86.偽英雄と裏切り
魔法王都を発って、九日。
純人王国の王都への帰路を進むリンドたちの頭上で、天はいつもと変わらず薄い雲に覆われていた。
この九日間、ずっと同じ。激戦を切り抜け新たな道を拓こうとする彼らを、天が祝福してくれることは無い。
尤も、そうした「奇跡」をリンドは信じていないのだが。
もし仮にそのような事象が本当にあったとして……、何故それがリンドたちの思いだけに反応すると言うのだろう。
この地には、沢山の人々が暮らしているのだ。人の思いに呼応して天候が変わるのならば、その多くの人々が笑っていなければ晴天はやってくるまい。
「―――俺たちもまだ、笑うには早いな」
「そうだ」
と、リンドの呟きに後方から少女の声が返ってきた。
「まずはお前の大言を、実現して見せよ」
そう言ってこちらに睨むような視線を向けてくるのは、ミネア・ソートリッジ。嘗ての魔法王の娘だ。
どうして彼女がリンドたちと行動を共にしているのかと言えば、それはリンドの「忠義」を見るためだった。
魔法王都の人々からの信用を得るために、リンドは一つの「忠義」を見せることを決めた。
それを見てもらうためにミネアの配下に同行してもらうつもりだったのだが……、予想に反してミネア自身が出向くと宣ったのだ。
彼女を心配するラークは反対したが、彼女は「行く」の一点張り。
だが事実上城の兵の統率者たるラークが、ミネアについて行って留守にするわけにもいかない。
そのため、代わりに十人ほどの護衛が彼女に付くことになった。今も物々しい雰囲気でこちらに警戒の目を向けてきている。
無論、十人ばかりの供回りでラークが満足するはずも無い。
ミネアが鬱陶しがって遠ざけてはいるものの、リンドたちの周辺には百近い兵が控えているようだった。お陰でリンドも落ち着かず、この九日間はよく眠れなかった。
だがそれも、もうすぐ終わる。
行く先には、西の境界の町が見えてきていた。
「ねえ……、リンド」
隣から、フレアが声を掛けてくる。
その右手には未だ布が巻かれているが、暫く魔法王都でロゼの治療を受けていたのでもう大分落ち着いているようだった。
ただその彼女は今、別のことで不安を感じているらしい。
「本当に、大丈夫なの?」
「ああ」
とリンドは、その問いに即答する。
「問題無い」
「その『問題無い』の根拠を聞かされてないから、不安なんだけど……」
「迂闊に話してこの人数に知られるのは危うい。策を実行しようって時に、顔に出る人間がいても困る」
言うと、フレアはむすっとやや不機嫌そうな顔をする。
「私、そんなへましないわよ」
「別にお前のことだとは言ってない」
言っていない……が、その顔を見ていると若干の不安は無くも無かった。
思いつつリンドが視線を逸らすと、フレアははあと息を吐いた。
「失敗できないって言うのは、分かるけど。―――ねえ、ニーナも不安じゃないの?」
彼女が声を向けた先で、しかし簡易な布の帽子を被ったニーナはミネアと睨み合っていた。
ニーナの怪我に関しては、もう心配をする必要も無い。完治していた。恐ろしいほどの治癒力だ。
「その生意気な口、直した方が良いですよ?」
「生意気は貴様の方だ! どう見ても私より年下の癖に……。それに私は、魔法王家の人間なのだぞ!」
「知りませんよ。私は相手が王でも神でもご機嫌取りする気なんて無いです」
「貴様っ……、龍神までも愚弄するか!」
言い合う二人を尻目に見ながらリンドはふうと溜息を吐き、フレアは呆れ交じりの顔で「やめなさいよ……」とニーナの腕を掴む。
「これから強敵と戦うって時に、よく憎まれ口たたいていられるわね……。あんた私の話聞いてた?」
「うん? だって、リンドさんが問題無いって言ってたじゃないですか」
とニーナは、さも当然と言う顔でそう返した。
その絶大な信頼に思わずリンドは頬を掻き、フレアは苦笑いする。
「あんた、ホント凄いわね……」
「ふふん。もっと褒めても良いんですよ?」
「―――おい、」
とリンドは、咳払いしてから話に割って入る。
「もうすぐ到着だ。問題は無い……が、気は引き締めてくれ」
「はーい」
「分かってるわよ」
二人の返事を聞きながら、リンドは目前に迫る境界の町を見据えた。
*
純人王国と魔法王国とを隔てる大河に架かる橋は、東西に一つずつある。
その橋を包含している町のことを、人々は「境界の町」と呼んでいる。大河を挟んで両国の主に兵士が暮らす最前線の町だ。
その境界の町の東西の差を端的に述べると、「規模」と言うことになる。東側は魔法史以前の時代に王都であったとも言われる大規模な「街」だ。対してこの西側は、境界橋ができた後に生まれた小規模な「町」なのだ。
しかし小規模と言っても、それは東に比べればの話だ。純人王国全体で見れば、鍛冶町や港町のような中規模の町と同程度の広さを持っている。
町の造りも当然だが石の頑強なもので、石橋の両端には東の街と同様に砦が築かれている。
こちらも無論、守るべき重要拠点だ。故に「あの男」も、東と行き来しながら指揮を執っていた。
そして今はこちら側にいると、リンドは聞いていた。
「ミネア様。お話は伺っております」
リンドたちが町の門へ近づくと、そこに立っていた二人の番兵の内の一人が言った。
リンドとは目を合わせない。宿敵アルバートに対する態度としては、その方が普通だろう。この状況に対する彼らの心中は複雑なはずだ。
そしてだからこそ、リンドはここで「忠義」を示さねばならないのだ。
番兵たちが開けてくれた門を潜って、リンドは町へ踏み入る。
最前線故のぴりぴりとした町の雰囲気は、東側と変わらない。道行く人の影は無く、ただごつごつとした無骨な石の建物が整然と並んでいる。
戦いの音は、無かった。しかしそれは、平穏を意味するものでは無い。
「音がしない」と言うより、「音をさせない」と言うような張り詰めた沈黙だ。
そのリンドの感覚は、すぐに正しかったと判明した。
「……何、あれ」
フレアが、声を漏らす。
東の街より短い南北方向の通りを抜けて大河沿いの東西方向の大通りに出ると、その先にある境界の大橋を挟んで赤と黒の兵団が睨み合っていたのだ。
その数は、それぞれ百を超えているだろう。
「ラークが西側に兵を集めたと言っていたからな。敵も慌てて兵を集めたのだろう」
ミネアが得意げに言う。少々身贔屓な表現だが、間違ってはいないだろう。
リンドたちとの度重なる戦闘もあって、東の境界の街の魔法王国兵は消耗していたはずだ。その彼らを休ませるために、ラークは敢えてこの西側の兵を増強して見せた。そしてそれによって純人王国側の統率者は、こちらへ引き付けられていたと言うわけだ。
そのラークの策に、相手側が慌てたかは分からないが。
それはともかくとして、リンドとしては統率者の居場所がはっきりと分かっていて助かった。
彼は橋の向こう側で待機している兵たちの先頭にその統率者がいることを確認して、それからミネアへちらと視線を送る。
「―――お前に頼みたいのは、一つだけだ。何があっても、兵を動かさないでくれ」
「言われなくても、貴様に貸す兵など無いわ」
とミネアが呆れ交じりに返してくるが、それに対してリンドは首を横に振る。
「そうじゃない。俺が言っているのは、事が済んだ後だ」
「勿論、お前が良き働きを見せたなら―――」
「そちらが少しでも攻撃の兆しを見せたなら、俺は俺の全力と得た情報を以ってお前たちを潰さなければならなくなる」
リンドが常よりも低く冷淡な声を出すと、軽薄な態度で喋っていたミネアはびくりと一瞬怯む。
それから、怯んだ自分を恥じるようにリンドを睨み返してきた。
「……私は、父様の無念を晴らしたいのだ。それが叶うのならば、悪魔とも取引する」
「悪魔じゃない」
とそれに返して、リンドは境界の大橋へ向き直る。
「偽英雄だ」
そう言ってミネアとその護衛たちを残して、彼はニーナとフレアと共に橋へと歩んで行く。
橋の前に集う赤い鎧を纏った魔法王国兵たちの視線は冷たかったが、後方からミネアが「道を空けろ」と指示すると黙って左右に避けてくれた。
魔法王国兵たちの間を進み、やがてその先頭に出る。
すると石橋の向こう側で、黒い鎧の純人王国兵を取り巻かせた白い鎧の男―――ダート・アルバートがにやりと笑んだ。
「あぁリンドよ。お前は遂に、魔法人共に魂を売ってしまったのか」
「売ってない」
と答えながら左手で剣を抜いて、リンドは橋を渡っていく。
「魔法人にも、アルバートにも。俺の魂は、今も昔も俺のものだ」
「―――ちょっとリンド、」
と不意に耳元で、フレアが囁く。
「迂闊に進まない方が……」
しかしその助言を無視して、リンドは進み続ける。
そんな彼を見て、ダートはくくとまた笑った。
「まるで親に反抗したがる子供だな。お前はもう十八だろう。そろそろ大人になっても良いんじゃないか?」
「それならあんたも、好い加減こそこそとギルト王を失墜させようと工作するのはやめた方が良いんじゃないか?」
そう返すと、ダートの顔が少し引き攣ったように見えた。
だがその表情をすぐに消して、彼は歩み寄っていくリンドに向かって告げる。
「―――もう一度だけ、機会を遣る。私と組め、リンド。そうすれば今ここにいる兵も全て、お前の味方になる。ギルトたちとやり合うのなら、役に立つはずだ」
その彼の言葉を受けて、リンドは石橋の半ばで足を止めた。
そして、ダートを真っ直ぐに見据えた。
「俺は、あんたのことが嫌いだ。……ただ、」
「ただ?」
と問うてくる彼に、リンドは静かに告げる。
「あんたを魔法王国との取引に使ったことを、悪いとは思っている」
「取引だと……?」
「あんたの使い道は、もう決まってるんだ」
淡々と述べるリンドを前にして、ダートはその蟀谷に青筋を立てた。
そして叫ぶ。
「構えろッ!」
その声に、後方に控えていた兵たちが反応する。
「矢を番えろ! 早く!」
兵団の長と思しき者の掛け声が聞こえ、それに従って兵たちは素早く弓の弦に矢を充てがい引き絞っていく。
その様子を見て、リンドはふうと息を吐き出した。
「もうっ! 結局こうなるじゃない!」
「フレア」
とリンドは、魔法を綴ろうとする彼女に呼び掛ける。
それから、もう一人にも。
「ニーナも。俺を信じてくれるなら、何もしないでくれ」
「はあ!? あんた何言って―――」
「手は出さずに、ただ後ろへ逃げてくれ」
そう伝えて、リンド自身はその場に立ったまま前を見据えた。
的は、一人いれば十分だ。
……だのに、その耳に遠のく足音は些とも聞こえてこなかった。
代わりに、衣の裾を両脇から掴まれる。
「リンドさんが言うんですから、大丈夫ですね」
左側から、不敵な笑みを浮かべたニーナがこちらを覗き込む。
「フレアさんが言ってたら、絶対逃げてるけど」
「それどういう意味よ」
と右側から、フレアが言う。
それから咳払いして、リンドに声を向けてくる。
「……私は、あんたの隣に立つって言っちゃったからね。付き合ってあげる」
二人の仲間たちの言葉に、リンドは思わずふっと息を吐く。
こんな時なのに、二人からはその顔がやや綻んでいるように見えたかもしれない。
「ここにいるのがお前たちで、本当に―――」
「別れの言葉は、そこまでだ」
とダートが遮って、言った。
「放てッ!」
その声で無数の矢が放たれ、リンドたちの身を貫く。―――などと言うことは無かった。
ただの一本も、矢は放たれなかったのだ。
「何だ、何をしている!」
奇妙な沈黙を訝しんで、ダートが声を上げながら振り返る。
そして、その目を見開いた。
兵たちがざっと一斉に、番えた矢の先をダートに向けたのだ。
「何、どういうこと……?」
「貴様ら、どういうつもりだッ!?」
フレアとダートの声が、ほぼ同時に上がる。
それに対して、兵の一人が前へ進み出た。
「はッ! それは私がリンド王子に頼まれ、皆に呼び掛けたからであります! ……なんちゃって」
軽薄そうな茶髪の若い男……オリバーは、そう言った。
「貴様、ふざけているのかッ―――」
「ふざけてないよ」
とオリバーは、打って変わって真顔でダートに声を向ける。
「だから、天下のアルバートサマに矢を向けてる。―――あんたはさァ、俺らみたいな路傍の石塊に蹴っ躓くだなんて思ってもみなかったろ」
「ダート・アルバート。……ここまでだ」
リンドもまた、彼に告げる。
「降参は、してくれないだろうな」
「リンドォ……、貴様らァッ……!」
とダートは怒り、退魔の力を発動させる。
その力を受けて気絶する兵士もいたが、多くはその手をぶれさせなかった。
ダートに使われてきた兵たちだ。退魔の力には、ある程度慣れているのだろう。
「全員、八つ裂きにッ―――!」
「やれェッ!」
ダートが動くよりも早く、オリバーの掛け声で矢が一斉に放たれる。
剣を振り回してダートはそれらを弾くが、全てを捌くことはできない。
脚に腕に腹に背に幾本もの矢を受けて、彼はその場にがくりと膝を突いた。
―――だがそれでも右手に握った剣を離すことは無く、雄叫びを上げながらまた立ち上がる。
そして、オリバーに襲い掛かった。
「おおおォォッ……!」
「マジかよ。止めが必要かな」
「無理に仕掛けるな!」
とリンドがそちらへ駆けながら声を飛ばすが、オリバーは剣を構えてダートに立ち向かう。
そしてダートの振り下ろした剣を逸らすと、そのまま彼の脇腹を裂く。
しかしそれでもダートは倒れなかった。
彼はその左手で自身に刺さっていた矢の一本を引き抜くと、振り返り際にオリバーの右の太腿にそれを突き刺す。
「いッ……!」
オリバーが体勢を崩す。その彼を蹴倒して、ダートは剣を振り上げた。
リンドの足では間に合わない。ニーナに指示する―――には遅い。
周囲の兵たちは、ダートの気迫に呑まれて棒立ち状態だ。
そうなると後は、効果があるか分からないが退魔の力を剣に乗せて―――。
リンドが左手に握る剣を構えて振り抜こうとすると、それよりも早く兵たちを割って出てきた人物がその手の槍でダートの背を突いた。
「ぐゥッ」
と呻き声を上げて、ダートが血を吐く。その手から剣が離れ、石敷の地面に落ちて音を立てた。
彼は苦しげに後方を振り向き、そしてその目を見開いた。
「アリ、ア……!」
「さようなら、ダートおじ様」
彼女はその手で力強く槍を突き立てているとは思えない微笑みを浮かべて、そう挨拶する。
そのアリアに、ダートは手を伸ばす。
「お前を……手に入れて、私は―――!」
しかし突き立てられた槍は二人の間に距離を作っており、彼の手は彼女に届かなかった。
「……あなたでは、私の相手に不十分だわ」
アリアは笑みを消して、冷たく言い放つ。
それでダートの顔は絶望に歪み、―――そのまま凍り付いたように二度と動かなくなった。
■登場人物(キャラクターデザイン:たたた たた様)
【リンド・アルバート】
純人王国の王子。十八歳。王位継承順位第二位。無表情だが意外と情に厚い。携えている片刃の剣は、退魔の力を乗せることで斬り殺さずに相手を気絶させることができる。
【ミネア・ソートリッジ】
長く魔法王の座を守ってきた王家の生き残りの少女。十五歳。最高位の家の人間として育てられてきたためか、我が儘で融通が利かない。しかし誇りに思っている自分の家を守るために、リンドとの取引に応じた。詠唱のみで魔法を使える無綴の能力を有する。
【フレア・クリストン】
純人王国唯一の魔法人の家の当主の次女。十七歳。感受性が豊かで人のために喜怒哀楽を出せるが、感情のままに行動してしまうことがあるのが玉に瑕。魔法や退魔の力に関わるものを視たり聴いたりできる能力を持ち、それを応用した音魔法も使える。
【ニーナ】
内に幻獣の魂を宿した「魔人」の少女。推定十三歳。そのあどけない容姿とは裏腹に冷静で、知識は少ないが知恵は回る。幻獣ユニコーンの力をさらに引き出すことで常人を遥かに凌駕する腕力や脚力を発揮できるようになったが、暴走と肉体の崩壊の恐れがあり長くは維持できない。また、髪と瞳の色素を失い、額には角が生えた。
【ダート・アルバート】
純人王国国王ギルトの弟。三十三歳。リンドの前に魔法王を討った男。しかし王位継承権を獲得できず、国王になった兄ギルトの命により境界の町を守らされることとなった。兵を率いる指揮者としての才を持っていたが、退魔の力に驕ってオリバーに足を掬われた。
【オリバー】
元純人教団の幹部。二十代後半と見られる。軽薄な言動が目立つが、意外と博識で頭も切れる。鍛冶町の娼婦ローラと結婚の約束をしている。
【アリア・クリストン】
才色兼備な「魔女」。二十一歳。「世界を手に入れること」を目論んでいる。綴りや詠唱をせずに魔法を使える無綴無唱の力を得ている他、退魔の力を自身に付与している。




