59.魔女の力
昼下がりだが、港町北部の酒場には人が集っていた。
その理由の一つは、真面な仕事を持てない者が多いためだろう。
そしてもう一つは、ここで面白い見世物が見られるために違いない。
少女と若い娘が荒くれ者に立ち向かって打ち倒す場面というのは、物珍しかろう。
もっとも一方については、挑むだけで打ち倒せてはいないようだが。
それはともかくとして、今その珍しい場面は構図が少々変化していた。
荒くれ者たちを差し置いて、女同士が対峙する構図だ。
「おい姉ちゃん、割り込みは良くねえな」
ニーナと向かい合うアリアの背に、男たちの中から不平の声が向けられた。
それを耳にして、アリアは彼らの方へ振り返る。
「あら、これは失礼しました。……けれどやっても負けるのですから、敢えてやる必要は無いでしょう?」
謝罪の後に言い添えると、彼らの額に青筋が立った。
「……あんまり好い加減なこと言うと、まず姉ちゃんが痛い目見ることになるぜ」
「ええ、どうぞ。構いません。できるのであれば」
アリアが微笑み交じりに返すと、すぐに男の一人が襲い掛かってきた。
勢いよく繰り出される拳の一撃。それをアリアは難無く躱す。
そして躱した彼女の手には、もう木と鉄とで構成された棍棒が握られていた。打撃部が無い直線棒状のそれは、鍛冶町で使った武器を再現したものだ。
「えっ……!?」
とフレアが驚く様子を見せた次の瞬間には、棍棒の一打が男の後頭部を捉えて彼を昏倒させる。
あっという間の出来事に、ざわと店内が響いた。
「まだやりますか?」
柔和な表情を崩すことなく問うアリアに対し、今度は男二人が同時に襲い掛かってくる。その手にナイフも構えた本気の姿勢だった。
だが、アリアからすれば大差は無い。ついこの間相対した盗賊たちと同じだ。
武器を使う人間は身一つで戦う人間と違って、専ら武器を当てることに執心する。
故に受ける側としては、警戒すべき対象をその手の武器に絞ることができる。ある程度経験と鍛錬とを積んだ兵士でも無ければ、他は大体お留守だ。
相手が二人なら警戒すべき点は二箇所となるわけだが、しかし余程連携に慣れていなければ互いに衝突を恐れてそれぞれの手は寧ろ鈍る。見方によっては、それぞれと順番に一対一で戦うよりやりやすいとすら言える。
そして目の前の彼らがどうかと言えば、十中八九真面に連携したことなど無いだろう。
果たしてアリアの読み通り、彼らに「連携」と呼べるような動きは無かった。
交互にナイフで突き薙いでくるだけ。一人が振るう刃をもう一方に向けて打ち払えば、すぐ二人とも動揺する。
あとはもう、一瞬だった。
アリアは棍棒の突きで一人の鳩尾を打ち、次いで棍棒を回し振り薙いでもう一人の後頭部を叩く。
流れるような手捌きで、アリアはほぼ同時に二人を床に寝かせた。
ざわめいていた観衆は、いつの間にかしんと静まり返っていた。
「次はどなたですか?」
荒くれ者たちに声を向けても、もう進み出てくる者は無い。
だが、代わりに別方向から声が上がった。
「私ですよ、お姉さん」
振り返れば、黒髪の少女が敢然と立っていた。
右手にはナイフを握っている。ぎらと光を反射するそれは、荒くれ者たちが持つものとは明らかに異なる。素人目にも、質の良いものと分かった。
「―――もしかして、鍛冶屋マークスのものかしら」
独り言のつもりで呟くと、少女ニーナの目が一瞬見開かれる。
それから、その口がむっと一直線に引き結ばれた。
「……何でも知ってるんですね」
「あら、当たっていたかしら? 当てずっぽうに言っただけだったのだけれど」
アリアは肩を竦めて見せる。
しかし、ニーナから言葉はもう返ってこなかった。
彼女はナイフをぐっと握り直し、すっと腰を落とす。
完全に戦う姿勢になったらしい。
対するアリアは、しかし姿勢を変えなかった。
ぴんと背筋を伸ばした淑やかな立ち姿を崩さずに、ただ彼女たちを呼ぶ。
「良いわ。いつでもいらっしゃい」
その言葉に、黙ったままのニーナの眉根がぴくと動いたように見えた。
そして直後、ニーナは動く。
ふわと軽やかにその身が跳ねたかと思えば、一蹴りで一気にこちらとの距離を詰めてくる。
二度目に床を蹴ったニーナは、もうアリアの目前に迫ってナイフの刃先を彼女に向けていた。
びゅっと風を切る音に続いて、とんと床を打つ音がする。
「え……」
フレアの声と同時にアリアが振り返れば、そこに着地していたニーナも怪訝な顔をしていた。
彼女のナイフは、動かないアリアを前にして空を切っていたのだ。
ニーナの顔がこちらを向き、その目がアリアを睨む。何が起きたのかは、まだ把握できていないらしい。
そんな彼女に、アリアは小首を傾げて「どうしたの?」と問う。ニーナの目には、大分挑発的に映ったことだろう。
ニーナは、再び向かってくる。
だんと地を蹴ってアリアに接近すると、そのまま空中で今度は回し蹴りを放つ。
だがそれも、その場に立ったままのアリアには当たらない。
ニーナの足は彼女に届かず、ただひゅんと風を切った。
「また外れた……」
「いや、」
呟くフレアの言葉を、しかしニーナは否定した。
「外させられました。風の魔法、とかもあるんでしょう?」
二度で理解した。怪力だけでなく、それなりに知恵も回る聡い少女のようだ。
アリアは目の前の彼女に対する認識を改める。
一方でフレアは、その答えを受け入れられていないようだった。
「でも、綴りも詠唱も無かったわよ……!?」
魔法に対する知識がある分だけ、却って現状を正しく捉えられていない様子だった。
「常識に囚われては駄目よ。偏見を招くわ」
アリアが説教する間に、ニーナはまた行動を起こしている。
ぱっと飛び出したかと思えば、アリアの目前で着地してからナイフを振ってくる。
ナイフは後方へ跳んだアリアに向かって伸ばされるが、即座に彼女が呼び出した鉄の柱がそれを阻む。
刃がぎっと鉄柱を掻いて音を立てた。
「あー邪魔だなァ」
「―――やはりあなた相手に、半端な真似はできないわね」
ナイフの状態を確かめるニーナを前に、アリアは呟く。
表向き圧倒的な存在として振舞ってはいるが、決して負けが無い勝負でないことも彼女は認識していた。
力量はアリアの方が上だ。しかしニーナの攻撃を一発でも真面に受けてしまえば、当然無事では済まない。
故にアリアに、外面ほどの驕りは無かった。
しかし一方でアリアは圧倒的な存在として、示さねばならない。
ニーナとフレアの力不足を、だ。
そうして彼女らを前進させなければ、二人はこの先の難局をリンドと共に切り開けないだろう。そしてそれは、アリアにとっても不都合なことだった。
ニーナが、再び動く。
彼女が真っ直ぐに突っ込んできて振るおうとするナイフは、鉄の壁を立てて防いだ。
するとニーナはその壁を跳び越えて、今度は上から踵を落としてくる。
その落下地点を風で逸らすと、彼女は着地と同時にナイフを薙ぐ―――と見せかけて反対の左拳を突き出してきた。
しかしアリアはそれも届かせない。ニーナの肘を伸びる前に凍らせた。
受けているだけでは、彼女の心を折ることはできないだろう。故にアリアは、ここで攻勢に転じる。
棍棒をニーナの首元へ向かって振り下ろす。当然彼女はナイフで受け止めるが、それによって胴はがら空きになる。
「―――っ!」
立ち所に岩の柱が伸び、ニーナの腹を打った。
撥ね飛ばされた彼女は酒場の壁に叩きつけられる。木造の壁がばきと音立てて罅割れた。
だが、その程度で沈黙するような相手ではあるまい。
案の定、ニーナはすぐ壁に減り込んだ身体を抜きにかかる。
アリアはそれをさせなかった。ニーナの身体を氷で包み込んで、自由を奪う。
ニーナが無力化されると、その傍で辛うじて巻き添えを免れた荒くれ者たちが「やべぇ……」と店の出口へ駆け出した。
それをきっかけに、観衆たちも「魔法人だ!」と声を上げ店から離れていく。
酒場の店内は、あっという間に閑散とした。
「どうなってるの……!?」
驚きと戸惑いを表情に滲ませるフレアが、小さな声を漏らした。
そんな彼女の方へ、アリアは身体を振り向ける。
「あんた、綴りも詠唱も無くどうやって……」
「フレア、」
と動揺している妹に、アリアは声を掛けた。
「私は、あなたにも言ったつもりだったのだけれど」
「何を―――」
「『いつでもいらっしゃい』」
アリアはその言葉をもう一度言って、彼女に向かって歩を進める。
ゆっくりと迫るアリアを前に、フレアは絶望の表情を浮かべていた。
どうにもならない、という諦めの顔だ。
それを見てアリアは、思わずふうと溜息を吐き出した。
しかしその溜息は結果的にフレアの気に障ったようで、彼女の行動を引き出した。
フレアはばっと短剣を握る右手をこちらへ差し向ける。そしてその人差し指で空に見えない印を描いた。
しかしその行動は、アリアが態度を改めるに足る行動とは言えなかった。
「破れかぶれに魔法を使うのはやめなさい」
アリアは冷たい声音で告げる。
「一旦距離を取るなり短剣で牽制するなりできるでしょう。今のその行動は―――」
「燃焼っ!」
フレアの声と共に炎が燃え上がりアリアに襲い掛かるが、ほぼ同時に鉄壁が出現してそれを阻む。
的を逸れ床を焼く炎に水を降らせて消してから、アリアは言葉の続きを口にする。
「その行動は、相手に打ち勝つことを諦めて考えることを放棄した証左よ。―――そんなに戦うことが怖いのなら、今すぐ家に帰りなさい」
「私は……、恐れてなんかいない!」
と怒りを露わにするフレアだが、再び魔法を綴ろうとする右手を凍らせてしまえば何もできない。
それでも動かない右手に握られた短剣を使おうと向かってくるが、氷の足枷をつけてしまえば床に転げて踠くだけになる。
唯一動く左手で不自由な右手と両足の氷を掻くフレアを見下ろして、アリアはまた一つ溜息を吐いた。
「あなたたち、本当にリンドの仲間なの? ―――だとしたら、リンドも人が好過ぎるわ」
その時だった。
がんと硬いもの同士がぶつかる音が、店内に響いた。
さらにその後に、ぐうと唸るような低い声が続く。
ぱっと振り返れば、壁に張り付けられていたニーナが頭を振り下ろして氷を砕いたところだった。
「うるせェんですよ……!」
額から流血しながら、ニーナが言い放つ。
そしてすぐに、素早い動きでこちらへ迫ってくる。
「頑丈ね」
ニーナが振り薙いだナイフを鉄壁で防いで、アリアは言う。
石頭というだけでなく、躊躇わずその頭をぶつけて氷を砕きにかかるという精神の強さも尋常では無い。
「けれどまだ足りないわ。それではまだ私に―――」
言いかけたところで、アリアの耳がちりっと小さな雑音を拾った。
すぐに顔を振り向ければ、床に伏したままのフレアが眼光鋭くこちらを睨み据えていた。
アリアは即座に横跳びする。その直後に、ぼっと炎が燃え上がった。
一気に大きく燃えた炎は熱風を放ち、アリアに一瞬目を閉じさせる。
そして一時視界を失った彼女の背後に、強い気配が迫る。
即座に身を屈めると、その頭上を跳び掛かってきたニーナのナイフが高速で通り抜けた。
アリアはすぐにニーナから身を離し、着地した彼女の足を凍らせて釘付けにする。
だがそれで彼女の動きが完全に止まることは無かった。
ニーナは迷い無く、即座にナイフを投げたのだ。
高速で飛んでくるナイフ。
それは素早く顔を傾けたアリアのすぐ横をひゅんと飛んで壁に突き刺さった。
「惜しいっ!」
にやと不敵に笑むニーナを前に、アリアは頬に触れる。
そしてその手を見れば、血がついていた。ナイフが頬を掠めたのだ。
「まだ、これからですよ」
と言って、ニーナがその足の氷を拳を打ちつけて砕く。
だがそうして立ち上がった彼女は、一瞬でその身を風に吹き飛ばされた。
突風。
渦巻く風がニーナを、そしてフレアを巻き上げ、酒場の壁に叩きつけた。
やがて酒場の建物全体もみしと嫌な音を立て始めたことに気付いて、アリアはその風を止めた。
「……」
彼女は倒れ込んだニーナとフレアを、そして酒場の酷い荒れようを見つめる。
それからまた、頬に触れた。
いつの間にか、いつもの微笑みが消えていた。
アリアは頭を振って平生の自分を取り戻すと、床に転がっている二人に声を掛ける。
「……訂正するわ。あなたたちには、確かにリンドと共に戦ってきただけの力がある」
彼女の声に、ニーナとフレアは言葉を返さない。ただ何とか身体を起こした状態で、こちらを見据えている。
そんな彼女たちに、アリアは告げた。
「けれど結論は変わらないわ。この先へ進むためには、力が不足している。そしてこんなところで燻っていたって、力は伸ばせない」
そして二人を見下ろし、彼女は問いかける。
「―――何をすれば良いか、分かるわね?」
その問いに二人は顔を上げ、―――しかしがくりと力尽きたようにまた身を横たえた。
そんな二人を見て、アリアは「あら」と苦笑する。
それから、店の入口の方へ目を向けた。
そこには身を固くして様子を窺っている少年の姿がある。
アリアは彼に向かって微笑み、言った。
「お家に招待してもらえるかしら?」




