77.聖女が気付いた事
遡ること、十三日前。
フレアは魔法王国の東の外れにある研究者の町にいた。
傾き始めた日の光が、開け放した部屋の鎧戸の外から差し込んでいる。その場所で彼女は長い赤茶の髪をリンドの襟巻の一部で束ねて、机上の紙と向き合っていた。
そこは魔法研究者クロノ・パーニャの家の一室。部屋には至る所に資料だか塵だか分からない紙の束が散在している。生活するには最悪だが、魔法を「創る」には最適な環境と言えた。
「もう少しだけ、低く……」
呟きながら羽根ペンにインクをつけると、フレアは紙に途中まで綴られた長い文字列に続けてさらに記載を加える。
彼女の魔法の最終調整だ。
こうした調整には、非常に手間がかかった。
魔法を使うために魔法人が右手の印を翳す書には、その魔法がどんなものであるかが長々と綴られている……とされている。故に一枚の魔法書を仕上げるために相当の時間が掛かるわけだが、当然後から一部を修正できるはずも無い。修正が不要な部分も書き写しながら、一から作らねばならないのだ。無論途中で書き間違えれば、最初からやり直し。
アルバートによって十七年間を家に閉じ込められて過ごしてきたフレアで無ければ、この作業の繰り返しに耐えられなかっただろう。そういう意味では、彼女の十七年間も無駄では無かった。
しかし書く手間はあったものの、それでもある程度書くべきことが見えていただけフレアは恵まれていたと言えた。
如何せん、既存の魔法書の解読は十分にできていないのだ。蛇の如くずるずると線が波を描いているかと思えば、円を描いて切れ、点を打ってまたのたくっている。どこまでが何を示す一つの文字なのかは、定かで無い。
だがクロノは、先人たちの研究に基づき一部を読み解いていた。既存の全ての魔法書に共通している必要な記載や幾つかの書で同じ魔法を構成する要素についての記載など、彼が「強化魔法」を生み出すまでに纏めた詳細な記録はフレアが考える力を表現するためにも大いに役立った。
「……できた」
その達成感に、フレアは思わずほうと満足げな息を吐き出す。
すると後背から、溜息が聞こえた。
「試すなら事前に言ってくれ。そして力は抑えろ」
「分かっています」
応えたフレアは、ちろっとその視線を後方に―――部屋の奥の扉から出てきたクロノに向ける。
「……過ぎたことをそんなにねちねち言うこと無いでしょうに」
「こっちは危うく耳が聞こえなくなるところだったんだ。言いたくもなる。またやられたら堪ったもんじゃないからな」
フレアの呟きに、彼はじろりとこちらを睨んでそう言った。
音の魔法。
それが、フレアが今日まで作り上げてきた魔法だ。
フレアには視えないものが視え、聴こえないものが聴こえる。
退魔の力が仄暗い球体状の空間であることも、それがびりびりと雑音を立てることも、フレア以外の人間にとっては事実で無いらしい。
彼女はそのことを、三十日ほど前のニーナの暴走の際に知った。暴れるニーナの内から聞こえたユニコーンの鳴き声と思われる音も、他者には聞こえていなかったようなのだ。あの魔女アリアでさえも、聞いていないとそう言った。
そこでフレアは、その自分にしかない力を魔法にできないかと考えた。
彼女は、感情の音をよく知っていた。特に負の感情については、退魔の力から響く雑音だけで無く荒々しく怒鳴る声や弱々しく嘆く声も耳にこびり付いている。
そうした音は、武器を使わずとも彼女の敵を遠ざけられるのではないか。そしてまた、彼らに彼女の……彼女たちの苦しみを直接的に伝えられるのではないか。―――そう思ったのだ。
そんな思いから始めた「音魔法」の創造だったので、その記念すべき第一回目の試し打ちには少々力みがあった。その結果として、彼女を含む計四人が失神する事態となってしまった。
それで威力は実証されたわけだが。
「あの時のことは何度も謝っているじゃないですか……」
口を尖らせながらそう言って、フレアは話題を転換する。
「それより、奥で何をしていたんですか?」
「実験はしてない」
とクロノは、鬱陶しそうにそう返してきた。
「やろうとしても対象が無い」
「なら、良いんですけど……」
「お前の魔法はもう食らいたくないしな」
再び恨みがましく言われて「だから……」と返そうとすると、彼は退散するように家を出て行った。
その外からは、どおんと派手な音が聞こえてくる。ニーナとバスクがまた戦っているのだろう。
暴走からまだ間も無い頃は不安定さを感じていたが、ここ最近のニーナは安定して力を発揮しているように感じる。「ここまでなら力を出しても大丈夫」という、その加減が分かってきたのだろう。以前の暴走の折に生成した笛を「自然素材」で再現したものも用意していたが、使う機会は無かった。
お陰でフレアも、自分のことに集中できる。―――と思っていると、何やらざわざわと複数人の声が耳に届いてきた。
来客のようだ。クロノが応対しているのだろうか。
「……何だろ」
呟きつつも、しかしフレアは仕上げた魔法書の確認を続ける。
ニーナやバスクがいるのだ。並みの来客が喧嘩を吹っ掛けられる相手では無い。
フレアは確認を終えると、その書の上に右手を翳す。
掌に意識を集中させると、そこにある龍の印が赤く輝き始めた。
それで彼女の魔法は、新しいものに置き換わった。
最終調整した力を自身の内に収めたフレアは、早速それを綴ってみる。
それから念のために木の欠片を布切れで覆ったもので耳に栓をして、魔法書の冒頭に記した文言を小さく唱えた。
「怒りの音」
その声に応じて、低く重い音が部屋の中に響く。
―――と、不意に家の入口の戸が開かれた。
そちらを見やれば、ニーナが蹲って耳を塞いでいる。
それでフレアは、音を止めて耳栓を外した。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないですよっ!」
とニーナが立ち上がり、食って掛かってくる。
「あなたの魔法の所為に決まってるじゃないですか!」
「いや、そういう意味じゃなくて……。それに、入ってくる前に分かるでしょう?」
とフレアはそれに言い返す。
「あんた耳良いんだから……、来る途中で気付かなかったの?」
「他の事考えながら走って来たから気付かなかったんですよ」
「他の事?」
フレアが首を傾げて見せると、ニーナはぴんと人差し指を立てて言った。
「フレアさん、明日ここを出ましょう」
「はあ?」
と怪訝な声を出してみるが、彼女はやや興奮した様子で続ける。
「早く出ないと、間に合わなくなりますよ!」
「待って。ニーナ、順を追って話して」
「順?」
くりっと小首を傾げる彼女を前に、フレアは思わずはあと溜息を吐く。
普段が少々子供らしく無いので忘れがちだが、彼女はまだ年端も行かぬ少女なのだ。
そのことを踏まえて、フレアは改めて丁寧に問いかけた。
「あんたがそんな風に興奮して言うってことは、リンドに関係する話よね? そういう話をさっき来た人たちから聞いたの?」
「はあ、大体合ってます」
「端折らないで。誰から、どういう話を聞いたの?」
身体を揺らしながらぞんざいな答えを寄越すニーナを叱りつつ、フレアは再度問う。
それで彼女はようやく経緯を説明した。
「魔法王都の兵士が来たんですよ。クロノさんに協力しろって。でもクロノさんが断って、そしたら兵士がもうすぐ大きな戦いが起こるからって言ってて……。そうなったら魔法王都は絶対混乱するし、リンドさんもきっとそれを狙うと思うんです」
「……なるほどね」
呟いて、フレアは腕を組み思案する。
準備は既に万端整っている……とまではいかないが、魔法の調整は済んでいる。明日の出発でも問題あるまい。
それに「舞台」に遅れてしまっては意味が無い。魔法王国の東端に位置するこの町からでは、王国中央部にある魔法王都に至るまでに十数日を要する。情勢を見るにしても、もう少し近い位置まで移動しておくべきだろう。
フレアは、組んでいた腕を解く。
そしてその口を開いた。
「―――分かった。明日出ましょう。しっかり準備して」
「はい!」
そうして出発は決まり、翌朝二人はクロノとバスクに見送られながら研究者の町を発った。
バスクはニーナに負けっぱなしだったためかその旅立ちに不満そうだったが、クロノは逆に晴れやかな顔つきをしているように見えた。「もう教えることは無い」などと言っていたが、暗に「もう来るな」と言われた気がする。
少々癪なので「またお礼に寄らせて頂きます」と笑顔で言って彼の顔を引き攣らせると、それを背にしてフレアはニーナと共に歩き出した。
*
フレアは、姉アリアのことが嫌いだった。
否、今にして思えば、姉のようにできない自分のことが嫌いだったのだと思う。
「神童」と呼ばれ、アルバートからも恐れられるような聡い少女だったアリア。彼女が十年前に突如姿を消してから、クリストンの立場はより悪くなったと言っていいだろう。
他に子供がいないために自動的に繰り上がって次期当主の座に着いたフレアには、その状況を変えることができなかった。
姉のようになろうと懸命に書物を読み漁ったが、知識が詰まれるばかりでそれを使えない。いつも感情が先行して、冷静な判断ができない。
そうして結局、アルバートに翻弄される日々を送った。
叔父が殺された。なぜ殺されたのか、理由も知らされていない。
見ず知らずの男を充てがわれた。咄嗟に魔法で退けたが、火傷を負わせた男の顔は今でも脳裏に焼き付いている。
フレアはどうにもならない絶望感の中で、遂には言い寄ってきたマルク・アルバートに縋って身を委ねようとさえした。彼の言動で我に返っていなければ、彼女の人生はあの男の下で終わっていたことだろう。
運良くマルクの手から逃れると同時に、フレアは彼からリンド・アルバートの出立を聞いた。そして、リンドを追って家を出た。
国王ギルトにクリストンに対する待遇改善を直訴する足掛かりを得るための旅立ちだったが、上手く交渉してそれを得る自信など無かった。
本当は、ただ逃げ出したかっただけなのかもしれない。アルバートに虐げられ続ける、あのクリストンの家での生活から。
悪いのは、一人で突然勝手に出て行ったアリアだ。
悪いのは、フレアの要請に応えてくれないリンドだ。
そうして、外に上手くいかない理由を求めた。
だが、それはきっと違う。
悪いのは、無力なフレア自身なのだ。
ニーナと言う少女と出会った。
彼女は幼い頃に奴隷として売られ、その売られた先で力を求めて「魔人」となった。
不条理を押し付けてくる世界に抗うために、命を賭して力を求めた。
彼女は、不幸に嘆くだけの少女では無かった。常に前を向いて、力強く逆境に立ち向かっていたのだ。
それはフレアができなかった……元い、しなかったことだ。
フレアは嘆き喚いてその不幸を声高に訴え、それで誰かに救って貰おうとしていた。
クリストンを救うためにまず先頭に立って戦わねばならぬのは、他ならぬフレア自身だと言うのに。
しかし、それでも。
それでもリンドは、彼女に手を差し伸べてくれた。
「クリストンの件は、必ず俺が何とかする」
と、そう言って。
殆ど表情は変えないし、声にもあまり感情は表れない。
それなのに、言葉や行動だけはいつもフレアを気遣っていて。
そういう態度ばかり見せられるものだから、いつの間にか傍にいたいと思うようになっていた。
離れても、また会いに行きたいと思うようになっていた。
そうしてようやく、フレアは自分に目を向けた。彼の隣に立つために。そして、彼女の家族を救うために。
そのために、フレアは自分が強くなる方法を探した。
姉の助けは借りたが、それでも姉でなく自分にあるものを探し出した。
見つけたものが正しいのか、本物であるのか。
それはこの先で明らかになることだろう。
リンドと共に歩む、この先で―――。
*
「起きて下さい。朝ですよー」
遠くで、フレアを呼ぶ声がする。
「うぅん……」
「……早く起きないと、また悪戯しちゃいますよー?」
今度は近くで、―――耳元で声がした。
「次はスカート外に―――」
「絶対やめてっ!」
叫び、フレアはがばと身体を起こした。
研究者の町を出てから、十一日間の旅を経ていた。
現在地は、魔法王国中央部にある小さな町の石造りの宿。四角い木の型に干し草を突っ込んだだけの寝台は、ちくちくと時々草が身体に刺さって寝心地が良くなかった。その上こんな起こし方をされては、心も身体も休まらない。
フレアは抗議の意を込めて、にやにや笑みを浮かべるニーナを睨む。すると彼女は「残念」と呟きながら、こちらに両手を差し出してきた。
「降参」だろうか……などと思ったが、すぐにフレアは違うと気付く。
「早く行きましょう。枷をつけて下さい」
ニーナもそう言った。反省とは無関係の話だ。
しかしながら自ら「枷をつけてくれ」などと言われてしまうと、フレアとしては何も言えなくなってしまう。
研究者の町を目指した時と同じ方法だ。魔法人で無いニーナと魔法王国を旅するために、ニーナが奴隷役を演じる。フレアがそれを扱う商人役だ。
研究者の町へ行く際にはアリアが商人役だったが、彼女がいない今その役はフレアが担わなければならなかった。
正直なところ、この役はフレアにとってしんどかった。ニーナと共に奴隷役をしていた方が、ずっと楽だとさえ思った。
演技とは言え、ニーナをぞんざいに扱わねばならない。彼女がこれまでどのような扱いを受けてきたか……その過去を知った上でだ。
彼女の辛い経験をなぞり傷口に塩を塗るようなその行為は、フレアにとって非常に苦しいことだった。それは研究者の町を出て十一日が経過した今も変わらない。心身があまり休まらない原因は、このことにもあるだろう。
当の奴隷役の彼女が全く意に介していないのが、唯一の幸いか。
それにしてもここまでけろっとしているのを見ると、フレアとしては何だか一人で色々悩んでいるのが馬鹿らしく思えてくる。
無論「気にしろ」とも言えないので、フレアの口から出るのは溜息だけなのだが。
さて、一先ずのところは先にやることがある。
フレアは手を差し出したニーナの横を通り抜けて、部屋の出入り口へ向かった。
そして戸を開くと、彼女に告げる。
「……食事をとってからよ。貰ってくるから、待ってて」
そして部屋を出ようとして、もう一つ思い出したことを彼女に伝えた。
「帽子。落ちてる」
「あー、ホントだ」
指摘されてようやく気付いた様子で、ニーナは寝台に残された帽子を取りに行く。
それを見てフレアは肩を竦めると、今度こそ部屋を出た。




