63.魔女と果ての地
魔法王国に入って最初の村で一夜を過ごしてから、十日経った。
境界の街から、実に十一日。王国最東端に位置する「研究者の町」にはもうすぐ辿り着けるはずだ。
幸いにして、その間追手と戦う場面は無かった。
その事実を顧みれば、「幸い」と言うのは不適当かもしれない。「運良く見つからなかった」のではなく、「相手が探さなかった」可能性があるということだ。
闇雲に探すよりも、魔法王都や境界の街に兵を集めて迎え撃つ方が効率的と考えているのかもしれない。それにこの国は革命からまだ二年ほどしか経っていない。新たな王にとって、敵はアリアたちだけで無いのだ。安易に兵を撒くのは危険という判断もあったのかもしれない。
飽くまでアリアの推測に過ぎず本当のところを知る由は無い。だが現魔法王マーシャル・イージス配下の指揮者が優れた人物であることは先に境界の街で聞いた指揮から窺えるので、深く情勢を読んで策を講じているのは間違いないだろう。
何にせよ、お陰でアリアたちは最小限の労力でここまで来ることができた。
アリアに手綱を引かれる彼女たちがどうだったかは、分からないが。
「研究者の町はまだなの……?」
もう何回目になるか分からないその台詞を疲れた息と共に吐き出すのはフレアだ。
村や町の宿で休息しながら進んできており肉体的な疲労はそこまで蓄積していないはずだが、げっそりして見えるのは慣れない奴隷役を演じてきたからだろう。精神疲労というわけだ。
しかし彼女の隣を歩くニーナの方は、平然としていた。
「もうすぐじゃないですかね?」
枷を塡められた状態でごく自然に受け答えするその姿に、アリアは逆に違和感を覚える。
そんなアリアの内心を余所に、ニーナは大きな目を見開いて行く先を見つめた。そして「あ」と声を漏らす。
「見えました」
「え、どこ?」
フレアが目を凝らす。
そして、眉根を寄せた。
「……もしかして、遠くにぼんやり見えてるアレ?」
「そです」
「よく見えるわね。ニーナちゃんは目が良いのね」
感心するアリアの視界の端で、フレアは「まだ遠いじゃない……」とげんなりしていた。
しかし立ち止まっていても、町の方から近づいてきてくれるわけでもない。
フレアとてそれは分かっているのだ。故に不平は口にするが、決してその足を止めることは無い。
そうして、さらに歩くこと暫し。
薄雲がかかる空の上で日が傾き始めた頃になって、アリアたちはようやく研究者の町を目の前に見ることができた。
「……何これ」
フレアが愕然とした様子で呟く。
眼前に大きく損壊した門を見たためだろう。
そしてその壊れた門から覗く中の光景も、とても「町」とは言えない酷い有様だった。
抉れた地面と、倒壊した石造りの家屋。
所々に散らばる白い破片は、石ではなく骨のように見える。
「言ったでしょう? 今は廃墟同然だって」
「そうだけど……」
とフレアはまだ驚きの表情が残る顔でこちらを見る。
「だって今も奴隷を買ってる人間がいるみたいだったし……、港町みたいに治安が悪いってことだと思ってたのよ」
その指摘は、確かにその通りだ。
アリアたちがここへ来るまでに立ち寄った町や村では、アリアが奴隷を研究者の町へ連れて行くことを不思議がる人間はいなかった。珍しくないことだからだろう。
だが奴隷を買う人間が暮らす町にしては、そこはあまりにも荒れ果てていた。
人が生活しているのかどうかさえ、怪しい。
「取り敢えず、あなたたちが奴隷のフリをする必要は無さそうね」
「て言うか、この町にいる意味あるの?」
フレアが溜息交じりに言う。
そして、傍らに首を巡らせた。
「ニーナ、折角来たけどこれじゃあ……」
言いかけるフレアの横を通り抜けて、ニーナはすたすたと町の門を通っていく。
いつの間にやら、手枷や首輪は壊されていた。
「ニーナ? こんな様子じゃ行っても―――」
「まだ分かりません」
そう返しながらニーナは町の奥へと進んでいき、外からでは姿が見えなくなってしまった。
「ちょっと待って、―――アリアこれ外してよ」
「ええ」
フレアの首輪と手枷を外してから、アリアたちもニーナの後を追って町へ入る。
しかし、その足はすぐに止まった。
「……嘘でしょ?」
声を漏らすフレアの視線の先で、一頭の魔物がニーナと対峙していた。
アリアを優に超える体長や異常に発達した爪や牙の様子からして、間違いなく魔物だ。それも恐らく、第一世代の。
「大狼……『リュカオン』と呼ばれるものね」
「そんなことより何で魔物が町にいるのよ!?」
「これだけ荒廃していて人の営みを感じられなければね。いても不思議は無いわ」
フレアと言い合っている内に、リュカオンはニーナに襲い掛かった。無論彼女はひょいと横跳びして冷静に躱すのだが。
「ニーナ、時間を稼いで! その間に私が―――」
「別に稼ごうってつもりも無いですけど」
声を上げるフレアにそう返して、ニーナは振り下ろされる爪の一撃をまた躱す。そして同時にナイフを抜くと、リュカオンの前脚を切りつけた。
ぶしと赤い血が噴き出し、狼の悲鳴が町に響く。
だがそれだけのことでリュカオンの動きは止まらない。すぐに逆の前足の一掻きがニーナに向かって飛ぶ。それを彼女が後方に跳んで躱すと、さらに鋭い牙で噛み付こうと踏み込んでくる。
しかしその牙も身を傾け捻るだけの最小限の動きで避けたニーナは、即座にナイフで切り返した。その刃がリュカオンの喉元に突き刺さる。
ぐぐとリュカオンがくぐもった呻き声を漏らした。
そして直後、それは激しく暴れ出す。
勢いよく振られた頭は、ニーナを撥ね飛ばした。それから地面に転げた彼女に向かってその獰猛な頭が向き―――。
「燃焼!」
リュカオンの行動を、フレアの叫びが止めた。
激しく燃え上がる炎が魔物の巨体を包み、それに悲鳴を上げさせる。
「もう一度っ……!」
とフレアはリュカオンが呻いて踠く間に次の魔法を綴る。―――そのはずだった。
しかし目の前の魔物は、そんな時間を与えてはくれなかった。
突然起こった炎に直後は驚いたリュカオンだったが、すぐにフレアの方をぎょろりと見ると真っ直ぐに突っ込んできたのだ。その身を未だ炎が焼いているにも関わらず。
「ちょっ―――、どうなってるの!?」
フレアが短剣を抜いて構える間にリュカオンは彼女に迫り、その前足を振り薙いでくる。
それを受け止めたのはフレアの短剣でなく、アリアが生成した鉄柱だった。
そしてほぼ同時に、ニーナがリュカオンの頭を蹴りつける。がんと派手な音が立ち、さすがの魔物も蹌踉めきながら後退した。
「……やはり魔物に獣の道理は通じないみたいね」
アリアは思わず呟く。
自然の個体では決して有り得ない体を持った魔物は、その内的構造にも破綻を来してしまうのかもしれない。そうで無ければ、今目の当たりにした異常な凶暴性を説明できない。
「ニーナっ!」
と叫ぶフレアの声で、アリアは思考を打ち切って意識を眼前に戻した。
「やめなさい! そんなことしなくてもその内焼け死ぬわ!」
声を上げるフレアの前で、ニーナは炎を纏ったままのリュカオンと闘い続けていた。攻撃を躱し、往なし、ナイフを振るって牽制するばかりか、燃え盛る巨体に跳び付いて刃を突き立てもしていた。
「ニーナ! やめなさいっ!」
「言葉だけでは、あの子を止められないと思うわよ」
アリアは隣から声を向ける。
それを聞いたフレアはぐっと歯噛みすると、ぱっとこちらを見た。
「足止めして」
「どちらの?」
「両方!」
その指示に「大変な役回りね」とアリアは肩を竦める。だがフレアはもう魔法を綴り始めていた。
それで止む無く、アリアは指示に従う。
唸るリュカオンの足を、地から生やした鉄の刃で釘付けにする。さらにそこへ突っ込んでいこうとしたニーナの足も、氷結させて地面に張り付けた。
「何するんですかっ!」
「ごめんなさいね。フレアの指示なのよ」
文句を付けてくるニーナに諸手を挙げながら返すと、アリアはちらと隣に視線をやった。
「フレア、あまり長くはもたないわよ。どちらも」
「大丈夫。もう準備できたから……!」
言って、フレアはその魔法を唱える。
「製鉄っ!」
その詠唱の直後に、天から大きな刃が真っ直ぐに落下してくる。
自重で勢いのついたそれは、そのまま一直線に釘付けになっているリュカオンの胴に突き立ちずぶりと貫いた。
があとこれまでで一番大きなリュカオンの叫びが周囲に響き渡る。びりびりと耳に届いてくるそれはまるで地響きのようだった。
それからリュカオンはずんと地に伏すと、それきり動かなくなった。ばたばたと大地を叩いていた激しい足音も無くなって、そこにはただ魔物の肉を焼く炎の音だけが残された。
「上手くいって良かったわね」
アリアが声を掛けると、フレアははあと疲れた息を吐き出す。
「……もうお腹ぺこぺこよ」
「丁度目の前で肉が焼かれているようだけれど?」
「絶対嫌。美味しくなさそうだし……」
そう返してからフレアは、その魔物の傍で立ち尽くしているニーナの元へ歩む。
ニーナは、やや剝れているようだった。
その身は服と同様にぼろぼろだ。重傷では無いものの、地を転げた時の擦り傷や火に焙られた際の火傷などがあちこちに見られる。
「どうして無茶したのよ」
問いかけるフレアに対して、ニーナはふいと外方を向いた。
それでもフレアは、言葉を向け続ける。
「リンドにも言われたんじゃないの? 自分を傷つけるような戦い方するなって―――」
「そのリンドさんと一緒に戦うために、私はもっと強くならなきゃいけないんです」
とニーナが、外方を向いたままそう言った。
それを聞いたフレアが、苦い表情を浮かべる。彼女もまた、ニーナ以上に強くならねばと思っているはずなのだ。
そんな彼女が、ニーナの意志を理解できないはずは無い。
だがそれでも、フレアは言った。
「ニーナ……、それでもダメ。あんたが怪我することで、傷つく人もいるんだから」
きゅっとニーナを柔く抱くフレアに対して、ニーナは「分かった」とは言わない。だが拒絶することもなく、ただ黙ってフレアに抱き締められていた。
そんな二人を見守っていたアリアは、別の気配に気付いてそちらを見やる。
「……やはり、ニーナか」
突然聞こえた低い男の声に、フレアがぱっと顔を上げた。
「誰?」
「ここの住人だ」
と男は答え、静かに歩み寄ってくる。
小太りの中年の男だった。黒の短髪には白髪が混じり、顔には深い皺が刻まれている。手入れされていない口髭は不潔な印象で、男の品格を落としていた。
纏う紅のローブは質が良さそうだが、長く着続けているためか汚れが目立つ。
「住人……?」
フレアが訝しげな顔でその単語を繰り返す。
今し方魔物と戦ったばかりだ。そこに住んでいると言われて疑うのも無理は無い。
だが男はそんなフレアの態度を気にする様子も無く、視線をニーナに向けた。
「何故ここに来た? お前はもう、戻ってこないと思っていたが」
「だからですよ」
とニーナは言葉を返す。
「ここに来れば、嫌でも向き合うことになるから……。だから来たんです」
「どういうこと?」
フレアが問うが、ニーナはそれに答えない。
代わりに男の方が口を開いた。
「……良いだろう。客を迎えるのは好かないが、相手がお前なら話は別だ」
言って、彼は踵を返す。
「エールくらいは出そう。お連れのお嬢さん方にもな」
町の奥へと歩んでいく男に、ニーナはついて行く。
一方で状況を呑み込めないフレアは、眉根を寄せながらこちらをちらりと窺い見た。
視線を向けられたアリアも、全てを把握したわけではない。だがこの場は、ついて行く他無いだろう。
故にアリアは肩を竦めて見せ、そしてニーナに続いて男の行く先に足を向ける。
するとフレアも未だ得心いかない様子ながら、それに従った。
空は赤く染まり、町には既に夜の闇が迫り始めていた。




