73.少女の変化
遡ること、十三日前。
ニーナは魔法王国の東の外れにある研究者の町にいた。
傾き始めた日の光を受けながら、彼女は怪物と対峙していた。
純白の長い髪を振り乱し青紫の瞳を持つ目を見開いて、ニーナは目の前の怪物に跳び蹴りする。
怪物―――バスク・パーニャはその蹴りを腕で受けるが、尋常で無い力を止め切れずに撥ね飛んだ。
「―――うーん、良い感じ」
瓦礫に突っ込んだバスクを眺めながら、ニーナはふうと息を吐き出す。
力を抜くと、右の瞳だけが黒色を取り戻した。
「まだだっ!」
と瓦礫を撥ね除け、バスクが叫ぶ。
「まだ終わってねェぞ!」
「えー、終わりですよ。やり過ぎるとまた暴走しちゃうかもしれないし」
そう返すと、バスクはぐっと歯噛みしてそれ以上何も言ってこない。流石にあの時のような目には遭いたく無いのだろう。
無論、ニーナとて同じだ。あんな無闇に周囲を傷つける化け物には、もうなりたくなかった。
内に宿した幻獣ユニコーンに呑まれ、暴走したのは二度目。
一度目の時には手に入れたばかりのまだ馴染まない力に浮かされて、感情のままに両親と父の愛人を殺した。尤も、正気であれば復讐をしなかった……とは言えないが。
二度目の時には能動的に抑え込んでいた力を解放したわけだが、大きな力に振り回されて仲間を危険に晒した。幸い魔女と仲間のお陰で大事は避けられたが、それが上手くいっていなければニーナを含めて皆死んでいたかもしれない。
暴走した時、一時意識を失った。
その後暫くして周囲の音や匂いを感じて意識は戻ったのだが……、その感覚は夢を見ている時のそれに近かった。
目の前の光景は見えるものの、止めようとするニーナの意思が彼女の身体に通じないのだ。
「止まれ」と言われていることは分かったし、ニーナもそうしようとしていた。だが彼女が「止まれ」と思うその意思と身体とを繋ぐものはどこかで断たれていて、代わりにニーナで無い別の何かの意思に従って彼女の身体は動いていた。
その状況が変わったのは、不思議な笛の音を聞いた時だった。それを聞いた時、ニーナの前に割り込んでいた何か……恐らくユニコーンの意思が弱まった気がした。その隙にニーナは強く思念して、ようやく自分の意思で動けるようになったのだ。
ニーナを救ったその音は、彼女の内から発せられていた音を再現したものだと聞いた。ユニコーンの鳴き声なのでは……という話だったが、宿しているニーナ本人は聞いたことが無いので何とも言えない。よって彼女自身がその話を今後に生かすことは難しかった。
つまり暴走してしまった場合にそれを止められるのはあの音だけであり、ニーナ自身にはどうすることもできないということだ。
故にニーナは暴走したその日からの約三十日間を、暴走しないように力を発揮するために費やしたのだ。
そしてその目標は、概ね達成されていた。
「あとは、お嬢サマの具合がどうかですね……」
呟いてから、ニーナは眉を顰めて頭を振る。
「彼女」が特訓を始めた頃に酷い目に遭ったことを思い出してしまった。
ニーナも迷惑をかけているので、一方的に非難することはできないのだが。
「―――ん? 何だァ、てめぇら」
不意に、バスクの声がした。
ニーナがそちらを見やれば、そこには兵士と思しき朱色の皮鎧を纏った男たちがいた。人数は五人。彼らはバスクの姿を見て「こいつも人間だったのか……!?」と驚き戸惑っている。「魔人」の存在は知っている者たちらしい。
「こんな所に何の用です?」
とててとニーナが歩み寄ると、彼らの目が再び驚きに瞬かれる。
「子供……? あっ、角が……!」
「子供じゃありません」
「お前は子供だろ。どう見ても」
バスクに呆れ交じりの声を向けられ、ニーナはちろっと彼を睨む。
ぶん殴りたいところだが、それよりも目の前の彼らが気になったので話を続けた。
「何しに来たのか教えて下さいよ。もしかしてクロノ・パーニャに何か頼みに来たんです?」
その名を口に出すと、彼らがまたその目を瞬かせる。どうやら当たりらしい。
この場所に他に訪ねる人物などいないはずなので、当然と言えば当然だが。
「……我々は現魔法王の側近ラーク・ロイド様の使者として、ここへ来た」
と兵士の男の一人が話す。
「クロノ殿に話があるのだ。知っているなら、案内して―――」
「断る」
兵士の言葉を遮るように、ニーナの背後から低い声がした。
振り返ってみれば、ぼろぼろのローブを纏った小太りの中年の男がそこにいる。
いつの間にやら、家を出てきたらしい。
「誰だ?」
と兵士が彼に言葉を返す。
「我々はクロノ殿と話がしたいだけだ。案内を断られる謂れは―――」
「どうせ『王都に戻って新王に協力しろ』とか言うつもりだろう。帰れ」
「何様のつもりだ! 関係無いなら出しゃばらないでくれ!」
そんな二人の遣り取りを見て、ニーナは呆れ交じりの息を吐く。
そして、兵士に向かってぱっと手を挙げた。
「あのー」
「何だ? お前が案内してくれるのか?」
「案内って言うか……、その『クロノ殿』は目の前におりますです。―――ねえクロノ殿?」
ニーナの滅茶苦茶な言い回しの発言に、兵士が怪訝な顔をする。
一方でローブの男の方は、ふうと煩わしそうな息を吐き出した。
「名乗る必要も無い」
「でも名乗った方が早く済みそうですよ?」
「え……、では本当にあなたが―――!?」
ローブの男……クロノとニーナの話を聞いていた兵士が、慌てた様子で声を上げる。
「失礼しました! 我々は、その……。クロノ殿の研究のことは存じておりましたが―――」
「いや俺も、風格が無くて悪かった」
とクロノは、恐らく心にも無い言葉を返す。
しかし実際、彼の姿は王国の中央で働いていたとは思えないみすぼらしさだ。強いて言うならば、小太りの体型が嘗ての裕福な暮らしの名残……かもしれない。
―――などとニーナが思っている間に、クロノは兵士たちを追い返しにかかった。
「心配しなくても、お前らの礼儀に関わらず断っていた。安心して主の元に帰ってくれ」
「いえ、そういうわけには……!」
としかし兵士が食い下がる。
「今、情勢は逼迫しております。先達て王都に『前王軍』が現れ、宣戦布告してきたのです。奴らはもう間も無く攻めてきます。ですからその前に―――」
「その前に、自分らを全員『魔人』にしろとでも言う気か? ―――そんなにお望みなら今すぐにしてやる。丁度、試したい実験もあったしな」
クロノがそう返すと、兵士たちは「いえ、そういうことでは……」と言葉を詰まらせ後退りする。
「ええと、……また来ます」
そう言い残して、彼らは逃げるように去っていった。
「―――また何か実験するんですか? 怒られますよ」
ニーナがそう話を向けると、クロノはちろっとこちらを見た。
「嘘に決まっているだろう。あの娘の前でやっても、喧しくて集中できやしない」
「でしょうね……」
彼の言葉に、ニーナは苦笑する。
どうやら彼は、しっかり躾けられてしまったらしい。
「―――まァ、それは良いとして」
と言って、ニーナは話題を変えた。
「大きな戦いがあるんですね」
「みたいだな」
とクロノは興味無さげにそう返してくる。
「まあ、長くソートリッジの世が続いてたんだ。それが変わることに戸惑う人間は少なからずいるだろうな」
「戦いが起きたら、魔法王都は混乱しますよね?」
彼の話を陸すっぽ聞かずに、ニーナは問う。前王だ現王だは、彼女にとってどうでも良いことだ。
関心は、別のところにあった。
クロノも、その彼女の言いたいことに気付いた様子で口を開く。
「混乱はするだろうな。―――第三勢力にとっては、恰好の狙い目ってわけだ」
「ですよね!」
ニーナはその細い首に掛かった青い布紐に触れながら、明るい声を上げる。
この機を、リンドが見逃すはずは無い。
必ず、彼も魔法王都を目指すだろう。
確証があるわけでは無いが、ニーナは確信していた。
「私、行ってきます!」
そう言って、ニーナは兵士たちが逃げていった町の入口の方へくるりと方向転換する。
「おい、一人で行く気か? 家にいるお嬢さんも連れて行ってくれると助かるんだが」
突然出発を宣言するニーナに、クロノは呆気にとられながら声を向けてくる。
それでニーナははっと気付いて、にへらと笑う。
「そうでした。じゃあ明日ってことで!」
ニーナは高らかに宣言すると、それを連絡するためにクロノの家へ向かった。
急なことではあるが、王国の外れにある研究者の町から魔法王都までは遠い。事が動き出してからでは、間に合わない可能性が高い。
ニーナたちは、リンドと再び共に戦うために力を磨いてきたのだ。その機会を逸することがあってはならない……という認識は、二人共同じだ。
故にその急な日取りで揉めることは無く、ニーナたちは翌日に研究者の町を発った。ようやく静かに過ごせることにほっとするクロノと、ニーナに勝てずに別れることに不満げなバスクの見送りを受けながら。
*
ニーナは、ずっと一人だった。
港町の小さな家に生まれたその時から、彼女は一人だった。
「バリスタ」の家名を持つ父親は「息子が欲しかった」と漏らしながら、家に戻る度ニーナに暴力を振るった。
そしてその金だけある父親に子を産むために飼われた母親は、夫の暴力を恐れてニーナを突き放した。
その上、ニーナは家の外に出ることも父から禁じられた。繋がりがあると、売る時に横槍が入る可能性があったからだ。
故にニーナは、八歳になるまで暗い部屋の中に一人閉じ込められて生きていた。
時々「餌」を与えられ。
時々「躾」を受けて。
それで身に付いた言葉遣いが丁寧なものであることは、後で知ったことだ。父の機嫌を取るために母の言葉を真似していたせいだろう。
やがて八歳になったニーナは、余所へ売られることになった。
父はそれを突然告げると同時に、家を出て行った。
それ以前から、父は家を空けることが多かった。息子を得るため、金を使って彼方此方の女に手を出していたのだ。
ニーナの母も最初から、その内の一人に過ぎなかったということだ。恐らく母と繋がりを持つ前から、父は様々な女に手を出してきたのだろう。
「一人にしないでっ!」
家を出て行く父を、母はそう言って追っていった。
そしてその間に、ニーナは見知らぬ男たちによって運び出された。
眩い外の世界に出たと思ったのも束の間。ニーナはすぐに暗い馬車の中へ放り込まれてしまった。
馬車には彼女の他にも、近い年頃の子供たちが乗せられていた。だが、誰一人として口を利くことは無かった。恐らく、ニーナと似たような環境で育った子らなのだろう。そうで無ければ、こんな所にはいないはずだ。
誰とも言葉を交わすこと無く、ニーナは馬車に揺られる日々を過ごした。正確な日数は不明だが、十日ほどはそうしていたように思われる。
そんな日々を経てようやく辿り着いたのは、ぼろぼろに荒れ果てた町。そこが「研究者の町」と呼ばれる場所であることや魔法王国に属する町であることは、後から知った。
ニーナは他の子供たちと同じく、一軒の石造りの家に運び込まれた。そしてそこにいた研究者―――クロノ・パーニャに、問われた。
「命を賭けてでも、力が欲しいか?」
その問いに、「はい」と答えた人間は少なくなかった。
ニーナも同じだった。仮に今から港町まで戻れたとしても、無力なニーナは結局誰かに「飼われる」しか無いからだ。それは、死んでいるのと変わらない。
故にニーナは、クロノの問いに頷きを返した。
クロノの実験には、ニーナより先に三人の子供が協力した。だが、三人共死んだ。
実験を行う部屋の隣部屋にあるやや大きな檻の中でニーナが待っていると、檻から一人が出される。その子供はクロノと共に実験部屋に消え、暫くすると悲鳴に近い獣が吠えるような声が聞こえてくる。それから声がぷつりと途切れた後に部屋から出てくるクロノのローブは血に汚れていて、それを目にしたニーナは「また失敗か」とただ淡々とそう受け止めていた。
三人が死んだのを目の当たりにして、「やっぱり嫌だ!」と泣き喚く子供もいた。そういう子は、願った通り外へ放たれる。その後どうなったのかは、分からないが。
しかし一方のニーナは実験への協力を……命を賭けて力を手にしようとすることを、やめようとは思わなかった。
やがて、ニーナの名が呼ばれた。
鉄臭い赤黒い実験室に連れて行かれて、部屋の中央に立つように指示された。
それに従い、あとは待つだけだった。
クロノが、意味の分からない言葉を口にした。それが魔法の詠唱であるということを、当時のニーナは知らなかった。
彼が言葉を言い終わると、直後にニーナは腹部に熱を感じた。
やがてその熱が足先に向かって広がり、さらに胸に迫り上がってきて手先まで至った。
熱が頭にまで達する頃にはずきずきと全身が痛んで立っていられなくなり、ニーナは悲鳴を上げながらその場に崩れた。
「助けて!」
と叫んだつもりだったが、口から洩れ出たのは獣が吠えたようなただの音だった。
それから間も無くニーナの視界は眩い白に変わっていき、突如暗転―――意識を失った。
死んだと、ニーナは思った。
だが、彼女の意識はやがて戻った。
夢見心地で見た景色は、研究者の町の屋外だった。
町は、来た時よりも酷い有様になっているように見えた。周辺には獣……と思われるものの肉片も散らばっていった。
周囲を見渡している内にニーナの意識は覚醒してきて、目の前の状況は自分の力によるものだと認識した。
自分はそれだけ大きな力を得たのだと、理解した。
力を手に入れたと知ったニーナの頭をまず過ったのは「復讐」だった。
■登場人物(キャラクターデザイン:たたた たた様)
【ニーナ】
魔法研究者クロノの実験によって、内にユニコーンを宿した「魔人」の少女。時の流れを意識していない頃があったため、正確な年齢は本人も把握していない。恐らく十二、三歳。研究者の町でバスクと修練を重ねて、ユニコーンの力をある程度制御できるようになった。力を使うと純白の髪が伸び、瞳の色が青紫に変わる。しかし額の角と左目の瞳は力を解除しても戻らなくなってしまった。
【バスク・パーニャ】
魔法研究者クロノの一人息子であり、実験によって七年前に最初に「魔人」になった青年。見た目は二足歩行する大きな熊のような姿だが、実際は16歳の青年。父が「最高傑作」と呼ぶニーナに嫉妬している。
【クロノ・パーニャ】
強化・回復魔法の研究をしていた小太りの中年の男。妻の病を治そうと研究を始めたが救うことはできず、徐々に狂った研究を繰り返すようになった。研究を恐れたソートリッジによって魔法王都を追われたが、力を与えたマーシャルが革命を成功させたこともあって「議会派」の中には彼を呼び戻そうと考えている人間もいるらしい。




