風に言っちゃダメでしょ! 司教様もいるのに……!」
「あー、そうですねー」
としかしニーナは悪怯れない。
いっそ清々しいくらいに、肝が据わっている。
そんな彼女に、グレイが目を向けた。
まずい……とウーゼルは思ったが、幸いにしてそれは取り越し苦労だった。
「そうだ。来てくれた序でに、一つ頼まれてくれるかい?」
「何です?」
と首を傾げるニーナに、グレイは笑いかけた。
「届けて欲しい物があるんだ」
■登場人物(キャラクターデザイン:たたた たた様)
【ウーゼル】
初めての旅に心を躍らせる少年。八歳。
【ニーナ・バリスタ】
ウーゼルの旅の同行者。二十三歳くらい。見た目にも能力にも謎が多い女。
【グルード・マークス】
鍛冶屋マークスの店主。大柄な体格だが、性格は温厚。
【マストロ・マークス】
グルードと暮らすマークス家の一員。子供好き。
【ルーマス・マークス】
グルードとマストロに育てられた青年。十六歳。ニーナに好意を抱いている様子。
【サラ・イージス】
東魔法王国の王マーシャルの傍に仕える側近。淑やかな雰囲気の女。
【ラーク・ロイド】
魔法新王国の王ミネアの傍に仕える側近。ミネアに甘い。
【サーシャ・ルイス】
酒場ルイスの新たな女店主。若々しく店でも人気のようだが、結婚はしていない。
【ラウル・マークス】
荒くれ者の風体だが、子供相手の商売をしていると言う大男。金回りは良くなさそう。
【アルト・アルバート】
魔法と退魔の力に支配された世界を解放した英雄。現在は南純人王国の王。
【グレイ・クリストン】
クリスト教の司教。アルト王とは対等な関係を築いている。




