70.偽英雄と魔法人
(キャラクターイラスト制作:たたた たた様)
昇り始めた太陽が、東の境界の街を照らしている。
その街の南門……つまり純人王国側の入口である門の前に、男は姿を現した。
彼の姿を目にした二人の門衛は、やや緊張した面持ちに変わったように見えた。
「両手の、確認を……」
そう求めてくる割に、門衛の男たちは既に男の正体に察しがついている様子だ。
それでも、男は静かにその左手を挙げて見せた。
そこには黒龍の印がある。
「リンド・アルバート様、ですか……?」
「ああ」
困惑が交じった門衛の一方からの問いに、男は頷く。
そう、それはリンドだった。
黒の癖っ毛頭に、末端の解れた長い襟巻。右の腰には、黒を基調として鍔に退魔印と魔法印とが刻まれた片手剣を携えている。
彼は掌の印を示すと、さっさと門衛たちの間を抜けて進む。
「あ、あの。リンド様が来たら街に留め置けと、ダート様から―――」
「俺は行く」
と言ってリンドが振り向くと、門衛たちはぴたと動きを止めた。
彼の冷たい視線に、射竦められたようだった。
「邪魔をするなら、容赦はしない」
そう告げてからまた歩き出すと、門衛たちは追ってこない。
ただ彼らが囁き合う声が聞こえただけだった。
「―――あの人、あんなだったか?」
「ダート様みたいな雰囲気あったよな……」
そんな声を余所に、リンドはややゆったりとした足取りで先へ進んでいく。
行く先は、もちろん街の中心部にある境界の大橋だ。
様子を窺うことは、しない。ただ真っ直ぐに、境界を跨ぐ石橋に向かって歩む。
橋の前には、十名程度の純人王国兵が控えていた。
彼らはリンドの姿を認めると、引き留めようと寄ってくる。
だが彼らの足は、すぐに止まる。
リンドが前方に向けて発動させた退魔の力を受けて……また或いはその温かみの無い目を見て、兵たちは足を止めた。
そして「通してくれ」と言うリンドに、皆道を空けた。
以前とは、全く異なる光景だった。
兵たちが今リンドに感じている印象は、以前―――彼が魔女と共に石橋を駆け抜けていった六十日ほど前とは確実に違っているのだろう。
その彼の雰囲気の変化を感じ取っていたのは、純人王国の兵だけでは無さそうだ。
「止まれっ!」
と橋の向こう側で叫ぶ魔法王国兵の声が、裏返った。
無論、リンドは止まらない。しかしまだ駆けはせず、足早に石橋の上を進んでいく。
それで十名ほどの魔法王国兵たちは、慌ただしく弓に矢を番える。魔法は撃つだけ無駄だと判断しているようだ。
マーシャルが率いていた兵たちと比べると、彼らの装備は貧弱だった。身を守れそうなのは簡素な皮の鎧のみ。体格を見ても、彼らが訓練を積んだ兵士でないことは明らかだった。
迫るリンドを前に、兵たちは皆矢先を向けてくる。だが、彼の足を止めるに足る迫力は無かった。
リンドは、静かに前進を続ける。
「―――放て!」
隊長と思しき男の声を合図に、矢が放たれた。
だがそれは、リンドにとっても攻撃される合図だと分かる。それに、彼らはリンドを狙い過ぎていた。
掛け声と同時に、彼は大きく横に跳んで橋の中央から隅へと身を避ける。それで放たれた矢は全て、石橋の中央付近を叩いた。
それを尻目に、リンドは猛然と駆け出す。その左手を剣の柄に掛けながら。
突っ込んでくるリンドを前にして、隊長が慌てて指示を飛ばす。
「第二射……、おい! 何してる!?」
隊長の怒声を浴びながら、兵士たちは急いで新たな矢を番える。
どうやら目の前の敵に気を取られて、交互に矢を放つべきところを全員が同時に放ってしまったらしい。
皆動揺して射はもう揃わず、番えた者から急いで放つような有様。
リンドからすれば、心持ち身を小さくして進めば殆どが勝手に外れてくれる。たまたまこちらへ飛んでくるものも直線的でなく彼の目には十分に捉えられるので、抜いた剣を振るって逸らすことができた。
そうしてリンドが二、三の矢を凌げば、兵士たちにとってもう弓を構えているには悪い間合いになる。
「剣を構えろ!」
隊長の男が声を上げる。
「相手は真面に人も斬れない王子だ! 囲んでしまえば―――」
と正にその時、リンドがその左手に握る剣を薙いだ。
ひゅっと剣が空を切る音がして、直後に数人の兵士がどさと崩れ落ちる。
「ひ、怯むな! その男に人は斬れないっ!」
となおも士気を鼓舞する声がするが、その間にリンドはさらに踏み込んで剣を振るう。
振り下ろされる刃を逸らして即座に腹へ斬り返し、振り薙がれる剣身を撥ね除けて肩口へと斬り下ろす。
その動きには、一切の躊躇が無かった。
「……馬鹿な、お前は斬れなかったはずだ。だからマーシャル様に敗れて―――!」
「だから、斬れるようにしたんだ」
狼狽える隊長の男との戦いも剣の一振りで制すると、リンドはふうと息を吐き出す。
彼の周囲に、もう立っている者は無かった。
*
東の境界の街から魔法王都へは、一本道。
境界の街から北へ伸びる三本の旧街道の内、北西方向へ伸びる一本を進んで行けば辿り着く。早ければ八日、遅くとも十日といったところだ。
リンドはその道を、急ぐことなく一歩一歩踏み締め進んでいく。
旧街道沿いの最初の村に着いたのは、日暮れの頃だった。
村の門を守る二人の兵は、リンドの左の掌の印を見るとすぐにその手の槍を構える。
そんな彼らに、リンドは静かに声を向けた。
「こちらから剣を振るうつもりは無い」
「嘘を吐くなッ!」
としかし門衛の一人は言い返してくる。
「俺は知ってるんだ! 十年前にアルバートらが何をしたか……!」
無論、リンドも知っている。十年前に多くの兵を引き連れ進軍したダート・アルバートのことを。
通る町々で見境なく魔法人の人々を虐殺した彼にとって栄光ある歴史は、耳にしたことがあった。
故に彼らがリンドを拒絶することにも、納得はいく。
しかしそうかと言って、彼が引き下がる理由にはならなかった。
彼は彼の目的を果たすために、魔法王都へ行かねばならないのだから。
「俺は休みたいだけだ。宿にさえ泊まれれば、他に求めるものは何も―――」
「黙れ悪魔の一族がっ……!」
と衛兵の一方が叫び、槍で突いてくる。
リンドはそれをひらりと躱すと、即座に左の手で剣を抜いて迷いなく振り薙いだ。
剣身が相手の腹をさっと駆け、門衛はその場にどさりと崩れ落ちる。
「このっ―――!」
ともう一人も勢いよく槍を薙ぐが、その刃先の位置は高い。
頭に向かって飛んできたそれを腰を落として避け、同時にリンドは門衛に向かって踏み込む。
そして相手が次の行動を起こす前に、その手の剣を鋭く振り上げた。
刃は門衛の脇腹に打ち当たり、その一撃で彼は地面に伏した。
門衛たちが動かなくなったことを確認して、リンドは剣を鞘に収める。そして顔を上げると、その視線の先で村人たちが恐怖に慄いていた。
リンドがふうと息吐いてそちらへ歩めば、ざざと皆距離をとろうとして逃げ出す。
だが中には、足を縺れさせ転ぶ女もいた。
リンドはその女の元へとゆっくり歩み寄る。
「小さな宿は無いか? できれば、他に人が泊まっていないところが良い」
そう問うてみたが、答えが返ってこない。
女は青褪め、震えていた。
「どうか……、どうかお許しを!」
とそこへ男が寄ってきて、許しを請う。
それでリンドは、同じ問いを繰り返した。
「小さな宿は―――」
「あ、あちらにあります……!」
男の指差す先を見やれば、そこには小ぢんまりとした石造りの家屋があった。
確かに宿を示す看板がついているが小さく、教えられなければ見落としてしまいそうだ。もしかすると、近辺に住む人々が使う宿なのかもしれない。
リンドは「助かった」と怯える男女に礼を言って、その宿へ向かった。
その宿の戸を開いた時、リンドは思わず目を見開いた。
そこは酒場だった。二階が宿になっているらしい。
赤い陽が、その部屋の開け放された鎧戸から差し込んでいた。
夕陽に照らされた酒場の中に、客の姿は無い。
部屋の中程には、六歳くらいの少女とその母親と見られる女が立っていた。
そして二人の後背には、マグを手にした父親と思しき男がいる。
男が顔を上げる。そして、―――マグを取り落とした。
かこん、という少々間の抜けた音が部屋に鳴り響く。
その光景は、リンドが嘗て見たものによく似ていた。
男が血相変えてリンドの前に立ち塞がり、女は少女を庇うようにして抱き寄せる。
「こちらに、何か御用ですか」
上擦りそうになるのを無理矢理抑えつけたような男の声。
その声に、リンドは思わず暫し沈黙してしまった。
それから、我に返って声を出す。
「―――ここに、泊めてほしい」
すると、相手の顔がさらに引き攣る。
「……あなたは、アルバートの―――」
「ああ。知っているのか」
「は、はい。以前に王国兵が、伝えて回っておりまして……」
とそこまで言ってから、男はばっとその場に膝を突いて頭を下げた。
「どうか! どうか妻と子供の命だけは見逃してください!」
「別に殺すつもりは―――」
「夫を殺さないで! 何でもしますから……!」
とそこに女も声を向けてくる。そんなやり取りに少女もわっと泣き出し、どうにも収拾がつかない。
それでリンドは溜息吐いて、静かに左手で剣の柄を握りゆっくりと引き抜く。すらとその白銀の剣身が姿を現し、赤い陽を反射して輝いた。
リンドは、剣を両の手で握って掲げる。
それを見た男たちは、青褪めて固まった。
そんな彼らを余所に、リンドは無表情なままその手の剣を振り下ろした。
振り下ろされた剣に、大した勢いは無かった。
だがそれでも、肩口に食い込みはする。本物の刃ならば。
しかしそうでは無いので、剣は男の肩をとんと叩いただけだった。
「痛……?」
恐らく棒で軽く打たれたような感覚だろう。その感覚に、男は疑問形の声を漏らした。
そんな彼の肩を、リンドはもう二、三度ぽんぽんと叩く。
「これは斬れないんだ」
「え……?」
と戸惑う男を見下ろしながら、リンドは剣を鞘に収める。
「門衛たちも、退魔の力で気絶させた。―――だから彼らが目覚めたら、寝込みを襲われる心配がある。一晩だけ、人質役を買ってくれ」
彼が人差し指を立てて頼むと、住人たちは目を瞬かせて顔を見合わせた。
*
日が沈み、全ての鎧戸を閉ざした宿の中もやや冷え込んできた。
「―――朝には、出発する。それを待てないなら、この家の人間は皆死ぬ」
リンドは入口の戸の傍の壁に寄り掛かって、低い声を出す。直後に、彼に捕らわれた少女が「うぅ」と声を漏らした。
それで外からは、ざわざわと人々の動揺の音が聞こえてくる。
「……分かった」
とその中で代表と思われる男の声がした。
「だが約束を違えたら、お前を八つ裂きにしてやるからな……!」
「それはこっちの台詞だ。約束は守ってくれ」
リンドがそう返して、それで交渉は終わった。
ざわめきが離れるのを待って、リンドは腕に抱えた少女を解放する。
「―――助かった」
「えー、もう終わりー?」
としかし少女は、不満げにリンドに絡んでくる。
子供の適応力は凄まじい。
或いは、早くもリンドの本性を察したのかもしれない。いずれにせよ恐ろしい能力だ。魔法などより余程恐ろしい。
「あまり燥ぐな。人質役が台無しになる」
「はーい!」
と返事して、少女は食事が準備された酒場の食卓の一つに着く。
そこに既に揃っている彼女の両親は、まだ硬い表情だった。こちらの方が自然と言えるが。
リンドもそこへ入れてもらって、パンと豆のスープだけの細やかな食事に有り付く。今日は境界越えもしたので、いつも以上に腹が空いていた。
「いただきます」
いつだかに教わった文言を口にしてから彼がパンに手を伸ばすと、少女にその手を止められる。
「駄目だよ! お祈りしなきゃ!」
「こ、こら! 良いんだこの人は」
父親が慌てて言うが、娘の方は納得がいかないらしく「何で?」と剥れる。
それでリンドは、ふうと息を吐き出した。これは口煩いクリストンの箱入り娘より厄介かもしれない。
「……俺はあまり詳しくないんだ。教えてくれ」
「え……? で、ですが」
と母親もはらはらした様子で言ってくるが、リンドは両手を合わせて見せる。
「ここは魔法王国だからな。この国のやり方に従う」
「は、はあ……。では……その、復唱願います」
「うん」
リンドが頷くと、父親の祈りの言葉が始まった。
神からの恵みに感謝を述べるその口上には、聞き覚えがある。恐らく彼女が口にしていたものと同じなのだろう。聞き流していたので、全く同じかは分からないが。
魔法人の信仰する神は、龍の姿をしているという。この家も勿論龍姿派で、祈りの言葉の中には「龍神」への感謝が述べられていた。
だが、それだけだ。他は純人王国の家庭と何ら変わりない。同じなのだ。何もかも。
「……何が純人だ。魔法人だ」
思わず口を衝いて出た言葉に、また大人たちが「すみません!」と反応した。
それに「違う」と首を横に振って示し、リンドは合わせていた手を開く。
「祈りの言葉は終わりか? それなら、食わせてもらう」
「ええ……、ええどうぞ……」
許可を得て、リンドは早速食事を口に運ぶ。
すると横から袖を引かれた。
「ねーねー、何で悪い人のフリしてるの?」
目を向けると、隣から少女がこちらを覗き込んでいる。
「『私は悪い人じゃありません!』って言えば良いんじゃないの?」
「―――そうできれば良いんだけどな」
とリンドは疲れた息を吐く。
「お前やお前の両親みたいに、すぐ分かってくれる人間ばかりなら良いんだが……、分かってくれない奴もいる。俺の家族に、酷い目見せられた奴もいるんだ。―――そういう意味では、俺は必ずしも良い奴じゃない」
「えーでも、お兄ちゃんは何もしてないんでしょ?」
こてりと小首を傾げる少女の言葉は、以前に小さな怪力少女に怒られた時のそれに似ていた。
それで思わず、ふっと息が漏れる。
そう言えば、リンドはあの時約束したのだった。彼女の「もやもや」を晴らせるように行動するのだと。
「……まだ、変われていないんだな。俺は」
呟くと、少女は意味が分からないと言うように首を捻った。
そんな彼女に、リンドは告げる。
「そうだな。俺はもっと、分かってもらえるように―――」
とその時。
こんこん、と家の戸を叩く音がした。
びくと大人たちが肩を弾ませ少女が首を傾げる中、リンドはがたと席を立つ。そして静かに扉に歩み寄った。
「……朝まで訪ねてくるなと、言ったはずだが」
扉越しに低い声を向けると、対照的に高めの声が返ってきた。
「リンド・アルバートだな? 貴様に、良い取引を持ってきたぞ」
唐突な話に、リンドは眉根を寄せた。




