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不浄のアルバ  作者: 北郷 信羅
第6章 王都から未来を目指して
98/106

98.女神と英雄

 ずっと、特別扱いされてきた。


 見目が麗しいと、褒められてきた。

 力を使う才があると、賛されてきた。

 頭が切れ過ぎると、恐れられてきた。


 同じ人間であることに変わりは無いのに、皆遠巻きにこちらを見るのだ。

 ―――故に彼女は、自分のことが嫌いだった。


 *


 真っ暗になった視界に再び光景が戻るまでに、そう長い時間は掛からなかった。……アリアの体感としては。

 地面より若干高い場所へ移動したようで、一瞬浮遊感を覚えた後に彼女は着地する。

 急なことだったので体勢を崩して転びそうになったが、リンドがそれを受け止めてくれた。


「ありがとう」


 彼に礼を言ってから、アリアは周囲を見渡す。


 何も置かれていない、だだっ広い灰色の部屋だった。

 広間を構成している材料は分からない。床も壁も天井も同じ物を使っているようだった。床の硬質な感触からすると木では無さそうだが、石にしては随分と表面が滑らかだ。

 さらに天井は、その全体が満遍(まんべん)無く柔らかな光を放っていた。お陰で広間は、まるで屋外にいるかのように明るかった。


 広間に物は置かれていなかったが、しかし落ちているものはあった。

 見覚えがある資料や机の一部と、白い鎧を纏った人間の右半身だ。


「思っていたより、あなたの力は広範囲に届くのね。ニーナちゃんを遠ざけておいて、正解だったわ」

「巻き込まないようには、ちゃんと気を付けていた」


 とリンドが返してくる。

 その彼は、落ちている人体の一部をじっと見据えていた。


「―――ただ範囲を(しぼ)り過ぎて、お前をあんな風にするわけにもいかなかったからな」

「それはどうもありがとう」


 礼を言ってから、アリアはすぐに広間に一つだけある扉の方へと歩む。特別大きくも小さくも無い扉だ。

 こちら側へ送られてきてしまったギルト王の半身を(とむら)っている暇は無かった。


「無事に目的地に着けて良かったわ」

「……本当に、ここは目的地なのか?」


 リンドは半信半疑の様子だ。

 無論アリアとて来たことが無いのだから「絶対に正しい」とも言えないが、周囲に散らばっている物が正しさの証拠となってくれそうだった。


「死後の世界だったなら、其処彼処(そこかしこ)に落ちているソレまで一緒に来はしないと思うけれど」

「それは……、そうかもしれないが」

「とにかく調べてみましょう。この場で考えていても、結論は―――」


 言いかけて、アリアは目を(しばたた)く。

 歩み寄った扉が、ひとりでに横へ滑って開いたのだ。


「……興味深いわね」

「おい、もっと他に調べることがあるだろ……」


 リンドから呆れ交じりの声を向けられて、アリアははっと我に返る。知らず笑みが(こぼ)れていた。


「ごめんなさい。行きましょうか」

「お前がそんなに興奮しているのを見るのは、初めてだな」

「そんなことは無いと思うけれど。私も人間なのよ? 気持ちが高ぶることくらいあるわ」


 言葉を返しながら、アリアはリンドと共に扉を(くぐ)る。

 隣の部屋は、さらに彼女の好奇心を(くすぐ)るものばかりだった。


 先ほどの広間に比べると狭い灰色の空間には、鉄のような素材でできた「箱」が整然と並んでいた。

 その箱は上面から淡い光を放っており、それぞれの傍に(つい)となるように椅子と見られるものも置かれていた。

 「椅子」と断言できないのは、それらに脚が無いからだ。脚が無く、背(もた)れと座面に当たる部分だけが浮いている。


 椅子のようなそれは、箱に対して全て同じ側に置かれていた。つまり、全部が同じ方を向いていた。

 そしてその方にある壁には、光を放つ大きな絵があった。そこに描かれているのは、島だ。

 それを「絵」と言うのは、正確で無いかもしれない。島周辺に描かれている海は、明らかに波打っているのだ。だがアリアは、その動く絵を「絵」と言う他に表現する言葉を知らない。

 明確に言えることは、そこに見える海の動きが常に変化していると言うこと。まるで、島の今を直接覗いているかのようだった。


「これは、俺たちの島か……?」

「そうみたいね」


 リンドの呟きに、アリアは応える。

 アルバートの王城にある地図で見た島の姿と、よく似ている。

 退魔の力によって行き着いたこの場所にある絵が、偶然アリアたちの島に似ていた……などと言うことは無いだろう。


 アリアは部屋の中を見渡して、中央付近にある鉄の箱に目を付ける。周囲の箱と比べてやや大きな それに歩み寄った彼女は、光を放っている箱の上面に手を伸ばす。

 アリアの手が箱に触れると、直後にその上方に……何も無い空間にふわと謎の文字列が現れた。さらに文字列の下に、青く四角い平面も浮かび上がる。―――そこから動きが無いところを見るに、ただ青いだけのその平面はつまり何かをこちら側に求めていると言うことでは無いだろうか。


 目の当たりにした不思議な現象に胸の高鳴りを感じながら、アリアは青い平面に触れる。すると触れた箇所が白く光ってすぐ消え、同時に上の文字列も一時赤色に変わった。その色合いから感じるのは、「良くない」―――或いは「誤り」かもしれない。

 アリアは一瞬の思考の後、青い平面上で十字を描く。魔法を使う時の動作だ。

 それをすると、反応が変わった。さあと一気に様々な文字列や絵が浮かび上がったのだ。恐らく上手くいったのだろう。アリアは知らず笑みを(こぼ)す。


 そんな彼女の傍でリンドも驚いていたようだが、すぐに周囲の警戒を再開した。


「誰も、いないみたいだな」

「ええ。出払っているか……、或いは()えないと言う可能性もあるかもしれないわね」

「視えない?」


 とリンドが眉根を寄せる。

 「何を言っているんだ」と言わんばかりだ。

 無論、アリアにもその自覚はある。―――が、


「魔法や退魔の力を生み出すような存在なんだもの。それくらい突拍子も無いことができたとしても、不思議は無いでしょう?」

「……本当にそうだとしたら、俺たちは相当不味(まず)い状況にあるな」

「美味しい状況よ」


 とアリアは、嬉々として返す。


「これほど好奇心を(くすぐ)られる環境の中で死ねるなら、本望よ」

「俺は本望じゃない」


 リンドが嫌そうに言うので、アリアは「分かっているわ」と応えながら右手で(くう)()いた。

 すると、浮かぶ文字や絵がそれに従って移動する。触れると大量の文字列が現れるものもあった。


 感覚は、魔法の「(つづ)り」に近い。

 恐らくはあの綴りも、詠唱も、視えないだけで実際にはこのように浮かぶ文字や絵に対して行っていたのだろう。アリアの場合、魔法の使用を許可するためのそれらの行為は(はぶ)いてしまっていたわけだが。


 動かし方は分かった。―――だが、書いてある内容が読み解けない。

 見慣れないのは、文字自体で無い。その並びだ。

 言語体系は、アリアたちのそれと近いようなのだ。しかし文字の並べ方が異なっている以上、理解するのは容易で無い。


「……時間が、掛かり過ぎるわね」


 思わず、ぼそりと声を漏らす。

 すると直後、目の前に新たな文字列が現れた。

 「Latine(ラティーネ)?」と言う文字列と共に、その下に「Ita(そうだ).」と「Non ita(そうでない).」の二つの言葉が浮かび上がる。

 アリアの声を聞いて、その言語がそれではないかと問うてきているようだった。


 それは確かに見慣れた文字の並びだったため、アリアは「肯定」の文字列に手を伸ばす。

 触れると次の瞬間には、それまで意味不明だった全ての文字列が理解できるものへと置き換わった。


 アリアは、頬を緩ませる。

 読めるようになったことが嬉しいのでは無い。理解できないことが次から次へと起こることに、彼女の心は(おど)っているのだ。

 眼前に広がる知らないことを、片端から調べ尽くして知りたい。そんな強い知識欲に駆られながら、アリアは浮かぶ文字と絵を一心不乱に操る。


 勿論(もちろん)、当初の目的は忘れていない。魔法や退魔の力に関する資料を探っていく。

 文字が読めるようになったアリアが目的の情報へ辿り着くまでに、そう長い時は掛からなかった。


「―――見つけた」


 アリアの少し弾んだ声にリンドはやや面食らったようだったが、すぐに声を向けてくる。


「何か、分かったのか?」

「ええ」


 と彼女は答えながら、目の前に浮かぶ文章を指し示す。


「ここと向こうとを繋いでいる仕組みが書いてあるわ。向こうへ行く方法―――つまり私たちにとっては帰る方法も、仕組み自体を止める方法もね。文字も読めるようになったし、あなたでもできるわ」

「そうか」


 と言うリンドの声は、常よりもやや明るく聞こえた。

 全てを終わらせられることに、安堵(あんど)しているのだろう。


 だが、それはリンドの願いだ。


「―――ところで。ねえ、リンド」

「うん?」


 と返事した彼に、アリアは告げる。


「これで私は、あの世界を掌握したことになるわけだけれど……」


 その声に、リンドの表情が(けわ)しくなる。

 対してアリアは、微笑を浮かべた。


「ここまで連れてきてもらった恩はあるからね。半分は、あなたにあげるわ」

「何を、馬鹿なことを―――」

「半分」


 とアリアは繰り返した。

 強調するように、やや強い語調で。


「私なりの譲歩よ。何なら、先にあなたに好きな場所を選ばせて―――」

「そういう問題じゃない!」


 とリンドが声を上げた。

 そして、こちらを睨むように見る。


「お前と俺とで分け合うようなものじゃ、無いだろ」

「私は十年前から、ずっとそう言っていたわ。忘れたの?」

「……どうしても、その考えは曲げられないのか」


 苦しげな声を漏らしながら、リンドは左手を剣の柄に伸ばす。

 対するアリアもまた、貫頭衣の下に両手を差し入れていた。


「曲げられない。あなたと同じように、ね」


 言うが早いか、アリアは隠し持っていた二本のナイフを両手それぞれで抜いてリンドに向かって振るう。

 それに対して、彼は後方へ跳び退()いた。


 アリアはそれを追って、右のナイフを振り下ろす。―――が、リンドが抜いた剣に弾かれる。

 その衝撃で、右のナイフが手を離れた。しかしアリアは後退することなく(むし)ろさらに踏み込んで、左のナイフを突き出した。

 一方のリンドも、素早く剣を振るう。


 両者の刃は、それぞれの首元に突き付けられた。


「どうしたの? 斬らないの?」

「お前こそ」


 やや上がった息を整えながら問うと、リンドも問い返してくる。

 それでアリアは、ふっと微笑んだ。


「確実に息の根を止めておかないと……、私は諦めないわよ」

「……」

「ほら、ちゃんと剣を向けて―――」

「やめろ」


 突き付けられた剣先を右手で掴むと、リンドが声を上げる。

 そこで、アリアは気が付いた。


「あら……、刃が無い方が向いているじゃない。あなた、本気で私とやり合う気が無いの?」

「離せ。手が」

「手くらいで怖がって、どうするの」


 アリアはくすくすと、静かに笑う。

 剣先を握った右手からは鮮やかな赤い血が流れ、剣身を伝っていた。


 彼女は笑みを収めると、リンドを真っ直ぐに見据える。


「リンド。私は、あなたを殺せなくなってしまったわ。けれどあなたも、同じよね」

「……」

「それなら、もういっその事ずっとこうしていない?」


 とアリアは提案する。


「二人でこのまま、どちらかが力尽きて死ぬまで刃を向け合い続けるの。そうすれば、いつかどちらかの願いは―――」

「それは、できない」


 とリンドが返した。


「俺を待っている奴らがいるんだ。ずっとこのままと言うわけには……」

「そう。―――それなら、私は覚悟を決めるわ」


 言ってアリアは、左のナイフを弾みをつけるようにやや引いてからリンドに向かって振るう。

 だがその左手首に、リンドの右拳がぶつけられる。それでアリアは、ナイフを取り落とした。


「アリア……!」


 呻くような声を上げながら、リンドがアリアに体当たりする。

 そうして体勢を崩して尻餅をついた彼女に、彼は再び剣を突き付けてきた。


「俺に、協力してくれ」


 剣を向けてきている彼の顔はアリアよりも余程苦しげで、思わずアリアは破顔する。

 脅されるより厄介だ。弟分のその顔は。


「仕方が無いわね。分かったわ」

「……やけにあっさり応じるな。本当か」

「本当よ」


 とアリアは答える。

 どの道、彼は勝っていた。故にこうすることは、ここへ来る前から決めていた。


 アリアはゆっくりと立ち上がるとリンドを手招いて、先ほどまで(いじ)っていた鉄の箱の前へ行く。そして箱の上方に浮かぶ文章を、彼に見せる。

 それを読むとリンドも行うべき手順を理解したようで、不慣れな手付きながら浮かぶ文字や絵を動かして順に触れていった。


 複雑な手順は無く、すぐに「準備完了」の文字列が現れた。実に呆気(あっけ)ない。

 「準備完了」の下には数字が現れ、一つずつ減算されていく。二つの世界を繋ぐ「道」を閉鎖するまでの時間だ。


「これで、良いのか……?」

「大丈夫よ」

「そうか……。ありがとう」

「どう致しまして。―――さあ、『道』が閉ざされる前に帰すから、早く隣の部屋へ行って。さっきの広間への扉の隣に、もう一つ扉があるでしょう」


 礼を言うリンドにそう返すと、彼は「ああ」と言った。―――が、すぐにはたと気付いた様子でこちらを見た。


「……アリア」

「心配要らないわ。魔法と同じ仕組みで、こちらから送り出すの」

「待て」

「そのことを想定してフレアの方からも呼んでもらうように言ってあるから、確実にあの子の元へ帰れると―――」

「アリアっ!」


 強く呼ばれて、流石のアリアも言葉を途切れさせてしまった。

 その彼女に、リンドは問うてくる。


「お前は、どうするんだ」

「どうするって?」

(とぼ)けるな」


 鋭い視線を向けられて、アリアは肩を竦める。誤魔化すのは難しそうだ。

 それで彼女は、諦めて言った。


「……仕掛けを動かす人間が必要よ」

「他に何か方法は―――」

「無いわ」


 とアリアは断言する。

 そしてさらに言葉を継ぐ。


「それにね。あったとしても、私は帰りたくないの」

「どうして」

「ここなら、私は凡人でいられるから」


 彼女は、そう返した。

 そして、小さく息を吐く。


「リンド、私はね。幼い頃から、物分かりが良かったの」

「知っている」


 と言う彼を余所(よそ)に、アリアは続ける。


「私はよく周りが見えていたから、そういう自分が恐れられていることも分かっていたの」

「知っている」

「けれど、私もただの人間よ。だから自分が恐れられて、排除されるのが怖かった。それでもっと、色々なことを分かろうとした。全てを、把握しようとした。全てを、支配しようとした」


 話して、アリアは彼にはにかむ。

 格好悪い吐露(とろ)は、これが最初で最後だ。


「要するにね。―――私は、ただの臆病者なのよ」

「……知っている」


 言われて、アリアは目を(しばたた)く。

 そしてこちらを真っ直ぐに見るリンドに、照れ笑いを返した。


「そう……。全て、お見通しだったのね」

「全てかは、分からない。だから、これからもっと教えてくれ」


 そう言って、彼は手を差し伸べてくれる。

 だがそれでも、アリアが出した結論は変わらなかった。


「知ることは、もうやるべきことで無くやりたいことになっちゃってね。だから、私はここに残りたいの。……それに向こうでは、世界そのものが私を嫌っているみたいだしね」


 小さく続けた呟きは、リンドに聞こえていたようだった。

 彼は、ぐっと歯噛みする。


「……俺の所為(せい)か」


 その言葉を聞いて、アリアは思わず苦笑する。

 本当に、何もかもお見通しだったらしい。


 彼の言葉に対して、彼女は静かに首を横に振った。


「違うわ。あなたはあの戦いで、寧ろ私を守ってくれたじゃない。―――あなたは、私の英雄よ」


 そう返して、アリアは「早く行きなさい」と彼を()かす。

 そして小さく手を挙げて、別れの挨拶をする。


「……さようなら、私の英雄様」


 するとリンドは、苦しそうに目を伏せる。

 だがやがて、こちらを真っ直ぐに見て挨拶を返してくれた。


「さようなら、俺の女神様。十年前のあの日俺に切っ掛けをくれて……、ありがとう」


 その言葉に、アリアは目を見開く。

 胸が、熱くなる。感じたことの無い寂寥(せきりょう)が、どっと押し寄せてきた。


 それで思わず、こちらに背を向けて歩き出した彼を呼んでしまった。


「リンド―――」


 そうして振り返る彼に駆け寄って、アリアはその顔に自分の顔を寄せた。


 鼻と鼻とが、(こす)れ合う。

 そして、唇と唇とが触れ合う。


 ほんの一瞬。

 ほんの一瞬だけ、アリアは触れるような口付けをリンドと交わした。


「……気を付けなさいと、前に忠告していたはずよ?」


 と言ってアリアは、驚いて目を(しばたた)いているリンドに向かって悪戯(いたずら)っぽく笑いかける。やや紅潮した頬も含めて、「魔女」らしくない姿だとアリアは自分で思った。

 故に右の人差し指を唇に当てて、それらしく言葉を継いだ。


「フレアには、内緒ね」

「……知っていたのか」


 とリンドは頬を掻きながら、そう返す。

 それから、こちらへ真っ直ぐな視線を向けてきた。


「ああ、ここだけ秘密だ。―――だが、絶対に忘れない」


 そう言って、今度こそ彼は去っていく。

 彼からの最後の言葉に、アリアはただ頷きを返すことしかできなかった。


「……」


 リンドが隣の部屋へ行ってしまうと、部屋は静寂に包まれた。

 アリアはもういつもの「魔女」の顔に戻って、淡々とリンドを送り出すための手順を行った。

 先に「音」も送ったので、フレアが聴き取って向こうからもリンドを引っ張ってくれるはずだ。


 これで本当に、リンドは去った。


「ごめんなさいね」


 とアリアは、もう届かない謝罪を口にした。

 この高度な仕掛けに、最後まで人が張り付いている必要など無かった。

 だが「帰れない」と言った方が、リンドの心残りも少なく済む。彼が決断して「残してきた」のでは無く、「残さざるを得なかった」ことになるのだから。


 最後だけは、アリアの勝ちだ。―――それも気付かれていた可能性はあるが。

 アリアはふっと笑みながら、早くも慣れた手つきで浮かぶ文字に触れていく。


 一人きりの、静かな時間。

 しかし、それは長く続かなかった。


 アリアの背側にある扉が、不意に開く。

 そして、皮鎧と丸みのある兜を身に付けたような恰好(かっこう)の人間―――少なくともアリアと同程度の大きさの人の形をした者が現れた。


「お待ち頂き、感謝します」


 とアリアは振り返って言う。

 それから、首を傾げて見せる。


「通じているかしら?」

「調整してあります。大丈夫です」


 相手はそう返してきた。兜のようなものの所為でくぐもってはいるが、恐らく男の声だ。

 彼は驚きの交じる声で、言葉を継ぐ。


「僕が見ていたことに、気付いておられたのですね。やはりあなたは、非凡な人のようだ。―――どうか、お帰り頂けませんか」

「……こちらでも、私は受け入れられないのですね」


 アリアは、ふうと溜息を吐く。

 それから、はっきりと言った。


「けれど、私に戻る気はありません」


 すると、意外にも相手は謝罪した。


「申し訳無い。我々の所為で、あなたのような不遇な人を生んでしまった。……しかしあなたの存在は、この世界にも多大な影響を(もたら)してしまうのです。よって、帰られないと言うことであれば―――」

「心配要りませんわ」


 とアリアは返した。

 そして蹌踉(よろ)めくと、鉄の箱に背を預けてずるずると座り込んだ。


 それを見て、相手が息を()んだのが分かった。


「まさか、あなたはもう……」

「腕を掠めたその矢に、毒が塗られていたのですよ。信じられますか?」


 とアリアは言って、笑う。

 彼になら、もう何を言っても構うまい。


「脚や腕に受けた傷も、思いの(ほか)深い傷でした。脚を負傷した彼や胸に矢を受けた彼女は助かったと言うのに、―――私だけが」


 話しながら、アリアは天を(あお)ぐ。

 涙が頬を伝う。

 嗚咽(おえつ)(おさ)えられない。


「あの世界は私を……、排除しようとしています。戻ったとしても、そこですぐ死ぬだけなのです……」


 (こら)えていた涙を流してしまうと、幾らか気持ちが落ち着いてきた。

 それでアリアは、ふうと安堵の息を吐いて微笑む。


「―――良かったわ。リンドの前で、最後まで『お姉さん』ができて……」


 最期が迫っていることは気付かれていたようだが、それでもアリアは別れ際まで凛と立ち続けることができた。それで十分だ。


 目の前の彼は、アリアの言葉をただ黙って聞いていた。アリアとしても相槌(あいづち)など求めていないので、それで構わない。

 しかし、答えが欲しいこともあった。


「最後にお聞かせ願えますか? あの島の変異の真相を」

「……そもそもの原因は、この研究所から「泥棒」を逃がしてしまったことです」


 と彼は、そう答えた。


「『合成転送装置』……あなた方の世界における『魔法』は、ここで発明されたものでした。しかしその装置が完成した時に、中継器―――赤い石を持ち出した者がいたのです。彼は装置を利用して、姿を消してしまいました」

「その行き先が、あの島でしたのね」


 アリアが声を向けると、相手は頷きを返す。


「はい。しかし我々がそこを見つけ出すまでには、長い時間が掛かってしまいました。犯人が空間だけでなく、時間も跳躍していたからです。数千年前のアルビオン……そこへの「道」を私たちが見つけた時、彼は既に「魔法」として調整した力を島に広めて「神使(しんし)」としての地位を得ていました」


 その立ち位置の人物を、アリアも神話として知っていた。


「―――その神使と言うか元凶は、もしかしてソートリッジですか」

「その通りです」


 と相手は溜息交じりの声でそう答える。


「我々は、事態の収束を(はか)ろうとしました。しかし、良い方法が見つかりませんでした。犯人が現れる前のアルビオンに行ったところで、事態が起こってしまったあなた方の世界の状況は変わらない。石を破壊しようとしても、こちらからエネルギーを補充して自動修復してしまう。エネルギーの供給を止めるには「道」を断つしかないが、それでは石の破壊を行う誰かや何かをその時代に取り残すことになる。そうかと言って石を持ち帰ろうにも、その石がそこに無ければ帰れない……」

「その議論の末に出した結論が、クリストンと言うわけですわね」

「……()み込みが早い方だ」


 アリアの言葉に、彼はやや驚いた風な声を出した。


(おっしゃ)る通り、もう一つの石を持たせたクリストンを向かわせることにしました。その石には細工を(ほどこ)していて、ソートリッジと彼の持つ石を排除してクリストンが帰還した後に自壊させる予定でした。……『議論の末の結論』と言うほど煮詰められたものでは無かったのですが。時間が無かったので」

「随分、焦っていたようですね」

「私たちは身体の時間を遅くすることで長く生きられるようになったのですが、その分時間の感覚が嘗ての人々のそれより遅いのです。相対的に、あなた方の世界は速く変わっていってしまう……」


 その割に、彼の話す速度は遅くない。

 始めに言っていた「調整」には、言語の違い以外の問題も含まれていたのかもしれない。


 ぼうっとする頭で考えるアリアに、彼は言葉を続けた。


「ともかく、計画に沿ってクリストンはあなた方の世界に入り込みました。そしてソートリッジを討つ『英雄』を選びました。その後の世界を作っていく現地人が必要だったからです」

「それが、アルバート……」

「そうです。クリストンはアルバートに退魔の力を与え、共にソートリッジを討ちました。そこまでは良かった。……しかし、想定外が起こりました。石を持ち帰ろうとしたクリストンを、アルバートが殺してしまったのです」


 彼はふうと息を吐き出しながら、さらに続ける。


「アルバートは、そこに成立してしまった『英雄』と『魔法王』の世界を維持することを選んだのです。そして計画的に残させていたクリストンの子を……何も知らない次世代のクリストンを自分の傍に置いて、同じく何も知らないソートリッジの次代の魔法王から人々を守る英雄の座に着いたのです」

「……素敵な英雄のお話ですわね」


 アリアはふっと笑んで言うが、相手は苦々しそうに「そうですね……」と口にした。


「我々は悩みました。その世界に、もうこちらの世界の人間はいません。アルバートと言う現地人が世界を動かしている。しかし、彼らが使っている『魔法』と言う道具は我々の世界のものです。その状況を『事態の収束』と呼んで良いものか……、結論は出ませんでした」

「そして現在に至る……と言うわけですね」

「はい。収束の宣言はできず、しかし介入もできず、ただ事態の推移を『力』を持つ人々の目を通じて見続け記録してきました。面目(めんぼく)次第も無いことです」


 彼の話を聞き終えて、しかしアリアの中に怒りは無かった。

 それよりも、知りたかったことを知れた満足感の方が大きい。


 故に彼女は、微笑みを浮かべて言う。


「長いこと待って……遂に現れた彼は、真の『英雄』だったでしょう?」


 アリアの問い掛けに、相手は首肯する。


「はい。我々が()じ曲げてしまった世界を、修復へと導いてくれました。彼も、そしてあなたを含めた周囲の人々も……。広く知られることは無いでしょうが、あなた方は偉大な功績を残されました」


 彼の言葉に、アリアはゆっくりと(かぶり)を振った。


「私は、世界を支配しようとしたのですよ。彼が英雄なら、私は悪魔です。―――それなのに、彼は」


 女神、と。

 そう彼女のことを呼んでくれた。


 呼吸が、苦しい。

 視界が、目映(まば)ゆい光に侵食されていく。

 ただそれでも、話の相手は傍で(ひざ)を突いて彼女の最期を見届けてくれていると分かった。


 故にアリアは、その彼に頼み事をした。


「お願いです。私の記録を見つけても……、そこから消すのは私だけにして下さい」

「まさか、あなたはもうそれを見つけて―――」

「どうか、我が(まま)を……聞いて下さい」


 右手を闇雲に伸ばし、触れた相手の衣を掴んでアリアは訴える。

 すると相手は、若干の間の後に応えてくれた。


「……分かりました。お約束致します」

「そう……、感謝します。ありがとう」


 これで、もう思い残すことも無い。

 存外、すっきりした気持ちだった。


「……リンド、」


 とアリアは、もう声が届かない相手に向かって告げる。


「あの日切っ掛けを貰ったのは、あなただけでは無いのよ。あなたがあんな大言を吐くから、私にも……」


 ―――私にも何かできるかもと、そう思ったのよ。


 声は、もう出なかった。

 それでアリアはすっと目を閉じ、姿勢を正して手を組む。

 最期まで、アリア・クリストンであるために。


 アリアは、この世界の人々が記していたと言う記録を既に見つけていた。

 そこには長々と、アルバートの歴史が記されていた。血(なまぐさ)い、「偽英雄」の歴史が。

 故にアリアは、記録の最後にこう書き加えた。


 ―――あの世界の歴史にその名が残らなかったとしても、私は知っている。世界は偽物でも、リンド・アルバートは確かに「英雄」だった。


 記したアリアの名は消えても、彼女の記録はきっと残り続ける。

 それを確信して、彼女はふっと微笑む。


 その慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、アリア・クリストンは二十一年の生涯に終止符を打った。

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