74.少女が辿り着く今
およそ五年ほど前、力を手にしたニーナの頭を過ったのは「復讐」だった。
両親に、復讐したい。その思いが起こると同時に、ニーナは駆け出していた。
研究者の町は、あっという間に遠退いていく。
馬車に詰められ運ばれたニーナは、自分の家がどこにあるのか分からなかった。
しかし家に閉じ込められて生きた八年間が、彼女の感覚を鋭敏にしていた。
馬車の下から長く聞こえていた川の音。それを探して、境界の大橋を風のように走り抜けた。
長く閉じ込められていた部屋から微かに耳と鼻に届いていた波の音と潮の香り。それを探して、海沿いを駆けた。
金も何も無い彼女は村や町で休めるとも思わなかったので、休息は魔物獣を警戒しながら野外で取った。食事は草を食み朝露を飲んで凌いだ。
そうしてニーナが知っている匂いを感じる町に辿り着いたのは、研究者の町を出て僅か七日後のことだった。
彼女は、港町に行き着いてしまったのだ。
町に着いてしまえば、あとはもう嫌という程感じてきた二人の人間の臭いをその中から探すだけだ。そして案の定、探し出すのに長い時間は要さなかった。
先に見つけたのは、父親の方だ。彼はニーナが知っている家では無く、知らない女の家にいた。
ニーナが家の戸を蹴破ると、父親と見知らぬ女は驚いた様子でこちらを見た。
父親は隣の部屋を覗き込むような恰好で、女の方は寝台の掛け布を捲っていた。その仕草は、何かを探しているようだった。―――と、これは後から振り返ってそう思ったのだが。
恐らく、隠れ鬼でもしていたのだろう。父親にとって待望の息子……即ちアニー・バリスタと。
だが当時のニーナに、そんなことを考える頭など無い。
見つけてすぐ、襲い掛かった。
「ニー……!?」
彼が名を呼ぶ前に、ニーナの跳び蹴りが彼の脇腹に入った。
ばきばきっとまるで小枝のように父親の胴の骨が折れる感触があった。そして直後に彼は木造の壁に叩きつけられて、そこに減り込む。驚きに見開かれた目がこちらを向いていたが、恐らくもう死んでいただろう。
きゃーっと悲鳴が上がって、それでニーナは女の存在を意識する。
父親が通う女。それだけで、力に理性を呑まれていたニーナの怒りは膨れ上がった。
喧しい声を出す顔面に拳をぶつけると、女は壁に叩きつけられて静かになった。見たくもない顔は、もう見られないものになっていた。
父親への復讐を済ませると、ニーナの意識はもう母親の方へ向いていた。
すぐにその家を飛び出して、母の臭いを探す。
母親は、ニーナが閉じ込められていたあの家にいた。
同じように扉を蹴破ると、机に突っ伏していた母親がばっとこちらを見る。
その目は驚きに見開かれたが、続いて涙を浮かべた。
「ニーナ……!」
と彼女は名を口にしてこちらへ歩み寄ると、ニーナの肩を掴んだ。
「ごめんなさい、私―――!」
母親の言葉を最後まで聞く気は無く、ニーナは彼女の胸に拳を打ち付ける。
存外容易く拳は母親の胸に深く食い込んで、骨を圧し折った。
母親の口から、だらだらと血が零れ落ちる。
だが、それ以外にも溢れ出たものがあった。
「……良かった」
慈愛に満ちたそのたった一言によって、ニーナの中で失われていたものが戻ってきた気がした。
気が付くと、既に母親は動かなくなっていた。
だが、その表情は驚くほど穏やかだった。
それを見てニーナは悟ったのだ。母には愛があったのだと。
夫と正面から戦うことはできず、だが彼女はニーナを売ることを避けてきた。
それでもあの日、夫はそれを決めてしまった。だから彼女は「一人にしないで」と……、娘と引き離さないでと夫に訴えていたのだ。
そのことをニーナは、彼女の死に様を見て知ることになった。
ニーナは、ずっと一人だった。
母の愛には気付けず、遂には自ら壊してしまった。
今度こそ、正真正銘の天涯孤独となってしまった。
ニーナは母親がいた家を守るために、それを家を持たない人間に預けた。
自分がそこで暮らすことは、できなかった。それは彼女にとって、あまりに苦し過ぎる。
故にニーナは家に戻らず、それからの数年間をふらふらと町の中を彷徨きながら時々金や食料を盗って生き長らえた。そして彼女はそれを、自分に相応しい生き方だと思っていた。
時折水溜まりの中に見える自分の姿は、悍ましかった。伸びてきた純白の髪は、自分が怪物である証。その髪には、どれだけ洗い流しても母の血が残っているような気がした。
だからニーナは、自分の中にあるものを必死に抑え込んだ。抑えて、抑えて、蓋をして。
そうして彼女の髪は、黒を取り戻していった。
その黒髪が伸びて白髪を全て断った頃に、ニーナは決意した。
町を出よう、と。
家にはいられない。そしてこの自由な町でも、盗みを繰り返す彼女の悪名が広がり始めていた。このまま留まっていても、町から排斥されるのは時間の問題だった。
潮時であり、また都合の良い切っ掛けだとニーナは思った。
最悪の過去が詰まった町を抜け出す、絶好の機会であると。
そうしてニーナは、港町を出た。
町を出て、南西へ向かう旧街道を進んだ。北西へ向かうもう一方の道は自分が港町に戻ってきた方向……つまり「怪物」になった場所がある方なので、それを避けるため南を選んだ。
歩いて。
歩いて。
途中獣や魔物を打ち倒し、小さな村や町に着く度荒くれ者に喧嘩を吹っ掛けて金や食料を得た。傷付くのも厭わない。それは自分に課された罰なのだから。
罰せられて。
罰せられて。
その内、死ぬかもしれない。
だが、それで構わない。それが、ニーナの受ける報いなのだから。
ニーナは、ずっと一人だった。
傍にいた唯一人に気付かず、剰え遠くへ遣ってしまったから。
だからこれからもずっと一人なのだと、そう思っていた。―――旧都で「彼」と出会うまでは。
「自分を痛めつけるような戦い方するな」
彼はニーナにそう言った。
「例えお前が不死身であったとしても、無駄に傷を負っていい理由にはならない」
彼はニーナにそう言った。
「お前の『もやもや』を晴らせるように、俺は行動する。だから、お前も俺の言ったことを理解して、行動してくれ。―――できるか?」
そう言って彼が差し出した手の温かさを、ニーナは今も忘れていない。
ニーナの傍には、いつの間にか彼……リンド・アルバートがいたのだ。
*
ぼんやりと、ニーナは眠りから目覚める。そして寝台から、ずるずると這い出た。
四角い木の型に干し草を突っ込んだだけの寝台は決して寝心地が良いとは言えないが、それなりに身体は休められるので十分だろう。
ニーナはくあと大きな欠伸をしてから、「んっ」と大きく両手を挙げて伸びをする。それで大分目は覚めた。
それで彼女は、次いでまだ干し草の上に寝転がったままのもう一人の身体を揺さ振る。
「起きて下さい。朝ですよー」
「うぅん……」
しかし、相手は目覚めない。
故にニーナは、耳元で囁いた。
「……早く起きないと、また悪戯しちゃいますよー? 次はスカート外に―――」
「絶対やめてっ!」
言い終わる前にがばと彼女が起き上がって、こちらを睨む。
その視線を受けたニーナは、「残念」と言いながら彼女に両手を差し出す。
「早く行きましょう。枷をつけて下さい」
頼むと彼女は物言いたげな顔をして、しかしそこでは何も言わずにはあと溜息吐いてニーナの横を通り抜けた。
そして部屋の戸を開くところで、恐らく先に言おうとしたこととは別のことを口にする。
「……食事とってからよ。貰ってくるから、待ってて」
そう言って、さらに部屋を出る間際にもう一言向けてきた。
「帽子。落ちてる」
「あー、ホントだ」
指摘されたニーナは、寝台の上に乗ったままの簡易な布の帽子を取って頭に被せた。額の角を見られると気味悪がられるので、拵えて貰ったのだ。尤も、左右の瞳の色が違うことで結局不気味がられてしまっているのだが。
ニーナは帽子を被ると、寝台にぺたんと腰を下ろして仲間が戻るのを待つ。彼女は迂闊に出歩けないので仕方が無い。
魔法王国の村や町へ出入りするために、ニーナはまた奴隷役を演じていた。
研究者の町へ向かう時には魔女が奴隷商人役だったが、彼女はもういないので今はニーナ一人が奴隷だ。
ニーナ自身は、そのことに不快感を覚えることは無い。実際に商品としてクロノに売られたこともあったので慣れているし、今はただ役を演じているだけなのだから。人前で手枷を填められていれば良いだけだ。
しかし奴隷役で無いもう一人の方は、十二日経っても未だ受け入れられていないようだった。
そんな人間だから、彼女もまたリンドと同じくいつの間にかニーナの傍にいるのだろう。
ニーナは、もう一人では無かった。
二人で研究者の町を発って、十二日目。
魔法王都は近い。今日一日歩き続ければ、夕方には着けるはずだ。
そこにリンドがいる確証も、ここまでの道のりで得ていた。
研究者の町を出て八日ほど経った頃に、噂を耳にしたのだ。
「リンド・アルバートが前王軍と共に魔法王都に向かっている」と。
本当に前王軍と共にいるのか、だとしたら何故手を組んだのか、―――などと言うことはニーナに分かるはずも無いし正直どうでも良かった。
早く、リンドに会いたい。
もう一度、共に歩きたい。
ニーナの胸の内にあるのは、それだけだ。
そしてその思いは、恐らくもう一人も同じはずだ。
故に二人は食事を手早く済ませると、すぐに町を出た。
昇る太陽を背に、ニーナはつかつかと速い足の運びで歩みを進める。
そうして歩むこと、暫し。
日が頂点まで昇り切ろうかというところで、ニーナの身体が人の気配を感じ取る。
それで彼女は、意識を前方に集中させた。
元々鋭敏だったニーナの感覚は、ユニコーンの力により身を浸したことでさらに鋭くなっている。
そのためニーナの耳は、まだ遠い戦いの音を聞ける。金属がぶつかり合う音と、炎が燃える音を。
ニーナの鼻は、まだ遠い懐かしい匂いを嗅げる。鉄臭さと焦げ臭さの中に混じる、いつだかに貰った襟巻の匂いを。
そしてニーナの目は、まだ遠い見知った人影を見られる。青い炎と粉塵を撒いて暴れる魔法王と戦う、彼女の英雄の姿を。
決して見紛わない。その左目が太陽の下で眩もうとも、絶対に見間違えたりしない。
ニーナの口元が緩む。
同時に彼女の右目が青紫に変わり、純白の髪がすっと伸びた。
「―――私、先に行ってますね」
「えっ……?」
相手の了承を待たず、ニーナはもう駆け出していた。帽子を取って腰に下げた袋に突っ込み、手枷は力を込めて難無く破壊する。
誰にも、今の彼女は止められない。
地面を一蹴りする毎に景色が一気に流れ、戦いの音が襟巻の匂いが英雄の姿が近づく。
風のように。
ニーナは一陣の風のように、旧街道を走り抜けていく。
その彼女の前で、英雄は魔法王に剣を叩き付け押し込もうとする。
それを魔法王は跳ね返し、反撃に出ようとした。
「させませんよ」
呟いて、ニーナは思い切りその魔法王―――マーシャル・イージスに向かって突っ込んでいった。
振り抜いた脚は、咄嗟に相手が上げた腕に打ち当たる。
しかし当然それで威力のある一撃を受け止めることはできず、マーシャルの身体は撥ね飛んだ。
「……ニーナ、なのか?」
純白の髪を振り乱して着地するところで、背に声を向けられる。ずっと聞きたかったその声に、彼女の表情は自然綻んだ。
彼女はくるりと彼―――リンド・アルバートを振り返る。そして、にっと不敵な笑みを見せた。
「はい、ニーナですよ! また会えましたね、リンドさん!」




