91.少女と隠し通路の人影
抜け道へと続くらしい建物の中は、薄暗かった。天井近くにある鎧戸が閉じられている所為だ。
その暗がりの中央には、埃を被った机が一つとそれを挟んで椅子が二脚置かれていた。また隅の方には、木箱や樽が置かれている。何の変哲もない家、の雰囲気が醸し出されていた。
フレアは部屋の奥の壁際に二つ並ぶ大きな木の戸棚の所まで行くと、その一方の戸を開く。
そして棚の中を区切っている板を、その上に並ぶ食器ごと引っ張り出した。やや忙しい動きのために、いくつかの木製の食器が床に落ちてことんと音を立てる。
「何ですか? そこに鍵でも―――」
「鍵穴が、無い」
とフレアが声を漏らした。
それでニーナも近づいて戸棚の中を覗き込んでみると、そこには板が張られている。……特に変わったところは無い。
だが彼女の発言から推測するに、ここが「入口」になっているようだ。
隣で、フレアが言葉を継いだ。
「誰かがここを抉じ開けて、その後塞いだんだわ」
「へえ、この先に隠し通路があるんですね」
言って、ニーナは再びフレアを押し退ける。
そしてそこに張られた板も蹴破った。
すると壁際にあるはずの戸棚の奥に、家の外では無い暗い空間が見えた。
覗き込むと、その先に地下へと続く階段があった。
「ここからクリストンの所へ行けるんですね」
「そうなんだけど、この分じゃ……」
言葉を詰まらせるフレアを余所に、ニーナはさっさとその戸棚の奥へ足を踏み入れる。
そして地下への階段を下りていくと、すぐにつんと鼻を突く異臭がした。
「何コレ……、臭っ」
「生活に使った水を流してる水路があるからね……」
後ろから付いて来るフレアが応える。
彼女が言う通り、階段を下った先には水路に接した空間があった。
だが、それだけだ。道はそこで行き止まっている。
「あれ、どうするんですかこの先?」
「やっぱり、無いわね……」
とフレアが溜息を吐く。
「ここに筏があるはずだったのよ。それで水路を進めば、クリストン邸の地下へ行けるんだけど―――」
「その筏を壊されちゃったってことですか?」
「多分……」
答えて、フレアは肩を落とす。
それを見てニーナは、ふむと腕を組んだ。
「―――これ深いんですか?」
「深いわ。歩いては進めない」
「じゃあ、泳ぎます?」
「無理よ。汚いし、距離もあるわ。そもそも、私泳いだこと無いし……」
反論するフレアに対し、ニーナははいと挙手する。
「じゃあ取り合えず、私だけ行ってみます。私も泳いだことは無いですけどね」
「やめなさいっ!」
無根拠な自信で飛び込もうとするニーナを、フレアが引っ掴んで止めた。
「溺れちゃったら、私助けられないのよ!? 『魔人』だからって何でもできると思わないで!」
「でも頑張れば、水の上を走れるかも―――」
「無理よ!」
「じゃあ、壁を蹴って―――」
「無理っ!」
どう言っても、フレアは納得してくれなかった。
それでニーナは口を尖らせ、その場にぺたんと腰を下ろした。
「なら、どうするんですか。このまま待ってたって、迎えが来るわけじゃないんでしょう?」
「分かってるわよ……」
と言って、フレアは腕を組み考え込む。
「水路を凍らせて進む……のは、大分消耗しそうね。それに地上でアルバートが退魔の力を使った場合に、行き成り足場を失う可能性がある……」
暫しの思案の後、彼女は腕組みを解いて言った。
「……この経路は諦めて、地上に戻りましょう。中央通りの橋を使うわけにはいかないから、見つからないように街の端から水路を跳び越えて―――」
「フレアさん」
とそこでニーナは、彼女の声を遮った。
その耳で微かな「動き」を感じ取ったからだ。
「誰か、向かってきてるみたいです」
「ウソ、逃げ道無いじゃない」
「いや、地上からじゃなくて」
と返して、ニーナは水路の方を指す。
「この先から、水を掻いてる音がします」
「え、そっちから? ―――誰だろ」
フレアは考える素振りを見せるが、それはつまり明確な心当たりが無いと言うことだ。
「誰か分かんないなら、上へ戻って様子見ましょうよ」
「……そうね」
ニーナの声にフレアも応じ、二人は下って来た階段を上る。
そうして戸棚を潜って部屋へ戻ると、戸棚の両脇に控えて下の動きを待った。
フレアがどうかは分からないが、ニーナの耳ではそこでも地下の音が聴き取れた。
静かに水を掻く音が、徐々に大きくなる。
そしてそれが不意に止んだかと思うと、鈍い接触音が響いてくる。恐らく、水路の端に筏か何かを寄せたのだ。
続いて、筏から地下通路へ降りるような足音。その後には、規則的な歩む音が聞こえてくる。
やがてかつかつと階段を上がる音が聞こえる頃になって、フレアがぴくと反応した。
そして右手の人差し指で、魔法を綴る。
ニーナもまた、右手で腰に差したナイフを引き抜いた。そうして、いつでも飛び掛かれる臨戦態勢をとった。
相手の足音は、途中からゆったりとしたものに変わった。立てる音も、若干控え目になった気がする。ここの戸棚が開いていることに気付き、警戒し始めたのだろう。
互いに、勝負は出会い頭に決まると理解したわけだ。
静かに階段を上っていた足音が、止む。相手は戸棚の出入口前まで来て、止まったらしい。
そうして暫く、沈黙の時が流れる。
こちらから出るべきか。
しかし相手がアルバートだったならば、迂闊に近づくのは危ない。ニーナの場合、魔法王マーシャルのように力を失ってしまうかもしれないのだ。
ニーナが息を潜めながら考えていると、こつと向こうが動く音がした。
焦れて相手の方から動いてくれるのなら、好都合だ。
ニーナはぐっと腰を落として、慎重な足取りで戸棚の出入口へ近づく相手を待ち受ける。
そしてそこから上半身をすっと覗かせた相手に向かって、一気に飛び掛かった。
「あっ―――!」
と驚く相手の胸倉を掴んで戸棚の外へ引き出すと、その勢いのまま床に倒した。
そして馬乗りになって、相手の首にナイフを突き付ける。
予想外に柔らかい感触。女だった。
金髪で、長いスカートの一繋ぎになった質素な衣を纏っている。
「動かないで下さい」
声を向けながら、ニーナは素早く左手で女の左手首を掴んだ。相手の顔が、苦痛に歪む。
彼女の左の掌に、印は無かった。アルバートでは無いようだ。ニーナは一先ず、安堵する。
そこへフレアが寄ってきて、目を瞬いた。
「サーシャ……?」
「フレア様……!」
と彼女も目を見開く。
それでフレアは、ニーナに武器を収めるように言ってきた。
「ニーナ、大丈夫。彼女は―――」
「使用人さんですね、リンドさんの」
それに応じて、ニーナは女―――サーシャの上から退く。
対して彼女は「今はクリストン家の使用人ですが……」とはにかんだ。
そんな彼女を前に、ニーナはちろっとフレアを見る。
「もっと早く言って下さいよ」
「あんたが速過ぎるのよ……」
と返したフレアは、「それに―――」と続けた。
「雰囲気、ちょっと変わってたから……」
「すみません。分かり難かったですね」
サーシャはそう応じながら、金色の髪に触れる。
その髪は、女ではあまり見ないほどに短い。後ろ髪は項に少し掛かる程度だ。
二人の話から察するに、以前はもっと長かったのだろう。
「何かあったの? もしかして、私を見逃したことで……!?」
「いえ、違います」
フレアの言葉を、サーシャは透かさず否定する。庇っているだけかもしれないが。
フレアもそう感じているのか、彼女をじっと見る。そして、はっと何かに気付いたようだった。
「サーシャ、首に傷が」
「えっ」
とサーシャがびくりと反応して、首に触れた。
その彼女に、フレアが謝罪する。
「さっきのニーナのナイフの刃が当たってたのね……。ごめんなさい」
「あ、あぁ……。いえ、大丈夫ですよ」
と言って、サーシャはふうと小さく息を吐く。
しかしフレアは、心配そうに彼女に歩み寄った。
「そのままにしておけないわ。手当てするから―――」
「いえ、大した傷では無いので……」
「遠慮しないで」
「手当てして頂くほどの怪我では無いです」
とサーシャは、固辞する。
その様子と言い、先の反応と言い、少々気になるところだ。
故にニーナも、ちょこちょこと彼女へ歩み寄る。すると、フレアが声を向けてきた。
「ほら、あんたもちゃんと謝りなさい」
「あー。すみません」
「ちゃんと謝りなさい!」
「フレア様、良いんです。行き成り顔を出した私も悪いですし……」
そう言って事を収めようとするサーシャを、ニーナはじっと見る。
袖もスカート丈も長くて、分からない。
それでニーナはサーシャのスカートの裾を摘むと、ばっと勢いよく捲った。
「あっ……!」
「ちょっ―――、ニーナ!」
頬を朱に染めすぐにスカートを押さえたサーシャの横で、フレアが怒る。
「こんな時にふざけないで!」
「見えました」
「こら、いい加減に―――!」
「痣。沢山」
言うと、フレアは「えっ」と声を漏らしてサーシャの方を見た。
対する彼女は、困ったような微苦笑を浮かべる。「見逃してくれ」と言わんばかりだ。
しかし、それで見過ごせるほどニーナは大人で無い。
「手首にもありますよね? さっき軽く掴んだだけで、痛そうにしてましたし」
「……」
「サーシャ、どういうこと?」
フレアが問うが、彼女は困ったように笑むだけ。
それでフレアが「答えて!」と肩を掴むと、彼女はびくりと怯えるような反応を見せた。
その反応から嫌な想像が浮かんだのか、フレアも手を放して固まってしまう。
これでは埒が明かない。
ニーナはふんすと息を吐いて、サーシャを見た。
「―――私はあなたのこと知らないしまだ信用してないからどうでも良いんですけど……、リンドさんにはちゃんと伝えなきゃいけないんですよ」
言うと、サーシャは首を傾げる。
「リンド様から、私の話を聞いたのですか?」
「ええ、もう沢山。会ったばかりの頃なんて、『サーシャが』『サーシャが』って煩かったです」
「それは……、困りましたね」
と返しながらも、サーシャの口元は綻んでいた。
そんな彼女に、ニーナは言う。
「だから、リンドさんには『使用人さんは大丈夫でしたよー』って教えてあげなきゃいけないんです。なのにそんな風に暈されたら、ちゃんと伝えられないじゃないですか」
「……」
彼女の言葉に、サーシャは暫し考えるような間を取った。
そしてふうと息を吐いてから、戸棚の向こう側を右手で指し示した。
「―――クリストン邸に向かわれるのですよね? でしたら、行きましょう。諸々の事情については、向かいながらお話しさせて頂きます」
言って、彼女は先に歩み出す。
それにニーナとフレアも従った。
戸棚を潜って、再び地下へ向かって階段を下りていく。
サーシャは、すぐには口を開かなかった。
それでフレアが、口火を切る。
「サーシャ」
「はい」
と振り向く彼女にフレアは「前向いてて良いから」と伝える。
それから、礼を口にした。
「ありがとね。あの時、私を見逃してくれて。リンドのこと、教えてくれて」
「大したことはしておりませんが……。リンド様と合流して和解できたなら、私も嬉しいです」
「まァ、会って暫くは凄い刺々してましたけどね」
口を挟んだニーナに、フレアが「言わないでよ」と声を向けてくる。
「それにあの頃は、あんたも大分尖ってたじゃない。私に対する当たり強かった」
「あれは軽く殴っただけですよ?」
「いや、そういう物理的な話じゃなくて……」
言い合うニーナとフレアの声を背中で聞いていたサーシャが、くすりと笑みを漏らした。
そして、ちらとニーナに目を向けてくる。
「ニーナさん、ですね。覚えました。私のことは、リンド様から聞かれているのですよね」
「聞かれてます。旅のためのお金をあげちゃったって」
「あぁ、それは……」
とサーシャは苦笑した。
それから、はたと何か思い出した様子で口にする。
「ニーナさんは、リンド様と少し似ていますね」
「まァ、フレアさんより付き合い長いですからね」
「数日の差じゃない……」
とフレアが呆れ交じりの声で指摘する。
それから、サーシャに向かって言葉を継ぐ。
「でもリンドに影響されてるのは、確かでしょうね。あいつニーナに文字とか計算とか教えてたし」
「そうなのですね。洞察力が鋭いところなどは、よく似ている気がします。それにまさか、またスカートを捲られて気付かれてしまうなんて―――」
「また?」
ニーナとフレアとが同時に声を出したのを聞いて、サーシャが「あっ」と言って口を噤んだ。
だが、もう遅い。
「リンドさん、使用人さんには手を出してたんですね……」
「あいつ、あれだけ『全部終わってから』とか言ってた癖に……」
「いえ、あの……違うのです」
とサーシャが慌てた様子で否定する。
「そういうことがあったのは一回だけで―――」
「一回あったらもうダメでしょ……」
「いえっ。その一回と言うのも……その、そういう目的では無いのです。何と言うか、説明し辛いのですが……」
フレアへの反論がしどろもどろになっているサーシャの様子からは、怪しさを感じてしまう。……だが、「手を出したわけでは無い」と言うことについては確かなのだろう。
ニーナが思っていると、フレアがそれを口にした。
「―――まあ、生真面目なリンドがいい加減な気持ちで手を出すわけ無いわね。どうせまた合理優先の行動に出たんでしょ。私も経験あるわ……」
「はあ、まあ……」
「認めちゃいましたね……」
正直に答えるサーシャを見て、ニーナは苦笑いする。
そんな遣り取りをしている間に、三人は地下水路へ出た。
そこに見える水路沿いには、筏が浮かべられていた。
筏から伸びる縄は壁に打ち込まれている鉄の杭に掛けられ、筏が流されることを防いでいる。
縄が掛けられた杭の傍には、筏を進めるために使うと見られる長い木の棒も立て掛けられていた。
「これ、クリストン邸の方にあった予備ね」
筏を見たフレアが言う。
それにサーシャが「はい」と応えた。
「フレア様が出られた後に、この隠し通路が見つかって筏も壊されたと聞きました。ですがクリストン邸側の通路が見つかることは、無かったようです」
「それで使用人さんは、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」
「それほど大変なことでは……、ありません」
じーっと視線を向けるニーナにやや気圧されながらも、サーシャは答える。
少々ニーナたちにとって都合が良過ぎる気がした。
サーシャが敵側なのかは判じられない。だがフレアは彼女を客観視することができないはずなので、そうなるとニーナが気を付けるしかあるまい。
ニーナが見つめる前で、サーシャは木の棒を取って先に筏に乗る。
そして「どうぞ」と声掛けニーナたちを招いた。
何とか三人乗れるだけの広さはありそうだが、沈まないだろうか。
「サーシャはこの通路のこと、誰から聞いたの?」
「グレイ様からお聞きしました」
筏に移りながら問うフレアに、サーシャはそう答える。
「皆様が向かってきていることを知って、『必要になるかもしれないから』と教えて下さいました」
「お父さんたちは、無事なの?」
「はい。グレイ様を含めクリストンの皆様は邸宅の二階の部屋に集められておりますが、危害は加えられておりません」
サーシャの答えに、フレアは一先ず安堵したようだった。
「良かった……。お父さんが一緒なら、仮に兵士に襲われても大丈夫ね」
「アルバートはいるんですか?」
筏にそっと乗ったニーナが問うと、サーシャは首を横に振る。
「少なくとも私が地下水路へ下りる時点では、誰もいませんでした。兵士の方の人数も動きも、普段と変わりはありませんでした」
「それなら、良いんだけど……」
「ですね。クリストンをさっさと助けて、早くリンドさんたちと合流しましょう!」
不安げなフレアを余所に、ニーナはぐっと拳を掲げる。
するとそれを見たフレアは呆れ交じりの息を吐きながら、ふっと笑んだ。
「……頼んだわよ」
「任せて下さいよ」
フレアの声に、ニーナはむんと胸を張った。
そうしている間に、サーシャは筏を漕ぎ出した。
漕ぐ……と言うのは正確で無いかもしれない。彼女がやっていることは水を掻くことでは無く、殆ど周囲の壁を突いて水路の中央位置を維持することだ。
中央の流れに乗れば、水を掻かずとも勝手に進むようだ。
沈む心配も無さそうなので、ニーナは一安心してサーシャに声を向ける。
「それ、私やっても良いですか?」
「ええと……」
「ダメ。あんたがやると壊しそう」
困り気味に笑むサーシャの傍で、フレアが制止の声を上げた。
それでニーナが口を尖らせながら大人しく引き下がると、フレアはサーシャの方へ控え目な声を向けた。
「ところで、さ……。さっきの話、聞かせてもらっても良い……?」
「……はい」
サーシャはやや間を置いて、応える。
そして視線を左手首に落とすと、静かに語り始めた。




