65.魔女と魔人
壁の穴から覗く屋外の景色は、もう大分暗闇に包まれている。
その暗がりの中に、熊の怪物は二足で立っていた。
こちらへ向けられたその鋭い目は、暗い景色の中で光っているように見える。
「赤髪の女……、やっぱりな。あの時の鬱陶しい魔法人だ」
「カリスト……!」
怪物が喋ったが、フレアは既にそれを知っているようで熊の魔物の名を口にした。
「あなたの知り合い?」
「知らないわよアレが何かなんて! 前に港町でいきなり襲ってきたのよ!」
アリアの問いにそう返して、フレアは魔法を綴り始める。
彼女の右の掌がぼうと淡く輝きを漏らし出した。
「おい、あのチビはどこだ」
と怪物は問うてくる。
「俺はアレと戦いてェんだ。お前は引っ込んでな」
「引っ込むのはあんたの方よ。魔物のお客なんてお呼びじゃないわ。この家に入ってきたら、また火傷することになるわよ……!」
フレアが綴りを終えた右手を差し向けながら言うと、怪物はくっと笑みを漏らした。
「何? 何が可笑しいのよ」
フレアが鋭く声を飛ばすと、怪物は吹き出して高らかに笑い出す。
そんな怪物に代わって、別の声が彼女の問いに答えた。
「そいつは客じゃない」
そのクロノの声に、フレアは頷きを返す。
「ええ、勿論です。そもそも町に入ってる時点で―――」
「あぁいや、そういう意味では無く……。ここが、そいつの家なんだ」
彼の言葉に、フレアが眉根を寄せた。
「何を言って……」
「つまりそこの熊の魔物の姿をした彼は、あなたのご家族ということですか?」
アリアが問うと、クロノは「そうだ」と首肯した。
「私の息子だ。バスク・パーニャ。―――因みに幻獣の力を宿した人間のことを、私は魔物と区別して『魔人』と呼んでいる。以後そのように認識してくれると有難い」
「魔人ですか……なるほど。理解しましたわ」
彼女が冷静に言葉を返す一方で、フレアは茫然と怪物……もとい魔人バスクを見つめていた。
「……嘘でしょ? この魔物が、息子って―――」
と呟いてから、彼女ははっとして弾かれたようにその視線をクロノに向ける。
「あなたは自分の息子にまであんな魔法を使ったんですか!?」
その語気荒い声に、しかしクロノは淡々と言葉を返す。
「バスクが望んだことだ」
「望んだ? そんなわけ―――!」
「そうさ。俺が望んだんだ」
とそこへバスクの声が割って入った。
低く唸るような声だが、感情を抑え紡がれる言葉ははっきりと聞き取れる。クロノの年頃から考えると、フレアと同年代くらいだろうか。
熊のようなその姿では、感情も年齢も外見から推測するのが難しかった。
バスクは、さらに言葉を継ぐ。
「母さんの時は上手くいかなくて、病に勝つ身体を手に入れられなかった。だから俺が代わりに実験を成功させて、父さんの研究の正しさを証明しようと思ったんだ」
「そんな……。そんなの、おかしいわ! 間違ってる!」
とフレアはそれを否定した。
するとバスクは、首を傾げる。
「間違ってる……?」
「そうよ! こんな研究じゃ人を救えない! あなたのお母様だって、こんな研究の実験台になることなんて望んでなかったんじゃ―――」
「黙れッ!」
とバスクが叫ぶ。
その叫び声は、獣の咆哮に近い。
「お前に何が分かる!? 勝手なことばかり―――」
「分からないわよっ!」
とフレアも叫び返した。
「でもあんたのお母様は、あんたたちのことを思って何も言わなかったのかもしれないでしょ!? 近しい人が誰も否定できないのなら、私がそれを否定するわ!」
「てめェ……、ぶっ殺してやる」
殺意に満ちた怪物の視線を受けて、フレアは一瞬怯む。
だが、すぐに自身を奮い立たせるように声を上げた。
「やってみなさい! 私が返り討ちにしてあげるわ!」
「フレアさんじゃ、ぶっ殺されちゃうと思いますけど」
フレアが言い放った言葉を、その背後から別の声が打ち消す。
それで彼女は不満げに後ろを振り返るが、実際自信が無かったようで反論はしない。
代わりに状況を説明する。
「ニーナ。聞いて、あの魔物は―――」
「あァいいです。騒がしかったので、大体聞こえてました」
フレアの言葉を途中で遮って、ニーナはその前へと進み出た。
耳が良い……というのは確かだが、恐らくこちらが気になって耳を攲てていたのだろう。
「つまり、あいつをぶっ倒せば良いんですよね?」
「それはちょっと端折り過ぎでしょ……」
「おいチビ、待ってろ」
とそこへバスクが声を向けてくる。
「お前の前に、その女をまず殺すんだ」
「うーん、気持ちは分かりますけど」
言いながら、ニーナは身体の準備を整えるようにぴょんぴょん跳ねる。
それから瞑目して一度深呼吸すると、目を開いて冴え冴えとした瞳をバスクに向けた。
「……私の温かいもの、あなたなんかには渡したくないですね」
「てめェ、あんま調子に乗ってると―――」
「だから、私も言ってあげますよ」
バスクの威圧的な声を物ともせずに、ニーナは言い放つ。
「下らない研究に乗っかっちゃっいましたね、あなたも。―――私も」
「……ッ!」
バスクがぎりと歯を食いしばった。
それとほぼ同時に、ニーナが地を蹴る。大して広くない部屋の端から端までの距離を詰めるのに、彼女はその一蹴りで十分だった。
すぐに怪物の懐に飛び込んだニーナは、その腹に膝蹴りを食わせる。それで「ぐう」という呻き声を上げて、バスクは月が照る外へ跳び退いた。
ニーナもそれを追って外へ飛び出す。
「待って、私も―――」
「やめておけ」
とクロノが、ニーナを追おうとするフレアを制した。
「魔人同士の戦いにお嬢さんが入っていっても、何もできはしない」
「魔人……? あそこにいるのは、あなたの子供なんでしょう!?」
フレアは声を荒げる。
「自分の子供が怪我するかもって時なのに、どうしてあなたは―――!」
「ニーナの中にいるものが、また目覚めるかもしれない」
としかしクロノは、平然と言葉を返した。
「それをニーナも望んで、ここに来たんじゃないのか?」
「それは……」
「あの子の中には、何がいるのですか?」
アリアが問うと、クロノはふっと得意げに笑みを漏らす。
「―――ユニコーンだ」
「ユニコーン……」
「そう、正真正銘の『幻獣』だ」
そう言って、彼は熱弁を振るい出した。
「私がこれまでに生み出してきた他の幻獣には、基礎となる動物があった。カリュドンなら猪、リュカオンなら狼だ。―――だが、ユニコーンは別格だ。馬に近い姿とされてはいるが、単純にその特徴が強化されたものとは違う。だからアレを魔法書に記すのは難しかったんだ」
「そしてその力を宿すべき適当な動物を探すのにも、苦労されたわけですね」
アリアが静かに言うと、彼は大きく頷く。
「『魔物』として生み出すことも難しい。―――だがニーナは、奇跡的にそれと適合した」
彼の目は、バスクと激しくぶつかり合うニーナに向けられている。
まるで神の御姿でも目の当たりにするかのように、その目は眩そうに細められていた。
「まだ生み出せた魔人は三人だが……、ニーナは間違い無く私の最高傑作だ」
「『最高傑作』……!?」
とフレアはその単語に反応するが、アリアは別のことが気になった。
「もしかして、三人目は現魔法王マーシャル・イージスですか?」
「ああ、その通りだ」
とクロノはその問いに首肯して答える。
「七年前には『カリスト』のバスク、五年前には『ユニコーン』のニーナ、そして三年前には『ネメア』のマーシャルを生み出すことに成功した。―――あのマーシャルという男は自分から訪ねてきて、力を寄越せと言ってきたんだ」
「ネメア……。獅子の幻獣ですね」
「ああ。その力で、あの男は魔法王にまでなったわけだ」
彼は誇らしげに語った。
「マーシャルの時には、もう大分やり方も確立できていた。均衡がとれる血の割合もある程度見えてきていたんだ。バスクのように獣の姿をしていたなら、あの男が魔法王になることは無かっただろうな」
「ニーナちゃんも、人の姿を保っているようですけれど」
アリアが言葉を返すと、彼はにやりと笑む。
「そうだ。それがまた素晴らしい。彼女は奇跡的に、どちらにも振れるぎりぎりのところで調和しているということだ。これは狙ってできることじゃない。だからこそ、やはりニーナは私の最高傑作―――」
とそこへ、ニーナが転がり込んできた。
撥ね飛ばされてきたらしい彼女は、部屋の壁に身体を打ち付けて止まった。
「ニーナっ!」
「―――聞いたぞ」
駆け寄るフレアを余所に、部屋に空いた穴の外からバスクが低い声を出す。
「お前が、『最高傑作』なんだな」
「知りませんよ」
バスクの声に、ニーナは溜息交じりに答える。
だが彼は、彼女に問い掛けてなどいないようだった。
一人喋り続ける。
「お前が『最高傑作』なら、尚更徹底的に壊してやる。そうして俺が最強だと示す……!」
「八つ当たりじゃないですか……、馬鹿みたい」
言いながらそれでも彼女は立ち上がり、眼前の怪物に向かってナイフを構える。
「ニーナ、無理しないで―――」
「手を出さないでください」
支えようとするフレアを払い除け、ニーナは前進する。
「もう少しで、踏み込めそうなんです……!」
そう口にする彼女の目は、手にしたナイフの刃先のようにぎらついていた。
そしてその目にフレアが怯んでいる内に、彼女はまたバスクに向かって突っ込んでいく。
「ニーナっ……!」
「フレア、落ち着きなさい」
駆け出そうとするフレアにアリアが声を向ける。
すると、彼女から鋭い視線で射抜かれた。
「嫌な感じがするのよ! このままだと、ニーナが……!」
彼女が感じているものは、アリアにも多少は理解できる。
だがそれは必要な過程だと、アリアは判断していた。
「危ない橋も渡らずに、安全に向上することはできないわ。あの子も、私たちも」
「でも……!」
とフレアは、部屋の外へ顔を振り向ける。
その視線の先では、ニーナが再びバスクとぶつかり合っていた。
周囲を素早く跳ね回りながら、彼女は時にその手のナイフで時に強靭な脚でバスクを切り付け蹴り付ける。
だが、バスクもそれらを躱し撥ね除けていた。
この魔人同士の戦いにおいて、ニーナが怪力で優位に立つことはできない。同じ怪力持ちなら、寧ろ体格で勝るバスクの方が優位に立っていると言えた。
怪力―――即ち幻獣の力についても、その姿からしてバスクの方が引き出しているのだろう。ニーナの中に宿る力がどれだけ強力なものであったとしても、それが奥底に仕舞い込まれているのであれば意味は無い。
「あなたもこんなことやめさせてください!」
声がした方を見やれば、フレアがクロノに詰め寄っていた。
「バスクは港町でもユニコーン……『最高傑作』を探してました。ずっと探してたんじゃないですか? それを壊して自分があなたにとっての一番になるために! つまりあなたが彼を認めてあげれば―――」
「私の研究において、一番の成果は間違い無くニーナだ」
としかしクロノは淡々とそう述べる。
そしてさらに言葉を継いだ。
「あの戦いをやめさせる? 駄目だ。あれはニーナの再びの目覚めを促すはずだ。縦しんばそれが上手くいかなかったとしても、バスクの魔人としての成長には繋がる」
「彼らを何だと思ってるんですかッ!」
とフレアが怒りを露わにして叫ぶ。
「彼らはあなたの実験動物なんかじゃ―――!」
彼女がそう声を荒げた時、部屋の外からどんと建物が崩壊するような激しい音が飛び込んできた。
ばっとフレアが外へ顔を向ける。すると、さらにどどと瓦礫が崩れる音が響いてくる。
「ニーナ……!」
フレアが外へ向かって駆け出す。
アリアもその後を追った。
部屋の穴から外へ出ると、さっと冷たい風を肌に感じる。
すっかり日が落ちた夜の廃墟を見渡すと、崩れた家々の間に立つバスクの姿を見つけた。
そしてその彼の視線の先では、瓦礫の中に減り込むようにしてニーナが倒れていた。
「ニーナっ!」
「……大丈夫ですよ」
フレアの大きな声に彼女は反応し、重そうな瓦礫を軽そうに払って立ち上がる。
しかし無傷に見えるバスクに対して、ニーナの身体には明らかにいくつもの傷が刻まれていた。やはり分が悪いらしい。
それでも、彼女は援護を求めない。
「手は出さないでくださいよ。もう少しなんです……、もう少し」
「でもあんた―――」
「リンドさんを、追いかけたいんです」
フレアの声を聞かずにニーナはそう言い、バスクに向かって歩み出す。
そしてその歩みは、徐々に速くなっていく。
「リンドさんと、もう一度一緒に戦いたいんです。……だから、」
と言って、彼女は駆け出した。
「そのために私は、何にだってなるっ……!」
「偽物の最高傑作なんて、俺が叩き潰してやるッ……!」
対するバスクも、ニーナに向かって地を蹴った。
一気に接近した二人は、その手を高速で繰り出し合う。
ニーナが右手でナイフを振り、左の拳を打ち出す。
バスクが両手の鋭い爪を振り回す。
小さな拳が太い腕を弾き、ナイフを鋭利な爪が撥ね除ける。
攻と防とが激しく入れ替わり、僅かな打ち漏らしが互いの身体に傷をつける。
だが、押されるのはやはりニーナだ。
バスクの傷が増える速度よりも速く、彼女の肩や腕には鋭い爪によって次々と傷が刻まれていく。
さらに、きんと無機質な音を立ててナイフが撥ね飛ぶ。
弾かれてニーナの手から離れてしまったのだ。
勢いよく飛んだナイフは、アリアたちの傍の地面にとすと突き刺さった。
引っ搔く「爪」を失ったニーナは、唸りながらそれでも拳を素早く打ち出し続ける。
しかし傷はさらに一方的に彼女が負うばかりになってきた。
それでも、ニーナは退かない。
「うぅぅ……、ああァァっ!」
雄叫びを上げながら、その拳をただ只管に高速で打ち続ける。
そんな彼女の頭の傍で、何かがきらと光ったように見えた。
「ニーナ……、もう見ていられないわよ―――!」
「フレア待って」
魔法を綴り出すフレアを制して、アリアは目を凝らす。
そこへフレアがじろっと視線を向けてきた。
「こんな状況でも手を出すなって言うの!? もうこれ以上はっ―――!」
「見て」
とアリアは、静かに言う。
「何かが、始まったわ」
「何かって何よ?」
「目覚めだ」
とそこへ、クロノがやってきた。
その目は興奮に見開かれている。
「ユニコーンの、目覚めだ」
彼の言葉とほぼ同時に、ニーナの頭の傍で起こった煌めきが増大していく。
それは、純白に染まる髪だ。
正確には、純白の髪が急速に伸びてきていた。
それは夜の闇の中で、微かな月明かりを反射して光っているように見える。
白の輝きが増すごとに、バスクの身体が揺れる回数が増えていく。
ニーナの拳が当たり始めたのだ。即ち、彼女の手数がバスクの手数を上回り始めたということだ。
「っ……!」
バスクがじりじりと後退し始める。表情は分かり難いが、恐らく状況の変化に焦っているはずだ。
そして、彼は遂に後方へ跳んで距離を取った。―――そのはずだった。
だが、跳び退いたはずの彼の目の前には、もうニーナがいる。
「どうなって―――!?」
思わず声を上げかけたバスクの脇腹に、ニーナの高速の回し蹴りが打ち当たった。
その威力たるや。バスクの身は一瞬で遠方に飛び、次の瞬間には撥ね飛んだ大量の瓦礫だけが見えた。彼の姿はもう見えない。崩れた家を二、三軒打ち抜いてしまったらしい。
「……ニーナ?」
愕然とした表情のフレアの声に、彼女は振り向く。
毛先の方だけが黒色の純白の髪を腰まで伸ばした彼女がこちらへ向ける瞳は、青紫色に変わっていた。
ユニコーンの魔人ニーナが、覚醒したのだ。




