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不浄のアルバ  作者: 北郷 信羅
第1章 旧都で出会った二人は
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9.少女と化け物

 巨大な猪はその長く鋭い牙で行く先を遮る木々をへし折りながら、薄暗い森から姿を現す。盛り上がった背中の高さはリンドの身の丈の倍ほどに達し、横幅も彼が左右に両腕を広げた幅よりも大きい。これが恐らく「第一世代」の規格なのだろう。


「アレ、『カリュドン』って言うんですか?」


 けたたましい唸り声を上げて威嚇する大猪を前にして、しかしニーナはいつも通りの声音で問う。対してリンドもまた、平生と変わらない淡々とした調子で言葉を返してくる。


「アレの個体名じゃない。魔法神話を起源にして、大きな猪のことをそう呼ぶことがあるってだけだ」

「へえ……」


 ニーナは分かったような分からないような曖昧な相槌を返す。彼女の関心は、既に名ではなく(たい)の方へ移っていた。


「これは狩り甲斐がありますね―――」


 言い終える前に、その声は掻き消される。カリュドンが鋭い威嚇の声を飛ばし、大地を揺す振りながら駆けてきたからだ。


「ニーナ―――」


 リンドの声が聞こえたような気がしたが、もう遅い。ニーナは突撃してくる大猪に向かって、いの一番に駆け出していた。

 巨体の割には素早い相手なのだろうが、彼女から見れば迫る勢いに速さは感じない。ニーナは正面から跳びかかり、カリュドンの頭を思い切り蹴りつける。


 ごっという硬質な音が響き、カリュドンの足が一瞬鈍る。


 しかし次の瞬間、ニーナは撥ねられ平原を転げていた。速さは大したことなくても、重さはニーナを遥かに凌駕している相手だ。正面からでは当たり負けしてしまうのも当然のこと。


「―――へへっ」


 思わず、ニーナは笑う。撥ね飛ばされ地面に打ち付けた身体は痛むが、それが彼女の戦意を削ぐことはない。むしろ、彼女の闘争心はより一層強まったと言っていい。


 立ち上がったニーナの方を振り向いて、カリュドンはまた突進してくる。それを今度は横に跳んでかわす。

 しかし、かわすだけに留めない。すぐ横を駆け抜ける大猪に向かって、ニーナは即座に跳びかかった。そしてその山のような背の側面に、両手で握り締めたナイフを思い切り振り下ろす。

 頭を蹴った時に分かったことだが、カリュドンは頭蓋骨だけでなく、その毛も皮も肉も相当に硬い。だからこそ、彼女は本気でそのナイフを振り下ろす。流石(さすが)にそれだけの力が込もった刃は、カリュドンの肉にも確実に食い込む。呻きのような声が、広い平原に響き渡った。


 だが、ニーナは怯まない。左手で大猪の剛毛をむんずと掴みその背に取り着くと、右手で突き立てたナイフを引き下ろして肉を裂きにかかる。―――が、


「―――あっ!」


 力を込めた瞬間、ナイフはその刃の根元付近でぼきりと音立てて折れてしまった。右手の支えを失った彼女は走りながら身体を激しく揺するカリュドンに掴まっていられず、振り落とされてしまう。

 ごろごろと転がされた先は旧街道。平らかに(なら)されているとはいえ、石敷の道の上は草原の上よりも強くその身を打つ。


「痛たたっ……」


 街道上に仰向いていると、あの巨体が激しく地を踏む振動をよりはっきりと感じる。激しい震動は徐々に減衰していくが、すぐにまた増進に転じる。方向転換してこちらへ向かってきているのだ。


 がばと身体を起こしてみれば、猛進してくるカリュドンと目が合った。すぐにぐっとナイフを握り直すも、そこに刃が無いことを思い出して投げ捨てる。


「……肉弾戦ですか。良いですね」


 にっと不敵に笑んで両の拳を握り締めた時、カリュドンの側面から走り込んでくるリンドの姿が目に入った。リンドは両手で握った剣を高く上段に構えて、大猪の首辺りに振り下ろす。しかし斬撃は通らず、剣は弾かれてしまった。

 すると彼はすぐに剣を握り直し、目の前を駆け抜けていくカリュドンに向かってもう一撃入れる。素早く振り下ろされた剣の刀身は、的確に一点を打った。

 ニーナが突き立てた刃が残る、その一点を。


 ぐわっと、カリュドンが悲鳴を上げる。そしてその駆け足の勢いがいくらか弱まったかと思うと、ぐんと身体を捻ってリンドの方へと向きを変えた。狙いが変わったらしい。

 鋭い牙を差し向けて突進するカリュドンに対し、リンドは冷静に横跳びしてかわす。そして綺麗に受け身を取ってすぐに大猪の方へ向き直ると、再び側面の傷を打った。カリュドンが、また苦悶の声を上げる。


 ただ、それを繰り返していても決定打にはならない。そのことはリンドも理解しているようで、カリュドンをやり過ごした直後にぱっとニーナの方を見る。


「ニーナ」

「はい?」

「あいつの動きを止めてくれ。一瞬で良い」


 言われその可否について思考を巡らしていると、その間にリンドが言葉を継ぐ。


「頭だ。最初にお前が蹴った時も多少は効果があった。できるだけ俺の近くでやってくれ」

「それでどうするんです?」


 問うが、言うことだけ言うと彼はもうカリュドンの方へ向き直っている。問いに対する答えは返ってこない。


「……しょうがないなァ」


 ぼそりと呟いて、ニーナは駆け出す。

 リンドがどうするつもりなのかは、分からない。退魔の力を使うわけでも無さそうだ。使うのならば、最初から使えば動きを止めることもできそうに思える。それをしないのは、この場においてそれが彼の中の第一の選択肢になり得ないからだろう。退魔の力に安易に頼らない。そういう規則が彼の中には存在しているようだった。


 ニーナとしては、そうした規則に口出しするつもりは無い。彼女にとってはどうでも良いことだ。結果が出るのであれば、やり方は何だって良い。


「―――勝てるって言うなら、やってやろうじゃないですか」


 にやと笑んで、リンドに突進するカリュドンの方へ走る。そして、高く跳び上がった。

 並外れた脚力で思い切り地を蹴ると、その身体は容易く大猪の盛り上がった背の高さを超える。そして狙い通り、その身は大猪の頭上に向かって落下していく。


「これで―――、どうだッ!」


 空中で器用に身を翻して、ニーナは落下の勢いそのままにカリュドンの頭に(かかと)を落とした。


 ごんと鈍い音が響き、直後にみしと骨が(きし)む音がする。それがニーナの足の音なのかカリュドンの頭の音なのかは分からない。ただ、ぐぎと妙な鳴き声を漏らして、大猪は顎から鼻先にかけてを地面に擦る。それでその巨体は大きく減速した。


 そこに、リンドが突っ込んでくる。足の運びが止まったカリュドンの正面から、剣を引いた刺突の姿勢で。

 そして彼はその剣先を、思い切りカリュドンの目に向かって突き出した。剣の切っ先は、真っ直ぐに大猪の大きな目玉に刺さる。

 リンドは、さらに剣を一気に押し込む。眼球を貫きさらにその奥へ奥へと、刀身全体を大猪の内へと突き込んでいく。


 カリュドンが悲鳴を上げたのは、一瞬のことだった。暴れる暇も無く、巨大な猪はその太い脚を折って地面に伏した。


「……やったんですか?」

「ああ」


 ニーナの問いに、リンドは変わらぬ淡々とした様子で答える。ただ押し込んだ剣は中々抜けないようで、ぐいぐい引っ張ってはふうと疲れた息を吐く。それを見て、ニーナも緊張を解いてふっと笑う。


「手伝いましょうか?」

「いい。お前がやると折りそうだ」

「えー……」


 それでニーナは、リンドが剣を引っこ抜くまでカリュドンの背に座って薄雲りの空を眺めていた。そこから見える景色は普段と大して変わらないのだが、吹き抜ける風はほんの少しばかり心地良く感じられた。


 *


 ニーナたちが旧都に戻る頃には、太陽が西方に落ち始め空は朱色に染まってきていた。カリュドン討伐をした場所は旧都から程近かったわけだが、解体に手間取ってしまった。


 依頼達成の報酬を受け取るには、当たり前だが達成を証明するものが必要だ。そのためカリュドンの大きな牙を持ち帰ることになり、これを根元から折るだけでも相当な重労働。

 さらにカリュドンの前に片付けた三頭の狼についても、毛皮が売れるという話にニーナが跳びついて作業することになった。ところが知識の無い彼女は上手く皮を剥ぐことができず、ずたずたに裂いた挙句に一頭分を無駄にしてしまった。リンドからはぶつぶつ文句を言われたが、それでも次からは丁寧な指導が入って無事二頭分の毛皮を手に入れることができた。その分、多くの時間を費やしてしまったわけが。


 ()にも角にも、ニーナたちはカリュドンの牙一つと狼の毛皮二枚を手に入れた。リンドを先頭に牙を二人で(かつ)ぎ、彼は空いている左脇に毛皮も抱えて旧都の門まで辿り着く。そのまま中へ……といきたいところだったが、ここは止められてしまう。


「ちょっと待て。―――それは?」


 門衛の言う「それ」が巨大な牙のことなのか毛皮のことなのか、将又(はたまた)血だらけのニーナのことなのかは判然としない。ただいずれにしても、答えは同じだ。


「街道を通る妨げになっていた魔物を討伐してきた」


 リンドが端的にその答えを口にする。


「……そうか。それは御苦労だったな」


 そう返す門衛の声からは、今一(ねぎら)いの感情を感じられない。リンドの言葉を完全には信用していないように見えた。


「それはそれとして、『印』の確認をさせてもらうぞ」

「昼に出たばかりなんだが……」

「知らん。規則なんだ。見せてくれ」


 融通は利かなそうなので、リンドは諦めて荷物を置く。ニーナもそれに従って、両手をぱっと開いて門衛に示す。顔は心持ち俯かせながら。

 彼に巻いてもらった右手の布も解く。既に巻く必要は無くなっている。酒場での傷はもう塞がっているのだから。


「その布も解いてくれ」


 門衛の指示は、リンドに向けられたものだった。ニーナに対する言及は無いようで、彼女は内心ほっとする。一方で指示を受けたリンドの方は、渋々の(てい)でその左手の布を解く。

 そこには、黒い龍の印がある。それを見て、門衛はひっと声を詰まらせる。そして即座に頭を深々と下げた。


「しっ……失礼致しましたっ! お許し下さい……!」


 明らかな態度の軟化に呆れたのか、リンドは頭をがしがし掻く。


「許しが欲しいのは俺の方だ。通って良いか」

「もちろんです!」


 言って、門衛は(うやうや)しくリンドの道を空ける。しかしその態度は、一方で化け物から距離を取っているようにも見えた。

 リンドはそれ以上何も言わず、ただ疲れた様子で息を吐く。それから左手の布を巻き直し、荷物を抱え直して門を抜ける。ニーナも彼について、旧都の中へ戻った。


 街に入るとリンドは、まず皮を扱う商人の店を訪ねた。リンド曰く、魔物獣を狩った傭兵から一番に毛皮を買えるように、そうした店は門の近くに多くが立地しているらしい。


 彼が店で売値の交渉をする間に、ニーナは近くの教会で開放されている水場に貯められた少ない雨水で服と身体から血を洗い流す。狼に噛まれてできた上腕の傷は、既に出血が止まっていた。その高い回復力に、ニーナは我がことながら苦笑する。


「……これじゃホントに、化け物ですね」


 思わず呟く。それから、取り憑かれたように身体についた血を右手に巻いていた布巾で拭った。それで身体は、大分綺麗になった。服の方も完全に汚れを落とすことはできなかったが、それでも道行く人の注目を集めずに済むくらいには綺麗になったので良しとすべきだろう。


 満足というより納得して皮を売り買いする店の方へ戻ると、丁度リンドが店の外に出てきたところだった。いくらか膨れたように見える腰の布袋をぽんぽんと大事そうに叩いている。もちろん、反対側には巨大なカリュドンの牙を引き摺って。


「いくらになったんですか?」


 声をかけると、その視線がこちらに向く。


「―――うん、綺麗になったな」

「ありがとうございます……。じゃなくて、いくらになったんですか?」


 思わず照れながら礼を言ってしまったが、金の話をニーナは流さない。再び問うと、リンドはまた腰の袋をぽんと叩く。それに合わせて、中身がじゃらと音を立てる。


「毛皮一枚当たり銅貨五枚」

「へえ! じゃあ毛皮二枚で銅貨十枚ですね!」

「お前がダメにしたもう一枚があれば、銅貨十五枚だったな」


 リンドにちくりと言われ、ニーナはややばつが悪そうに視線を逸らす。


「……最初からちゃんと教えてくれれば、失敗しなかったんですよ」


 ぼそりと文句を言うと、リンドは「そうだな」と返して大きな牙を彼女に差し向ける。大して気にはしていないようだったので、ニーナもさっさとその話を打ち切って牙の根元部分を担ぐ。その持ち方だと重量の多くがニーナの方にかかるのだが、それは恐らく彼女の怪力を考慮した適切な役割分担だ。決して、彼が毛皮の件の根に持っているわけではない。……はずだ。

 リンドはさっさと歩き出してしまうし、ニーナは半ば強引にそう結論して彼の後を追った。


「次は、依頼の達成報告ですか?」

「うん」


 その背に問うと、すぐに答えが返ってくる。


「ルイスの酒場に行く。……大人しくしててくれ」

「何ですかそれ……」


 ニーナは思わず、口を尖らせる。


「子供扱いしないでください。大人しく座ってることくらいできますよ」

「だと、良いんだが」


 やや不安げに、リンドは呟く。

 そうして二人は、ルイスの酒場を目指して大通りを南に歩いた。

■登場人物


【カリュドン】

 巨大な猪の魔物。第一世代。

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