7.少女と服飾店の老人
服飾店の店内は、暗かった。
窓はあるのだが、積まれた服が邪魔をして売り場の奥までは陽光が届いていない。小さな店なのだが、それだけ品数はあるということなのだろう。
「―――おはようございまーす」
つい声が小さくなってしまう。何しろ、店の中が静か過ぎるのだ。客はもちろん、出迎える店員の姿も無い。
「……やってるんですかね」
店の戸は開いていたが、もしかするとまだ開店していなかったのかもしれない。
「不用心だなァ……。これじゃあ盗られても文句は―――」
「盗らせはせんぞ」
急に返ってきた声に、ニーナはびくりと肩を弾ませる。
声のした方―――店の奥に目を向けると、がらがら音立てながら一人の老人が姿を現した。灰色の髪と長い髭。老齢と見られるが、その右手には小型の斧を引き摺っている。
「無料で持っていこうってことなら、その頭をかち割るぞ」
「物騒なお爺さんだなァ……」
引き気味のニーナをよそに、その店主と見られる老人は斧を両手で構え始める。
「持っていく気か」
「いやいや! 持っていかないですよ!」
彼女が諸手を上げて否定すると、老人はようやく構えを解く。そして傍にある椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。それでも、斧から手は離していないが。
「……妙な気は起こさないことだ」
「そんな気起こしても、ここだけは狙いませんよ……」
斧に視線を落としながら呆れ交じりの声を出すと、老人はふんと荒い息を吐く。
「……まったく。悪いことも連鎖して起こるものだな」
「何かあったんですか?」
「お前には関係ない」
「でも今、聞いて欲しそうに呟いたじゃないですか」
ニーナがにやと笑んで言うと、老人はまたふんと鼻を鳴らす。
しかしやはり聞いて欲しかったらしく、勝手に口を開いて話し出した。
「今朝は酷く魘されて起きたんだ。しかも起きて店の準備を始めたら、商品が明らかに減っていた。―――この上さらに盗まれたら、堪ったもんじゃない」
「へ、へえ……」
老人の刺すような視線を受けて、ニーナはぎこちない相槌を返すしかない。
「―――いやでも、最後のは誤解ですよ」
「他にも心当たりがあるように聞こえるな」
「いえ、やってませんよ。……私は」
最後の言葉は口の中だけで呟いて、彼女は服を物色し始める。
「それより、私客ですよ? 安くて丈夫な服買いに来たんです」
「いくらあるんだ」
まだ訝しげな様子を見せながらも、店主は斧を置いて聞いてくる。
「銅貨で三十……いえ、三十枚丁度かな」
「それなら、手前の一番安いやつだな」
言われて、ニーナは入口傍の棚をごそごそ調べていく。
「ふうん……。三十枚で、これ何着買えます?」
「一着」
「え」
思わず振り返った彼女に、老人は呆れ顔で視線を返してくる。
「当たり前だろう。手間暇かかってるんだ。それ以下だと魔法素材でも使わなけりゃ―――」
とそこで、老人はふむと腕を組む。
「そうか、魔法素材を使ったものが消えたり壊れたりしたのか……。となると、監視の偽英雄が又候近くで暴れたか」
「監視?」
その言葉に、ニーナは小首を傾げる。
「この街には他にも偽英雄がいるんですか?」
「他にも?」
「あ、いや……王都からも来るだろうから」
適当に誤魔化すと、幸いにして老人はそれ以上追及してこない。
「監視を知らんのか。主要な街には偽英雄がついていると思うが……」
「へえ。港町にもいたのかな……?」
「お前さん、港町から来たのか?」
「ええ、まあ」
ニーナの呟きに、老人は驚いているようだった。
「魔物もうろついているというのに、よくここまで来れたな」
「私強いですからね!」
むんと胸を張る彼女の言葉は、しかし軽く聞き流されてしまった。
「―――しかし港町か。それなら知らないのも納得いく。あそこは交易が行われなくなってから偽英雄も離れたって聞くからな」
「ふうん……そうでしたか」
アルバートから見放された町。だからこそ好き勝手できるというわけだ。もはや、ニーナには関係の無い話だが。肩を竦め一つ息を吐いて、不要な考えを捨て去る。
そしてニーナは、再び服を選び始めた。
買えるのは、たった一着。であれば他に服を持っていない彼女は、一着で済むものを探すしかない。上衣も下衣も無い。ある意味、選びやすくはなった。
ニーナは示された棚に雑然と置かれた服を広げてみては隣の棚に放っていく。老人店主が迷惑そうな視線を送ってくるが、気にしない。
そうしているうちに、鮮やかな青が目に留まる。
広げてみると、それはローブのような形をしていた。袖を通してみると、その裾が彼女の膝上の辺りにかかる。袖も彼女の上腕を覆うほどの長さで、それほど動きを阻害しない。申し分の無い衣だった。
ニーナの口元が緩み、頬が持ち上がる。
丁度その時、入口の扉がきいと音を立てた。
「あ、来ましたね!」
少々はしゃいだニーナの声に迎えられて、リンドはやや面食らったようだった。
「―――具合の良い服は見つかったのか」
「これです!」
答えて、ニーナはその青い衣を広げて見せる。
「これにします!」
「……」
リンドは黙ったまま、その服を品定めするように上から下へ下から上へ視線を流す。
それから顔を上げて、奥の椅子に腰掛けている老人に声をかけた。
「これは、いくらだ?」
「銅貨で三十」
即座に返ってきた答えを受けて、彼は次にその視線をニーナに落とす。
「……何ですか?」
まじまじと見つめられてどうにも居心地悪く、ニーナは手にした衣に隠れ目元だけ覗かせて問う。
「似合わない、ですか?」
しかしリンドは答えず、今度は周囲をきょろきょろと見回す。そして目的のものを見つけると、それを手に取った。
青い布紐だった。長さは無いが幅のある、色鮮やかな亜麻の布紐。
「これをつけて、三十六にならないか?」
とリンドは店主に問う。
「それ何に使うんです?」
小首を傾げてニーナが訊くと、彼はその布紐を開かせた彼女の掌に落とす。
「髪を結ぶんだ」
「誰の?」
「お前しかいないだろ」
呆れ交じりの声を向けられるが、ニーナはぽかんとしていた。彼の言っていることが分からなかった。そんな彼女に、リンドは変わらぬ淡々とした口調で言う。
「髪、邪魔になるだろ。切らないなら、それで結っておけ」
「……」
ニーナは、その手に渡った布紐に視線を落とす。その小さな亜麻布からは、微かに温度を感じる気がする。リンドが手にしたのはほんの僅かな間だけで、そこに温みなど残っているはずがないのに。
ニーナは、ぱっと顔を上げる。そこにはまた、花咲くように明るい笑顔が浮かんでいた。
「ありがとうございます!」
礼を言うと、リンドはうんと一つ頷く。
しかしそこに、冷や水浴びせるような低い声が飛んでくる。
「盛り上がっているところ悪いが、三十六じゃ足りないぞ」
老齢の店主は椅子に腰掛けたまま、じととリンドに視線を向けている。
「銅貨で四十。それ以下にはならん」
「こいつの笑顔に免じて―――」
「ならん」
リンドの言葉は、最後まで出る前に切られてしまった。
それで彼は、ぽりぽり頬を掻いて別の提案をする。
「こいつの服ならどうだ」
「えっ?」
思わずニーナは声を漏らす。
「こいつの服をこの場で売る。それなら、銅貨四枚くらいにはなるだろ」
「……それは、服なのか?」
老人の訝しげな視線が、ニーナの着ているそれに注がれる。そんな老人に、リンドは答える。
「魔法素材でない素材としての価値はある」
「服という認識ではないんだな……」
「ちょっと、私の意思が置いてけぼりなんですけど?」
ニーナがぐいぐい袖を引くと、ようやくリンドの顔がこちらを向いた。
「別に身包み剥いでそのままってわけじゃない。交換するんだ。問題無いだろ。―――それとも、何か思い入れでもあるのか?」
「いえ別に、そういうわけでは無いですけど……」
とニーナは視線を逸らし、ぼそりと付け加える。
「―――ただ銅貨四枚くらい、あなたなら痛くも痒くも無いんじゃないかなァって」
「痒いじゃ済まない」
「は?」
視線を戻すと、今度はリンドの方が明後日の方を見ていた。
「痛いんだ」
「……」
声音は変わらないが切実さを感じる答えなので、ニーナとしては何も言えなくなってしまった。
それを承諾と受け取ったのか、リンドはその目を店主の方へ向けた。
「あんたも、納得してもらえるか?」
彼が問うと、店主の老人は渋い顔ながら頷く。
「……まあ、いいだろう」
「それは良かった。交渉成立だ」
そう返して、リンドは店主の掌の上に服の代金を落とす。
銀貨が三枚。それを見て店主は、少し驚いたようだった。
「銀貨での支払いは久々だな」
「売れてないのか」
「銀貨が久しぶりと言ったんだ」
冗談なのか今一判然としないリンドの言葉に、老人が即座に言い返す。対してリンドは、うんと頷いた。
「食う寝るは銀貨だと使い勝手が悪いな。―――けど、これで全部だ」
リンドが支払いを終えると、老人の目がこちらを向く。
「次はお前だ。なに突っ立ってる。ここで着替えていってもらうぞ」
「はあい」
選択権は無いので、素直に返事する。
「あ、ちょっと身体拭きたいんですけど何かあります?」
「……待ってろ」
ニーナの注文に迷惑そうな顔をしたものの、老人はすぐに小さな桶の水につかった麻布を持ってきてくれた。
それを受け取って、ニーナは店の片隅に移動する。狭い店だが背の高い棚が並んでいることもあって、小柄なニーナが身を隠すことは十分に可能だ。それでもニーナは棚の影から顔を覗かせ、茶化し気味に一言言うことを忘れない。
「覗いちゃダメですからねー!」
―――が、当の二人はその声すら聞かずに何やら話していた。リンドなどは、ニーナが取っ散らかした服を畳みながら言葉を交わしている。
「……」
若干の不満と羞恥心を感じながら、ニーナはそろそろと引っ込んでさっさと着替えに取り掛かる。と言っても、それほど時間のかかることではない。
金の入った袋をぶら下げる腰紐を解いて、麻布の袋のような服から頭と腕を抜く。ぐいぐい濡れ布巾で身体を拭いたら、新しい服に袖を通して前を掻き合わせ、また腰紐を巻く。あとは青の布紐で背にかかる黒髪を纏めて頭の後ろで束ねれば、完成だ。
風に捥ぎられた葉が地に落ちるよりも早い着替えだった。
彼女が再び物陰からひょっこり顔を覗かせると、二人はまだ話をしていた。
「―――その息子がやってた酒場、もしかして『ルイス』か」
「知ってるのか」
「……話に聞いたことはあったんだ。さっきも少し寄った」
リンドの声は、先ほどまでより少し低い響きを持っているように聞こえた。
「お爺さんの子供の話ですか?」
「ん、ああ」
ニーナが声をかけると、老人の視線が僅かに流れる。
「お爺さん家族いたんですね。てっきり独り身なのかと」
「独り身さ。今はもう」
その声の響きで、流石にニーナも理解する。
「酒場をやると息巻いて出て行った息子は十一年前に殺されて、女房は後追うようにその一年後に病死した」
「……殺されたって、誰に」
「偽英雄」
答えたのは、リンドだった。冷気を感じるようなその声を背に浴びて、ニーナは彼の方を振り返ることができなかった。故に表情を窺うことはできない。
きっとそこに、鬼の形相は無いだろう。しかし無表情の表情に先と同じものを見出すことも無いと彼女は確信する。
一瞬で張り詰めた緊張は、解けるのも一瞬だった。
「……まあ、亡くした命は戻らん。その分この老い耄れの命繋ぐために、しっかり支払っていってもらうぞ」
老人が言ってその話に区切りをつけると、リンドも息を吐いてそれに合わせる。
「―――あんたは長生きしそうだ。金にうるさいから」
「ケチ臭いのはお前の方だろう」
二人のやりとりを見てニーナもようやくふうと息を吐き出し、その手の服を老人に差し出した。
「はいどうぞ。―――美少女が着てたって言えば、きっと高値で売れますよ」
小声で耳打ちするように言うと、老人店主は呆れ顔を浮かべる。
「随分小汚い美少女だな……」
「素材は良いんですよ、素材は」
むんとニーナは胸を張る。
「こっちの布巾も洗わない方が売れるかもしれませんよ?」
言うと、今度はリンドが口を開く。
「ああ、伝染しそうだな」
「人気が?」
「病気が」
むっとしてちろっと睨むニーナをよそに、彼は老人の方を向く。
「そしたら、そろそろ行く。世話になったな」
「そう思うなら、次はせこい交渉無しで買い物しろ」
店主はぶっきら棒にそう返す。そして、さらにもう一言続けた。
「―――それと、もしまた『ルイスの酒場』に行くことがあったら、エレナによろしく伝えてくれ。息子とは喧嘩別れだったが、一人だったあいつを支えてくれて感謝してると」
「それは無理だ」
と、リンドは煩わしそうな視線を老人に向ける。
「自分で伝えろ。俺の口からじゃ、あんたの想いは伝えられない」
「……だな」
呟いた老人の声が、彼に届いたかは分からない。リンドは言うことだけ言うと、さっさと店を出て行った。
後を追うニーナが去り際に振り返ると、老人は奥の椅子に腰掛けて苦笑いを浮かべていた。




