66.魔女の覚悟
月光が、淡く一人の少女を照らす。
冷たい夜風が、彼女の純白の髪を靡かせる。
腰にまで伸びた長い髪の毛先に残る黒色は、闇に紛れてしまってよく見えない。
純白の髪と傷一つ無くなった肌だけが光を返して、彼女の姿を神々しく見せていた。
その彼女がこちらに向ける瞳の色は青紫色。元の黒色は失われ、紅と紺とが入り混じる妖しげな色味がそこに浮かんでいる。
表情は無かった。感情を感じさせない顔で、彼女は黙ってこちらを見つめていた。
そんな彼女と見合っていると、その大きな瞳の中に吸い込まれてしまいそうだった。
静かに様子を窺うアリアの隣で、フレアも黙っていた。
言葉を失っているようだった。常ならぬ彼女の姿に戸惑っているのだろう。
それでもフレアは、やがてその口を開く。
「ニ―――」
しかしフレアが声を出すよりも早く、遠方の瓦礫が崩れがらがらと音を立てた。
そして直後、その方向からバスクがこちらに向かって猛然と駆けてくる。
「ソレが本性だな……!」
言うが早いか、彼はニーナの背後まで一気に迫ってその太い腕を振り下ろす。……振り下ろしたはずだった。
だが次の瞬間に、バスクの腕はニーナから離れる方向に動いていた。
弾かれたのだ、彼女の細腕の一振りで。
「このチビっ―――!」
バスクが体勢を立て直し反撃しようとするが、その間は無い。
それよりも速く、両手を地につけ蹴り上げたニーナの足が彼を捉えた。
宛ら馬が後ろ足を蹴上げるような一撃をバスクは右腕で受けるが、その衝撃を殺すことはできない。高く宙を舞って、あっという間に崩れた家の一つに落ち込んだ。
「ぐっ、うぅゥッ……!」
呻きながら彼はすぐに瓦礫を撥ね除けるが、その右腕はだらりと下ろされたままだ。
そこへニーナが一瞬にして跳んで行き、バスク踏みつけ瓦礫に沈めた。
「こォの―――」
「ああァァァッ!」
抗おうとしたバスクに向かって、ニーナが叫ぶ。
―――否、それはニーナの声とは言い難い獣の悍ましい咆哮だった。
びりびりと耳の奥を揺らすその声に、バスクはびくりと身を硬直させる。
彼だけでは無い。フレアもびくと肩を弾ませ、数歩後退した。
そしてアリアもまた、その両手を知らず握り締めていた。
威嚇のような声を上げた後に、ニーナはくっとその身体を反らせる。
そして恐怖に固まっているバスクに向かって、その頭を鋭く振り下ろした。
頭と頭がぶつかるごっという硬質な音と共に、バスクが地に沈むどんという音が大きく鳴り響く。
それで彼からは、目に見える反応が無くなった。
だが、それでもニーナは攻撃をやめない。
その腕を振り薙いでバスクを転がし、それを追ってはまた蹴飛ばす。
そうして狂ったように目の前の獲物を叩き続ける。
「ちょ……、ちょっとニーナ……! ニーナやめてっ!」
隣から裏返り気味の声が聞こえた。
見れば、フレアが強張った顔で叫んでいる。
「もういいでしょう!? もう彼は戦えない―――、死んじゃうわよっ!」
叫ぶ彼女の手は震えている。
彼女はその震えを抑え込むように、右手に左手を重ね強く握り締めていた。
―――とそこまで見て、アリアは自身が傍観していることに気付く。
思考を止めて状況を漫然と眺めているなど、アリアにあってはならないことだ。
彼女はすぐに頭を回し始める。
まずは、目の前で叫ぶフレアだ。
「ニーナっ! やめて!」
「フレア待ちなさい」
「もうやめてっ―――」
「フレア!」
アリアらしからぬ鋭い声に、フレアが驚いた様子でこちらを見る。
その彼女に理性的な対応を説こうとしたところで、アリアは既にその時を逸してしまったことを理解した。
音が、しなくなっている。
ニーナは暴れるのをやめ、こちらを見ていた。
その額からは、血と共に骨が浮いている。
「骨」と言うより、「角」と言うべきものだろう。
小さな角が、彼女の額の正中よりやや左側に突き出ていた。
そこにいるそれは、もうニーナでは無かった。
幻獣ユニコーンだ。
「ニーナ……」
とフレアがまた呼び掛ける。
「もう、勝負は着いたでしょう? だから―――」
彼女が全てを語り掛ける間は、無かった。
刹那吹き抜ける一陣の風。
アリアが同時に放った風で僅かに軌道を逸らすも、傍を一瞬で駆け抜けたユニコーンが巻き起こす衝撃で彼女らは撥ね飛ばされる。
身体を傷めないように地面を転げたアリアは、すぐに立ち上がって状況を確認する。
フレアは瓦礫の山に身体を打ち付けたようだが、すぐに身を起こしており問題は無さそうだ。
クロノも同様に崩れた建物を背に座り込んだ姿勢になっていた。頭からは少し出血が見られる。
だが彼は、笑っていた。
「これだ……。五年前に見たあの純白の髪と青紫の瞳。それに今度は角も生えている。ユニコーンの象徴だ! あれこそ、ニーナの真の姿……!」
「あれがニーナなわけないじゃないッ!」
とフレアが反論する。
「ニーナはこんなことしない。『真の姿』だなんて言わないで……!」
「フレア、放っておきなさい」
アリアは強めの口調で声を飛ばす。
「それより早く離れて」
「でもニーナは―――」
「邪魔だと言っているの。足手纏いにならないで頂戴」
食い下がるフレアを即座に突き放したアリアは、勢い余って突っ込んだ瓦礫の中からゆらりと立ち上がるユニコーンの一挙手一投足に神経を尖らせる。
彼女は肩越しにこちらへ青紫の瞳を向けると、ゆっくりと身体を振り向ける。
その段階で、アリアは先んじて手を打った。
強風を起こし、相対する彼女へ向かい風を与える。
これで多少はあの尋常でない速さを抑えられるはずだ。
アリアが吹かす大風に、ユニコーンの軽い身体が蹌踉めく。
だが次の瞬間には、その強靭な足が地を蹴り彼女を前へ―――即ちアリアに向かって進める。
一蹴りした後、彼女は両手も地につけて風に対し踏ん張る。
そして直後、また凄まじい速度で彼女は突き進んできた。向かい風を物ともしない。
アリアはすぐに自分の前に鉄の壁を築く。いつもの数倍厚く数倍深く突き立てた盾で、ユニコーンの足蹴を受けた。
ごおんと重い鉄の悲鳴が響き、その壁が湾曲する。
それと同時に、アリアの横をユニコーンが駆け抜けた。
瞬間巻き起こされる衝撃。
彼女は空気の壁をも破って突き進んでいるのだ。
そしてその瞬間に起こる衝撃は、アリアでも防ぎ切れない。
地を転げ、髪を振り乱し、それでもアリアは適切に身を守ってすぐ体勢を整える。
そして行き過ぎてから身を翻すユニコーンの身体を氷塊に閉じ込めた。
しかし、それはあっという間に砕かれる。
「ああァァッ……!」
アリアの攻撃に怒っているのか興奮しているのかは分からないが、ユニコーンは激しく嘶く。
びりびりと耳を劈くそれは、まるで退魔の力のようにアリアの身体の動きを鈍くさせる。
身体に重りのように伸し掛かる恐怖を振り払って、アリアは再び強風を巻き起こす。
それと同時に、風に乗せて鉄の刃を放った。
それは勢いよく飛んで、狙い通りユニコーンの左脚に突き刺さる。
彼女が悲鳴を上げた。
「ごめんなさいね。けれどこうでもしないと―――」
言いながら次の魔法を準備しかけたアリアの左上腕に、鋭い痛みが走る。
石だ。ユニコーンが蹴り飛ばした瓦礫の小さな破片が左腕を掠めたのだ。
アリアはすぐに鉄壁を生成して、そこに背を預ける。
瓦礫の砕片が掠めただけだ。
だが飛ぶ速さが猛烈だったためにアリアの貫頭衣は裂け、上腕に浅くない切り傷を作っていた。
どくどくと漏れ出す血を見て、彼女は思わず顔を顰める。
そこへ今度は、どんと強い衝撃。
アリアの腰に、折れ曲がった鉄壁が当たった。
ずきりと鈍い痛みを感じながら、彼女は鉄壁の方へ向き直る。
状況は、確認するまでも無かった。
ユニコーンが次々と瓦礫を蹴り飛ばしてきているのだ。
尋常で無い脚力で蹴り飛ばされた石の砕片には、相当な破壊力がある。
これまでに無い窮地に、アリアはふうと溜息を吐いた。
ニーナの力を……ユニコーンを、甘く見ていた。
こうなることを見越していれば、事前に準備できることはあった。だがアリアは、それをもっと先のためにと仕舞い込んでしまっていた。
要するに、驕ったのだ。
ここまで事が進行してしまった今からでは、アリアが秘策を実行するのに十分な時間を取れない。
フレアにその時間を稼いでもらうのも難しいだろう。
時間を稼げるのは、アリアだけだ。そしてその時間も、無限では無い。
じわじわと貫頭衣に染み出す赤を押さえつけながら、アリアは努めて冷静に考える。
湾曲し倒れる鉄壁を都度新たに生成しながら。
「氷結!」
不意にフレアの声がして、ぱきぱきと地が凍り付く音が続いた。
攻撃が止んだ隙に見やれば、ユニコーンを中心に地面が広く凍り付いていた。
氷はユニコーンの足も同時に地に張り付けている。
足止めと滑る地面による行動の制限を狙ったものだろう。
だが、その程度の小細工が通じる相手では無い。
ユニコーンの氷の足枷が、すぐにばきばきと音立てて壊れる。
彼女はそこからさらに一歩踏み出して、その先の氷の地面を踏み割った。
いつの間にやらその脚にアリアが突き立てた刃は無くなっている。傷も全く見られなかった。
「ニーナ、目を覚ましてっ!」
とフレアが叫ぶ。
「ユニコーンなんかに呑まれないでよ! あんたは、そんな弱い人間じゃないでしょう!?」
語り掛ける彼女に対して、ユニコーンは「ぐぅゥ」と返事してその足を止めた。―――ように見えた。
だがそれは、都合の良い解釈だ。客観的でない。
現に足を止めたかに見えたユニコーンは、膝を曲げて腰を落としていた。宛ら、強力なばねを上から押し込むかのように。
「フレア身を守りなさい!」
言うが早いか、アリアは風を巻き起こす。
それでフレアの方を吹き飛ばすと、直後にそこを白い風が駆け抜けた。そして続く衝撃。
その衝撃を身を屈めて堪えると、アリアはすぐ次の行動を起こした。
崩壊した家屋の跡に突っ込んだユニコーンを、大きな氷で完全に覆う。
無論、すぐ砕かれるだろう。
だがそれまでの僅かな間に、アリアは地に転げているフレアの傍へ寄る。
そして彼女の手元に、小さな氷の球を落とした。
「何、これ……?」
怪訝な顔をするフレアに、アリアは一度で正確に伝わるようにはっきりとした声音で言う。
「それが解けるまでに、ニーナちゃんを元に戻す方法を考えて実行して」
「え……? そんなこと急に言われても―――」
「私があの子と戦っていられるのは、それくらいが限度よ。それ以上は……」
言ってアリアは、ばきっと音立てて罅割れた氷塊の方を見やる。
そして告げた。
「―――その氷が解けるまでに何とかできなかったら、私は私を守るためにあの子を殺すわ」
「そっ……、そんな待って! 私―――」
「やりなさい」
とアリアは、彼女の方を振り返ること無く言う。
「フレア、今成長なさい。それができなければ、リンドの仲間はあなた一人になる」
その言葉に対する応答は、無かった。
代わりに、氷塊が破壊される大きな音が鳴り響く。
その中にいたものを迎え撃つために、アリアはふーっと長く息を吐き出して集中力を高めた。
直後突っ込んでくる白い獣。
それを正面から強風を吹かせて減速させる。逸らす。
彼女が駆け抜けた後に起こる衝撃に対しては、綺麗に身を転がしてすぐに膝を立てる。
そして再び相手を氷に閉じ込めることを狙うが、完全に封じ込めることは相手がもう許さない。
身体の一部を捉えることはできるものの、即座に砕かれてしまう。
炎で囲う策も取ってみるが、彼女は炎を恐れない。リュカオンの時もそうだったが、やはり幻獣には普通の獣の常識が通じないらしい。
ならばとアリアは次に氷の礫を降らせ、それらを次々に高温の炎で弾けさせる。
間を置かず連続して魔法を繰り出し、相手に駆け出す間を与えない。
しかし、そんな芸当も長く続けられるものでは無い。
無綴無唱の魔法とは言っても、頭の中で正確に思い描かなければ狙った事象は起こせない。
そしてそれを連続して行い続けることには、相当な負担が掛かる。
そもそも、魔法は体内の力を消費して実行するものだ。無駄を排したとて、使い続ければその力はやがて枯渇する。
故にアリアは、魔法を使えなくなる前に決着を着けねばならない。
この場合の「決着」とは、大別すると二つ。
ニーナを正気に戻すか、殺すか。そのどちらかだ。
彼女に全滅させられる決着は存在しない。アリアが決して認めない。
しかしニーナを正気に戻す選択肢について、アリアは現状策を持っていない。
正確には、策を実行するために必要な時間を稼げない。フレアにそれをやらせるにも、結局伝授している時間が無い。
そうなるともう、あとはフレアの土壇場の力に頼らざるを得ない。
アリアとしては少々癪だが、一段一段踏み締めて高みへ上る彼女と違ってフレアは一気に飛躍することがある。
それを今ここでやってもらうしかない。
それで駄目なら、止むを得ない。
アリアは抑え込むことを止めて、全力でニーナを殺す。それで終いだ。
リンドには恨まれることになるだろうしこの先へ進むための大きな力を失うのは痛手だが、アリア自身が倒れてしまっては意味が無い。
故に最悪の場合は、アリアが終止符を打つ。最悪の場合は。
「……期待に答えなさい。フレア・クリストン」
呟き、アリアは眼前に立つ少女も見据える。
「あなたもよ、ニーナちゃん。その中で助けを待っていないで、あなたもちゃんと抗いなさい……!」
「ぐうゥ……!」
とユニコーンの低い呻きが聞こえる。
アリアとしては、それを返事と受け取るしかなかった。
そしてまた、ユニコーンは襲い掛かってくる。
アリアはそれを往なす。「その時」が迫るのを身体で感じながら。
どの道、ニーナの身体も長く持つまい。
常人を遥かに超える脚力で、衝撃を起こすほどの速さで駆けているのだ。
多少の怪我ならばすぐ治るだろうが、手足が捥げでもしたらまた生えてくることは無いはずだ。
そも、彼女の中で起こっていることを正確に推し量ることはできないのだ。先の猪のように破裂することは無い……とも言い切れない。
何にせよ、決着は近い。
ユニコーンが夜空に高く跳び上がり、アリア目掛けて落ちてくる。
即座に横跳びして躱すが、どんとユニコーンが振り下ろした拳……もとい前足は石敷きの道を砕き大地に罅を入れた。
飛び散る石の破片を風で逸らしてから、すぐにアリアは地面に突き立てられたユニコーンの前足を氷で包み込む。だが彼女はそれを即座に砕いて、また向かってくる。
突進してくるユニコーンを再び風で逸らして―――、とそこで空気の流れが変わった。
ユニコーンが駆けた後を追うようにして起こる風が、地面にすっと線を引く。
危険を感じたアリアが横跳びすると、彼女のスカートの一部がすぱっと裂けた。
そして着地した瞬間、ずきりと彼女は痛みを感じた。
まるで鋭利な刃物にでも変わったかのようなその風は、脚にも届いてしまったらしい。
思わずアリアは片膝を突く。だが、休んでいる暇など無い。アリアは行き過ぎ振り返ろうとしたユニコーンの横っ面に礫をぶつける。それで勢いよく方向転換しようとした彼女の身体が飛んだ。
しかし、それで片が付くはずも無い。
故に、アリアは悟った。
「……ここまでね」
脚を負傷したのは不覚だったが、そうした想定外も含めて概ね設定した時間通りだった。
氷は、もう解け切った頃だ。
「フレア、―――時間切れよ」
言いながら、起き上がってこちらへ駆け出そうとするユニコーン……ニーナに、右手を差し向けた。
だが、彼女は突っ込んでこなかった。そうせずに、その首を別の方へ巡らせる。
それでアリアは、状況を理解する。
ユニコーンの視線を追うと、そこにはフレアが敢然と立っていた。




