64.魔女と研究者
見渡す限り荒廃した景色が広がる研究者の町。
その南西にある門から町へ入ったアリアたちは、突然姿を現した男に付いて瓦礫の山を越えながら北東方向に歩んでいた。
道は残っているが、倒壊した建物の砕片が掛かっているお陰で真面に通行できない。
故に前を行く男も、ごく自然に慣れた足取りで町を直線的に進んでいった。
そうして暫く歩いていると、その先に一軒の家屋が見えてきた。―――と言っても、無傷の見るからに頑強そうな建物が目に入ったわけでは無い。
その石造りの家も倒壊こそしていないものの、部分的には損壊が見られた。それでもその家屋が目に付いたのは、損壊した箇所が雑にではあるが補修されていたためだ。壁の穴には石が詰められ、屋根が無くなっている所には鉄板が載せられている。それで家の強度が保たれているのかは怪しいが、人が住まうために手を加えていることだけは間違いない。
そしてアリアの予想通り、男はやはりその家の戸を開いて中へ入った。ニーナを先頭にアリアたちも中へ入る。
屋内も酷い有様だった。ただここで言う「酷い有様」というのは、建物の損壊とは関係が無い。
物が散乱しているのだ。中でも一番多いのは、何やら書きつけられた質の悪い紙。それが狭い部屋の壁際に並ぶ机から雪崩落ちており、足の踏み場も無い状態だ。
そんな惨状を前にフレアが顔を引き攣らせるが、男は紙束を踏みつけ時に蹴飛ばしながら奥へと進む。
「踏んで構わない。その辺りの資料は大したものじゃないから」
「だったら処分しなさいよ……」
男の言葉に、フレアが小さな声で呟くのが聞こえた。もちろん男の耳には届いておらず、彼は壁際の机まで行くとその上からさらに紙束を床に落として乱暴に一部を空ける。
もしフレアの声が聞こえていたとしても、その行動が変わったとは思えないが。
男の粗雑さにフレアが引く一方、ニーナは気にせず部屋にずかずか踏み入っていく。そしてどこからかエールとマグを引っ張り出してきて机上で注ぐ男の傍へ行った。
「マグも椅子も二つしかないんだ。我慢してくれ」
「私は結構です」
古びた木製の椅子を引き摺ってきた男に、フレアが一番に言う。
そしてアリアとニーナとを見やった。
「二人が使って―――」
しかし彼女がそれを言い終わる前に、男が椅子の一つに掛けマグに口をつけてしまった。
「……」
フレアが呆れ交じりの視線を向けても、男の横柄な態度は変わらない。どうもこの二人の相性は悪そうだった。
「ニーナちゃんが座って」
とアリアは残った椅子をニーナに勧める。
「あなたがこの方にお話があるのでしょう?」
「……別にこの人に何か訊こうと思ったわけでは無いです」
そう返しつつ、それでもニーナは椅子にちょこんと座った。
それを確認してから、アリアは男に問う。
「ところで、自己紹介がまだでしたね。私はアリア。こちらが妹のフレアです」
「家名はクリストンだな」
即座に返してきた男に、アリアはふっと笑んで肩を竦めた。
「あら、見抜かれていましたか。ご推察通りクリストンです」
「推察なんて言うほどのものじゃない。ニーナが一緒とは言え、ただの純人が魔法王国に渡って来られるわけが無いと思っただけだ。魔法人なら、王国に入ってしまえば誤魔化しも利くだろうしな」
男は謙遜というわけでもなく、本当に大したことが無いというように淡々と語る。
そしてエールを一口呑んでから、ようやく名を名乗った。
「俺はクロノ・パーニャ。見ての通りここで魔法の研究をしている。『魔女』に会えて光栄だ」
そう言う割に男―――クロノは姿勢を正すことも無く、態度が伴っていない。アリアとしては崇められても却って迷惑なので、その方が有り難いのだが。
「どうしてこんなところで研究を?」
フレアが問うた。
「そもそもこんなところに『研究者の町』なんてものがあるのもおかしいとは思いますけど……、魔法はこの国の中核ですよね? その研究なら、魔法王都の近くでもできるのではないですか?」
「―――お嬢さんはこの町のことをよく知らないんだな」
クロノはそう言って、その気怠げな目をアリアに向けてくる。お前なら知っているだろうと言うように。
アリアはその視線に応えるように口を開いた。
「この町は王国の魔法研究とは無関係よ。あなたの言う通り、王国のための研究は魔法王都で行われている。だからこの町は『研究のために作られた』のでは無くて、『研究者が集まってできた』町だったのよ」
「なら、それがどうして『だった』になったの?」
フレアの質問に、今度はアリアがクロノの方を見た。問いの答えを推測はできるが、正確なところは住人に訊かなければ分からない。
アリアの視線を受けて、彼はその答えを口にした。
「端的に言えば、自由に研究ができたからだ。研究者たちが好き勝手に研究した結果として、町が町の体を成せなくなったというだけの話だ」
「何よそれ……」
とフレアは呆れ交じりに言うが、アリアとしては十分に納得がいく話だった。制約の無い研究者に、一般的な善悪の概念は無い。その「一般的」を疑うことに生き甲斐を見出す人間なのだから。
そうした感覚は、アリアの中にも少なからず存在していた。
「それで、あなたはどんな研究をしているんですか?」
フレアがまた問うと、クロノは暫し考えるような間を取ってから答える。
「―――回復と強化、だな」
「回復と強化……!?」
とフレアは大きく目を見開いて、その言葉を繰り返す。思いの外彼女にとって興味深い回答だったのだろう。
「え、それって……、怪我を治したり運動能力を高めたりするってことですか?」
「ああ、そうだ」
とクロノは答え、椅子の榻背に深く身を預けた。
「妻が治らないとされる病を患ったんだ。それでその病を治そうと思って、そういう研究を始めた。もう、十五年も前の話だ」
「え? 奥さんがいるんですか……?」
フレアが素っ頓狂な声を漏らす。彼が結婚していることに大分驚いたらしい。
しかしその声に、クロノは首を横に振って見せた。
「もう死んだ」
「あ……、ごめんなさい」
「別にいい。もう七年前のことだ」
詫びる彼女に、クロノは淡々と言葉を返す。
「それにあの時は力不足で失敗したが、今は成功例も増えてきたんだ」
「回復魔法が、できたんですか……!?」
とフレアが顔を上げ、やや前のめりになって訊いた。
その力に、自分が強くなる可能性を見出しているのかもしれない。
「あ! もしかしてニーナも、この人の強化の魔法で強くなったってこと!?」
「……まあ、そういうことです」
熱のこもるフレアの声に対して、ニーナの声は対照的に静かだった。
胸張って自慢しそうな場面だが、そうしないのには理由があるはずだ。フレアはその違和感に気付いていないようだが。
「あの! 私にも、その強化と回復の魔法を教えてもらえませんか?」
ここに来てすぐの時とは打って変わって、フレアは真摯な姿勢でクロノに頭を下げる。
「魔法王国の人間であるあなたに頼むなんておかしいことは分かっています! でも私は、私たちは魔法王を殺そうと思っているわけじゃないんです! 力は正しく使うつもりで―――」
「別にそんなことはどうでもいい」
と彼はフレアの声を遮って言った。
「だがきっと、お嬢さんが望むものでは無い。……それでも知りたいと言うなら、見せよう」
「フレア、」
「お願いします!」
アリアが忠告する間も無く、フレアは頭を下げる。そしてちらとこちらに視線を向けた。
「アリアの真似でない私のやり方って、こういうことでしょう?」
「これはクロノさんのやり方よ」
とアリアは即座に返す。
「そして恐らく、あなたには向かない」
「私には向かない向かないって、そればっかりじゃない!」
と彼女はやや苛立った様子で言葉を向けてくる。
「向く向かないは、私が自分の目で見て決めるわ」
「……話は済んだか?」
クロノの声にフレアが「はい」と答えると、彼は席を立った。
「それなら、奥へ行こう。丁度一つ実験の準備をしていたところだ」
言って、彼は部屋の奥にある戸を押し開けそこへ入る。
フレアがすぐそれに続いた。
「―――あなたは行かないの?」
アリアは、未だ椅子に掛けたままのニーナに問いかける。
その問いに、彼女は静かに頭を振って答えた。
それでアリアは彼女を部屋に残して、クロノたちを追った。
奥の部屋へ入ると、そこは打って変わってがらんとしていた。
物が無いわけでは無いが、それらは部屋の片隅に置かれ中央はぽっかり空けられている。
生活感の無い部屋だった。
しかし何よりの問題は、部屋の奥の壁に大きな穴が穿たれていることだ。
お陰でひんやりとした風が中へ吹き込んでおり、屋外と変わらない空気を感じた。
「もう外でやっても良いんだが、」
とクロノが言う。
壁の穴を見てぽかんと口を開けているフレアに気付いたためだろう。
「ここの方が落ち着くんだ」
「はあ……」
とフレアが不可解そうに声を出す。
「でも、壁くらい直した方が良いんじゃ……」
「どうせまた壊れる。雨風は向こうの部屋で凌げるし、ここはこれくらいで良い」
言いながらクロノは部屋の片隅へ移動して、そこにある大きめの箱状のものに掛かっている布を取った。
布に覆われていたそれは檻だった。中には、眠っているのか動かない猪がいる。
「それは?」
「近場で捕えさせた猪だ。今は気を失わせている」
フレアの問いに、彼はそう答えた。
やや気になる点はあるがアリアが黙っていると、その間にクロノは檻を穴が空いた壁の傍へ動かす。
それから右手をすっと上げ、その人差し指で魔法を綴り始めた。それに合わせて、掌の龍印が仄かに赤く輝き出す。
「それが回復……、いえ強化? の魔法ですか?」
フレアが尋ねるが、クロノは答えない。黙って集中した様子でその指を動かし続ける。
アリアが知る魔法書に記されている魔法よりも、やや長い綴り。
それが終わると、クロノはその右手を静かに開く。
そして詠唱した。
「―――エボルショーネアパルマ」
「エボル……、猪?」
「猪の進化ね」
聞き取りが不十分なフレアにアリアが補足する。するとちろりとフレアが視線を向けてきた。
だが、彼女の口が文句を吐くことは無かった。
ぎいとけたたましい獣の叫び声を不意に聞かされたからだ。
「何っ―――」
ばっとフレアが声のした方―――猪の入った檻を見る。
アリアも同様にそちらを見やれば、檻の中の猪がまた激しく鳴いて鉄格子に体当たりしていた。がんと鉄の檻が音立てて少し動く。
暴れる猪は、若干大きくなったように見える。
そう思った次の瞬間にはその獣がぶるっと震え、ぼこぼこと確実に体が肥大化していく。
牙も長く鋭く発達して、その目はかっと見開かれたように見えた。
そして猪はその巨大化する体と牙とで、遂に鉄格子を破壊した。
「クロノさん! コレどうなってるんですか!?」
魔法を構えるフレアは、未だ壊れた檻の傍に立つ彼に声を向ける。
「とにかく離れてください! 危険です!」
しかしその声に応じること無く、彼は目の前で唸る猪を見上げていた。
そんな彼を前に猪……否、もう第一世代の魔物と呼ぶに足るそれは、地響きのような叫び声を上げる。
そして、―――弾け飛んだ。
急速に増大する肉を外側の皮が覆い切れなくなったかのように、カリュドンは破裂したのだ。
「……え?」
フレアが茫然とした顔で声を漏らす。
彼女の眼前で、檻の上に掛かっていた肉塊がべちゃと床に落ちた。
壁にも天井にも、赤い血がべっとりと張り付いている。そしてフレアの身にも、その一部が降りかかっていた。
魔法を放とうと構えた右手も、赤く染まっている。
その手を見下ろした彼女が、目を見開く。
そして気分悪そうに逆の手で口元を押さえると、よろりと壁に凭れかかった。
「失敗だ」
と血塗れのクロノが呟く。
「やはり中々成功しないな」
「今のが『回復魔法』ですか?」
血で汚れたフレアに魔法で生成した水を掛けてやりつつ、アリアは問う。
彼女自身は降りかかる肉塊を直前に起こした風で防いだため、一切血を浴びていなかった。
「無綴無唱の魔法か。見事だな。私にもその水を寄越してくれないか?」
「質問に答えて頂けますか?」
彼にも水を降らせて、アリアは再度問う。
すると彼は濡れた髪を掻き上げながら答えた。
「これが強化魔法であり、回復魔法だ」
「こんなものが回復魔法なわけないでしょう!?」
とそこにフレアが割って入る。
その声には、強い怒りが込もっていた。
「回復どころか破壊してるじゃない! それのどこが回復魔法だって言うんですかっ!」
「……少し、お嬢さんの勘違いを正しておこう」
クロノは対照的に落ち着き払った声で言う。
「今の魔法で回復するわけじゃない。あれによって肉体を強化し、高い回復力を得るんだ」
「あの猪に何を注いだのですか?」
「カリュドンだ」
アリアの問いに、クロノは淡々と答える。
「神話でしか存在が語られない幻獣……もしそれらが実在するのだとすれば、血肉の一片でも宿せばその生物は大幅に強化されるのではないか。そういう仮説を立てて、私は魔法書の中に幻獣を再現しようとしてきた。魔法書ができれば、あとはそれを生物の中に生成するだけだ。―――そして私は成功した。お嬢さん方が先に見たリュカオンも、その成功例の一つだ」
「あんな化け物にして回復も何も無いでしょう!」
フレアが語気荒く声を飛ばした。
「強化だ回復だなんて言ってもこんな魔法は人になんか、……待って」
そこで思い至ったのか、フレアは勢いを失い青褪める。
「この町で奴隷が買われるのは珍しくないみたいだった……。まさか、それを買ってるのって―――」
フレアの震える声に対して、クロノはふうと息を吐きながら壁に背を預けた。
そして静かに口を開く。
「……もちろん、実験の前には同意を得る。得られなければ帰す。ただ、多くの奴隷は同意する」
「何てことをしてるの!? こんな非人道的なことを―――」
「奴隷の多くは、力を持たない」
フレアの非難を聞くこと無く、クロノは一人語った。
「力を持たないが故に奴隷として売り買いされている。だから彼らは、縦え危ない橋でも力を手にするために渡るんだ。そうで無ければ生き長らえたとしても、一生を奴隷で終えることになるからな。お嬢さんには、分かるまい」
「あなたにだって分かるわけがないでしょうッ!」
「ああそうだ。私も私の立場でしか語れない」
フレアが鋭く言葉を飛ばしても、クロノは淡々と返す。
そしてさらに言葉を継いだ。
「同じ立場の人間に意見を聞きたいのなら、そうすれば良い。お嬢さんの傍にもいるだろう」
「私の、―――傍?」
フレアが、目を見開く。
そして何事か言おうと再び口を開いた、その時。
外から、どんと地を打つ音がした。
アリアが視線を壁に空いた穴の向こうへ向けてみれば、そこには二本足で立つ熊の姿があった。




