78.聖女に少女が教えてくれた事
奴隷役であるニーナに贅沢をさせるわけにもいかずに、二人で泊まった宿の最安最奥の部屋。そこから、フレアは宿の主人がいる入口付近まで歩く。
ニーナは、変わった。それは精神面での成長であったり戦闘面での強化であったりもするのだが、フレアが今気にしているのは外見的な変貌についてだ。
髪は白く瞳は青くなり、額には角まで生えた。特に角についてはあまり人に見られると騒ぎになりそうなので、フレアは手製の簡易な帽子を彼女に被らせていた。
リンドは彼女の姿を見て、どう思うだろうか。
彼が外見の美醜などで人を判断しないと、フレアは思っている。だがそれでも、つい考えてしまう。
魔法王都はもう近い。今日中には間違い無く到着する。リンドもまた前王軍と共に魔法王都に向かっていると耳にしているので、そこへ着けばきっとすぐに合流できる。
その時彼は、ニーナをどんな目で見るのだろう。
彼女を暴走させてしまい変貌させてしまったその現場にいたフレアとしては、リンドが今のニーナを何も言わずに受け入れてくれることを願って止まない。
ニーナが以前よりもさらに強くなったことは喜ばしいことかもしれないが、あの時フレアが暴走させなければ姿が変わってしまうことは無かったのではないか。
もしそうだとして、彼女がそのことで傷つくようなことがあれば……フレアとしては居た堪れない。
フレアははあと溜息を吐きながら、入口付近に控えていた宿の主人を見つけて声を掛ける。
「すみません、お食事を頂けますか?」
「……ああ」
相手はフレアの姿を目にしてぴんと来たような様子を見せ、傍の部屋へ引っ込むと食事を持ってきた。
パンが一つと豆のスープが一杯。そしてマグに入った水が一杯。それで全部だ。
奴隷の分の食事は無いらしい。一杯の水のみが、彼女の分というわけだ。
しかしもう、フレアはそれに対して何も言わない。
ここに来るまでの十二日間で、同じようなことは何度もあった。
始めの何度かは文句を付けていたフレアだったがそれで対応が変わることは無く、諦めた。
宿での食事は一人分をニーナと分け合い、不足分は他で買って補う。宿は不本意ながら安い所に泊まっているので、そうしてもそれほど金に困ることは無かった。
そんなわけでフレアは素直に「ありがとうございます」と礼を言うと、また件の懸念に頭を悩ませながら食事を運ぼうと手を伸ばす。―――とそこで、「あっ」と声を漏らした。
揺れるスープの水面に、ぼんやりと自分の顔が映っていた。ぼやけたその像から分かることは少ないが、故に余計に気になった。
「……私、変じゃないかな」
思わず呟く。
ニーナのことばかりに気を取られていて、自分自身のことを気にしていなかった。
この町に来てから、まだ身を清めていない。髪も整えていない。
もしかすると、酷い顔をしているのではないか。
「変だとすれば、そんなことを訊いてくる所だと思うが」
不意に向けられた声にはっとして顔を上げると、宿の主人が訝しげな視線をこちらへ向けていた。
それでフレアは羞恥で頬を朱に染めながら、それでも彼に頼んだ。
「あの……身体を、清めたいのですが」
そう言って宿の主人から水が入った桶と麻布とを受け取ると、彼女はニーナが待つ部屋へ駆け込んだ。
「ニーナ、身体を清めるわよ!」
「え……?」
突然フレアが告げた言葉に、ニーナはやや困惑した様子でこちらを見る。
「食事は? 貰ってこなかったんですか?」
「食事も今持ってくるから、先に身体拭いて!」
そう伝えてフレアはばたばたとまた部屋を飛び出し食事を持って戻ったが、しかしニーナはぽかんとして寝台の上に掛けたままだった。
それでフレアは、言葉を付け足す。
「今日リンドと合流することになるでしょうし……その、少しは身綺麗にね」
「あぁ、そういうこと……」
とニーナは漸く得心行った様子で声を漏らす。
だが、行動は起こさない。
「そんなのどうでも良いですよ。それより早く行きましょうよ」
「どうでも良くは無いでしょう。あんただって、色々変わってるんだし……。だから、ちょっとは綺麗に―――」
「リンドさんはそんなこと気にしません」
「いや待って! あんたの考えは分かったから! ―――でも」
とフレアはあたふたしながら、彼女に詰め寄った。
「時間は掛けないから! だから、ちょっと付き合って……」
「……」
ニーナはやれやれとばかりに呆れ交じりの息を吐いて、「早くして下さいよ?」と言った。
対してフレアは「ごめん……」と両手の指を突き合わせながら詫びると、彼女の隣に腰掛けてぱっと素早く腰紐を解いて上衣を脱ぎ、それを胸に抱いた。
そのいつになく大胆な行動に、ニーナが苦笑する。
「恋する乙女は大胆になれるもんなんですね……」
「いやそんなんじゃ……」
ごにょごにょ言いながら、フレアは彼女から顔を背ける。
背中を拭いて貰うので、その姿勢で問題無い。
「……よく分かんない、けど」
とフレアは、背を向けたまま呟くように言う。
その背をニーナが濡らした布で、存外優しく拭いてくれる。もしかすると、力の加減がよく分からないのかもしれない。
「ただ……あいつに嫌な顔はされたくないって、思ってる」
「ふうん」
「あんたのことも含んでるわよ」
「うん?」
意味が分からないと言うような響きの声を出したニーナに、フレアはちらと視線を向ける。
「あんたがリンドに嫌な顔されるのを見るのも、嫌なの。―――だから、顔くらい拭いておきなさいよ?」
「あぁ……」
とニーナは納得したように声を漏らした。
それから、すっとその両手をフレアの腹の方へ回した。
「あっ……ちょっと、そこ擽ったい―――ふふっ。こらっ、前はいいからっ!」
「擽ってるんですよー。ここですね、ここが良いんですねー?」
衣を胸に抱えるフレアは殆ど抵抗できず、暫くニーナに涙が出るほど笑わされてしまった。
その手から漸く解放されてぐったりしていると、ニーナがふふんと胸を張った。
「これで良いんですよ」
「何が」
訳が分からずちろっと睨むと、彼女は両手の人差し指で頬をくいと上げる。
「笑ってれば、リンドさんは嫌な顔しません」
「何でそんなこと分かるのよ?」
「リンドさんも、私たちが嫌な顔するの嫌だからです」
そう言われて、腑に落ちた。
思わずフレアは目を見開き、そして今度は自らふっと口元を綻ばせる。
「……確かにそうね」
ニーナという少女はどうして、何も知らないのに何でも分かるのだろう。
フレアはいつも、彼女に教えられてばかりだ。
「あんた、凄いわね。本当によく気が付く」
口に出すと、ニーナは得意げに笑んで見せる。
「そうです、私スゴイんです! よく気付くんです! ―――あァ、そう言えば」
とそこで彼女は突然腰に差したナイフを抜いて、部屋の戸に向かって投げた。
ナイフは扉上部の端―――蝶番を打って壊し、それと同時に扉がばたんと内に向かって倒れた。
「そこで覗いてたおじさんにも、気付いてましたよ!」
「それはもっと早く言ってっ!」
かあと顔を真っ赤にして、フレアは文句を付ける。
それから衣を胸に抱いたまま、扉と共に倒れた宿の主人を見下ろした。
「ご主人。ご提案なんですけれど」
「……な、何かな」
だらだらと冷や汗かく男に、フレアはにこりと笑んで見せる。
無論、目は笑っていない。
「宿代、無料でも良いですよね……?」
語尾の「ね」をやや強く発音して問うフレアに対して、男はただこくこくと頷くばかりだった。
*
身体は清めた。
顔も拭き、髪も整えた。
食事も、十分な量をとれた。どこぞの厭らしい主人の「ご厚意」のお陰だ。勿論、お代も不要だった。
そんな訳で、町を出たフレアの気力は充実していた。
奴隷役のニーナを縄付きの手枷で拘束して引っ張って行くのは気分が良くないが、それも町を出てしまえばそれほど気にすることは無いだろう。
次の目的地は、魔法王都。そこではニーナの正体を隠す必要など無いのだから。
他方で、決戦を前にした緊張感は増していく。
昇っていく日の下で、フレアは歩みを進めながら胸に手を当てすうと深呼吸する。
すると、隣を歩むニーナがこちらを覗き込んできた。
「何です? 緊張してるんですか?」
「まあね……」
と応じると、ニーナはにやと笑む。
「えー、どれだけリンドさん意識してるんですか」
「いや違―――、それもあるけど……」
と返しながら、フレアは行く先を見つめる。
「マーシャルの……魔法王の本拠地なのよ、これから行く所は。リンドは魔法王を殺すために行くんじゃないって言ってたけど、絶対に戦いは避けられないわ。魔法王だけじゃなくて、多くの兵が襲い掛かってくる。境界の街で相手した数を遥かに凌駕する数の兵よ。あの時だって、私たちは苦戦したのに―――」
「フレアさん悩むの好きですねー……」
彼女の言葉を遮って、ニーナがうんざりした様子でそう吐く。
それにちろりと睨むような視線を送って、フレアは言葉を返す。
「好きなわけ無いでしょ……。私は、あんたみたいに自分を信じられないのよ」
「じゃあ、私を信じれば良いじゃないですか。それかリンドさんを」
「はあ?」
首を傾げて見せると、ニーナは前を向きフレアの数歩先を歩く。
「フレアさんが失敗したら、私かリンドさんが助けてあげます。だから安心して失敗して下さい」
「……何それ」
思わず苦笑すると、彼女もこちらを振り向いてにかっと笑んだ。
確かに、彼女と彼がいてくれると思えば心強い。
だがフレアは、守られに行くのでは無い。
彼女もまた守るために、ここへ来たのだ。
「それならあんたが失敗したら、私が助けてあげるわね」
「その心配は要りません。私は失敗しませんからね!」
そう言って、ニーナは足早にフレアの先をてこてこ歩んでいく。
フレアもそれに追いつこうと足を速めた。
その矢先だった。
「―――あっ」
とニーナが、声を漏らした。
「何、敵!?」
問うが、彼女は答えない。
ただその目が大きく見開かれ、その口元が綻んだ。
さらに彼女の右目が青紫色に変わり、純白の髪がすっと腰辺りまで伸びる。
そうしてニーナは、ようやく言葉を口にした。
「―――私、先に行ってますね」
「えっ……?」
とフレアが声を出した瞬間に、彼女はもう彼方へ跳び出していた。
「ちょっ―――、ちょっと待って!」
声を張っても、その時既にニーナは小さな白光となって遠景に溶けていた。
「……嘘でしょ?」
唖然として、しかしすぐに我に返って、フレアは走る。
無論それですぐ彼女に追いつけるはずも無いが、あの反応からすると舞台の幕は既に上がっているのだろう。それにあの表情から察するに、彼女はその舞台の中に英雄の姿を見つけたに違いない。
それならば、フレアも出遅れるわけにはいかない。
リンドと共に……その隣で一緒に道を切り開くために、フレアはその足を急がせた。
―――しかしながら結局、フレアは最初の舞台に間に合わなかったらしい。
彼女はぜえぜえ息を切らしながら、眼前で伏したままこちらを見上げる男を見返す。
マーシャル・イージス。魔法王だ。
間に合わなかった。
フレアは思わずはあと疲れた息を吐き出すが、すぐに気を取り直す。
「……あんた、リンドに負けたの?」
警戒して右手の人差し指で空を掻きながら近づくと、マーシャルはぎりと歯噛みして倒れたまま同じく右手を動かそうとする。
それでフレアは即座に「氷結」と詠唱して、その手を動かなくした。
「質問に答えて。あんたリンドに―――」
「魔物みてェな小娘が割って入って来なきゃ、俺が……!」
と彼は呻く。どうやらニーナは間に合ったらしい。
「ありがとう。それが分かれば十分だわ」
言って、さっさとフレアは先へ進む。
しかしその耳に、マーシャルの苦しげな声が届いた。
「畜生……。一人じゃ、どうにもならねェのかよッ……!」
それを聞いて、フレアはぴたと足を止めた。そして彼の方を振り返る。
その様が、何となく過去の自分に似ている気がしたからだ。
「―――『お前は馬鹿か』って、言われたわ」
「はァ?」
じろと睨んでくるマーシャルに、フレアも鋭い視線を返す。
「自分一人でどうにかなるなんて……傲慢なのよ。あんたにも、仲間はいたんじゃないの」
「そんな奴は、いない」
「そう……」
言って、フレアは再び前を向く。
そしてもう一言だけ告げて、その場を後にした。
「―――それは気付いてないだけだわ」
それに対する応答は聞こえなかったし、聞く気も無かった。
フレアはただ、先を急いだ。
旧街道沿いには、橙に近い赤を基調とした装備の魔法王国の兵士があちこちに倒れていた。
矢を受け火傷を負っている様子を見るに、リンドとニーナによるものでは無さそうだ。
リンドと行動を共にしていると聞いた「前王軍」によるものだろうか。しかしリンドが組んだにしては、やり方が荒々しい。「行動を共にしている」と言うのは、「手を組んだ」という意味では無さそうだった。
真実はすぐ明らかになるだろう。リンドに会えば、はっきりする。
フレアは旧街道を走り抜け、一路魔法王都へ向かった。
そうして見えてきた街の大きな門は、既に開かれていた。―――と言うか正確には、破壊されていた。
「これは、ニーナよね……」
その凄まじい破壊力に驚きと呆れを感じながら、しかし緊張は緩めず再び魔法を綴る。
「そこの女! 止まって何者か明かせ!」
不意に、門の傍の石壁から声が降ってきた。
番兵が壁の小さな穴からこちらを窺っているらしい。
「問わなくても分かるでしょう」
声を向けると、相手からの返答が無い。
ざわざわと何か言い合っている声を彼女の耳が拾う。正確で無いかもしれないが、「お前らの兵かそれとも街の人間か」などと確認しているようだった。
何やら、混乱が生じている。
そう解釈した瞬間に、フレアは走り出していた。
「待て! 勝手に入ることは―――」
そんな手緩い制止は、勿論無視する。
そして彼女は、詠唱する。
「氷結っ!」
その声と同時に、門の上部とその両傍の壁を大きな氷塊が覆った。
十分に腹も満たしてきた。今のフレアであれば、この程度の規模の魔法を使うのは造作無い。
どよどよと兵たちが取り乱している間に、フレアは門を抜ける。
そして次の魔法を綴りながら、上り坂の大通りへ入った。
「落石!」
人影の無い大通りの両脇に岩をどどと落として路地からの攻撃を防ぐ壁を作り、その道を真っ直ぐに突っ切っていく。
通りに兵の姿が見られないことから考えると、多くはリンドたちに押されて後退しているのかもしれない。
考えながら傾斜と曲がりのきつい通りを進んでいくと、再び門が見えた。
こちらはまだ開かれていない。或いは、もう閉じられたのかもしれない。
「道を空けなさい!」
フレアは叫びながら、右手でまた綴る。
それと同時に、左耳に栓を入れた。
「どこの魔法人だ! 前王軍は既に休戦に応じているぞ!」
門の側から声が上がった。
奥からはがちゃがちゃと武器を扱う音が忙しく聞こえる。ここには兵が揃っているらしい。
フレアはふうと息を吐いて、集中力を高める。
ここが「力」の使い所だ。
どこの魔法人か。
―――どこに立つかなど、疾うの昔に決まっている。
「私は……、私は! リンド・アルバートの隣に立つ者よ!」
「クリストンか! 魔法人一人で―――」
番兵が叫んでいるが、フレアにはもう届かない。
右の耳にも、栓を詰めた。―――つまり、準備が整ったのだ。
「もう一度言うわ。道を空けなさい!」
そう叫ぶと、それに対してまたざわと何事か声が返されたようだった。
具体的に何と言ったかは分からない。だが、素直に応じるような肯定的な響きで無いことは確かだった。
「……空ける気は、無いわね?」
頼んで、それで開かれるはずも無い。故にフレアは、自らの力で切り開くのだ。
フレアは微塵も動かない門を見つめ、直後に叫んだ。
「怒りの音!」
その次の瞬間。
ずうんと唸るような大きな低音が、辺りに鳴り響いた。
力を込めた一撃だ。フレアの耳にもじんじんと響いてくる。
―――やがて音が収束すると、フレアは耳栓を外した。
周囲は異様なまでに、静まり返っていた。恐らく多くの兵士が気を失ったのだろう。成功だ。
しかしそこへ突然、大きな声が飛んでくる。
「ちょっとフレアさん! それ行き成り使うのやめて下さいよっ!」
声に驚きその方を見ると、そこにはニーナの姿があった。




