58.魔女と少女と聖女
鍛冶町を出て、八日。
アリアは港町に到着した。
アリアの読みでは、境界の大河に呑まれた「彼女たち」はこの場所にいると思われた。
この読みは外れていた方が良いのだが、しかし残念ながら彼女の読みは十中八九当たるのだ。
外れることに淡い期待を抱きながら、それでもアリアは彼女らを見つけるのに最適な行動を取っていく。まずは見通しがきく場所での情報収集だ。情報を訊く相手を見つけやすく、また当然そこにいる人々も普段から広い範囲を目にしているので、人探しに向いている。情報交換が盛んな酒場も、そうした場所を歩けばその内見つかるはずだ。
アリアは真っ直ぐに町の中を抜けて開けた海岸沿いの通りへ出た。その通りをしばらく歩いていると、一軒の古ぼけた建物が見えてきた。周囲の家々と同じく木造のその建物は、規模こそやや大きいが長く潮風に晒されたためか酷く傷んでいた。手入れされていないのだろう。
建物の外にはいくつか席が設けられていて、そこで中年の男二人が酒を酌み交わしていた。看板などは無いが、酒場なのかもしれない。
酒を呑む彼らの元へ歩み寄っていくと、その一人と目が合った。すると、少々痩せた体型の彼は驚いた様子で口をぱくぱくさせる。
「あっ……、女神だ!」
その台詞に、隣に掛ける太った男が呆れ交じりの息を吐いた。
「おいおい、いくら美人さんだからって―――」
「そうじゃなくて! いや、それもあるんだけどよ」
言葉を返した男は、傍に寄ったアリアに声を掛けてくる。
「お姉さん、あんた前に海を渡ってここへ来たよな!?」
「あーそう言えば、前にそんな話してたなァ……」
と隣の太った男も反応し、面白い返しを期待するような視線をこちらへ向けてきた。
二人の視線を受けたアリアは、肩を竦めて微笑む。
「あら、見られてしまいましたか。どうかご内密にお願いします」
唇に人差し指を押し当てながら言うと、彼らは目を丸くして互いに顔を見合わせる。
それからどっと笑って、アリアに頷きを返した。
「そうかそうか! 見ちゃいけない場面だったか!」
「なんか見ちゃいけないもの見たって、背徳感あって良いよな!」
「確かに! 高ぶるな!」
少々品は無いが、この分なら大事にはならないだろう。
そのことを確認してから、今度はアリアが問うた。
「ところで最近長雨で境界の大河が荒れていましたが……、この辺りは大丈夫でしたか?」
「ん? あァ、確かに荒れてたなァ」
と太った男の方が言葉を返す。
「でも溢れなかったし、別に被害無かったよなァ?」
「ああ、川ではな」
と痩せた方がそれに応じた。
「長雨でボロ家は軒並み雨漏りしたけどな。その後腐って潰れたとこあるらしいぜ!」
どっとまた笑う男たち。笑い事では無いのだが。
或いは、笑い飛ばさなければやっていられないのかもしれない。
「川近くの宿場施設などは大丈夫だったのでしょうか?」
アリアはさらに探りを入れる。
「この町に避難してきた人もいたのではないですか?」
「あー……、そう言えば」
とその問いに、今度は痩せた男の方が思い当たった様子で声を上げた。
「最近血気盛んな女の子たちが来たなァ。北の酒場で荒くれ者たちと毎日喧嘩してるらしい。その子たちの話聞くようになったのは、丁度長雨の後くらいだった気ィする」
「あ、その子たちなら俺見たぞ」
もう一人の太った男が反応する。
「北の酒場で見たんだけど、一人が赤みがかった茶髪の綺麗な姉ちゃんでさァ……って待てよ? そうだあの姉ちゃん、もっと前にここで俺たちに声掛けてきたことあったよ!」
「そんな綺麗な姉ちゃんが俺らに声掛けてくるわけねえだろ?」
呆れ交じりの声を出す痩せた男に、太った男の方が熱弁を振るった。
「いやいや、バリスタのこと訊いてきたじゃねえか!」
「バリスタ……? あっ! あの姉ちゃんか! 黒髪の兄ちゃんと一緒だった―――」
「そうだよ! 酒場では兄ちゃんの方いなかったけど……、もしかして別れたのかな?」
「それで暴れてるってか!? そいつァ面白ェな!」
そうしてまた、二人は陽気に笑い声を上げる。
盛り上がっているようだが、しかしアリアにとってはどうでも良い話だ。
故に彼女は、にこやかな表情のまま話に割って入った。
「その酒場は、どの辺りにありますか?」
「うん? 北の端っこの方だよ」
と太った男が答える。
「この通りを北の端まで行って、突き当たりの壁沿いの建物を西に見て行けば見つかる。―――けど、あの辺は荒っぽい連中も多いから気を付けた方が良いぞ」
「お気遣い感謝します」
「その女の子たちのこと、知ってるのか? もしかして探してた?」
首を傾げる痩せた男の方に対して、アリアは肩を竦めて見せる。
「どうでしょう。そうでないと良いのですが」
「……?」
訝しげな顔をする男たちを置いて、アリアは颯爽と町の北部へ向かった。
*
北の酒場を見つけるのに、苦労はしなかった。
やや殺伐とした静寂に包まれた通りを歩いていく内に、寄れば騒ぎが聞こえてくる建物があった。
古めかしいがそれでも周辺の建物と比べれば大きく立派な酒場の入口付近には、人集りができていた。
騒ぎはそこに集まっている彼らによるものだけでなく、店内からも起こっていた。
「次は俺の番だ!」
「あれ、あなた二回目ですよね? ―――懲りないなァ」
低く太い男の声の後に、あどけなさが残る少女の声が続いた。
少女の言葉に対して、男が忌々しげに言う。
「この前は油断してただけだ! 今度はそうはいかない。必ずお前も伸して……」
と言う声の後には、ふっと怪しげな笑声が漏れ聞こえてきた。
「何をしているのですか?」
アリアは店の入口に立つ男の一人に声を掛けた。それと同時にすっと人垣の間に割って入り、店の中が見える位置を確保した。
声を掛けられた男は、アリアの方をちらと見やってやや面食らった様子を見せた。あまり若い娘が一人で来るような場所では無いので、驚いたのだろう。
しかしそれでも、彼女が小首を傾げて見せると状況を説明してくれた。
「女二人が、ここで『勝負を売ってる』んだ」
「勝負を売っている?」
「金を払えば、女たちに挑戦できる。勝てば二人に、何でも一つ言うことを聞かせられるんだと」
「……そうですか」
ふうと溜息吐きながら、アリアは店の中を見やる。
そこにはやはり、見たことがある二人の女の姿があった。
その一方―――黒髪の少女は「うーん」と腕組みして考える仕草を取っている。纏う青の衣は右の袖が無くなっていたが、そこから伸びる腕に傷らしい傷は見られない。
しばらく考えていた少女は、やがて腕組みを解いて隣に立つもう一人を見上げた。
「まァいっか。フレアさんも、良いですよね?」
「うん」
と頷く赤茶の長髪の娘の方は、真剣な面持ちで正面に立つ男を睨み据えている。
身に纏う白の上衣は、大分汚れていた。赤いスカートと長いブーツとの間に僅かに覗く膝には、生傷も見られる。
「今度こそ、ニーナの番まで回さない……!」
「だと良いんですけど」
「ニーナ」と言うらしい黒髪の少女の方はふうと息吐いて、部屋の隅の方へと引き下がる。
どうやら、まずは赤茶の髪の娘―――即ちフレア・クリストンが挑戦者の男と戦うらしい。
しかしそのフレアを前に、男は余裕の笑みを浮かべていた。
「姉ちゃんには大人しく後ろで待っててほしいんだがな。綺麗な顔や身体にあんまり傷がついたら、後の愉しみが台無しだ」
「調子に乗らないでッ!」
言うが早いか、フレアは懐から短剣を取り出して男に向かっていく。
しかし、短剣は鞘に収められたままだ。故にその様は、どこかの誰かに似ている。
もっともアリアが見る限り、彼女の中に彼と同じ「斬らない覚悟」は無いようだが。
右手に握った短剣で、フレアは男に接近戦を挑む。
だがアリアが知る限り、彼女に剣術の心得は無い。そしてアリアが知らない十年間にもそうした技術が殆ど培われていないことは、動きから明らかだった。
覚えたての技術を試すように、フレアは短剣で男の鳩尾を狙う。それを外すと、今度は腿を打ちに行く。
だが相手は、曲り形にも暴力で生き抜いてきた荒くれ者だ。特別に強くなくとも、素人同然の小娘との喧嘩で後れを取るはずも無い。
フレアの攻撃は、尽く躱されてしまった。
「教えてやる。こうやんだよ」
フレアの短剣を躱した男は、すぐに一歩踏み込んで彼女の鳩尾をとんと拳で打った。
軽く小突く程度の打ち方だったが、フレアに対してはそれで十分だった。
「―――っ!」
フレアはその場に膝を突いて、激しく噎せる。
それでもまた立ち上がろうとするが、男が腿に一蹴り入れて勝負は着いた。
噎せ返りながら腿を抑えて床に転がるフレアを見下ろして、少女ニーナははあと息を吐き出した。
「……やっぱりダメでしたね」
言って、今度は自分が男の前へ進み出る。
そんな少女を前にして、男の方は態度を変えた。
先ほどまでとは打って変わって緊張感を滲ませた真剣な表情。懐からナイフも取り出して構えた。
本気の体勢になったらしい。
「お前相手に手加減は無しだ。うっかり殺しちまっても、文句言うなよ」
「それはこっちの台詞です。―――あ、手加減はしますけどね」
にっと不敵に笑むニーナに対して、男が「ふざけんなッ!」と叫び襲い掛かった。
振り薙ぎ突き出す男のナイフの動きには明確な殺意があり、先のフレアに比べれば脅威の度合いは高い。
だが、ニーナは全く問題にしていないようだった。最小限の動きでそれらを難無く躱す。
表情にも余裕があった。普通の人間なら刃を向けられるだけで余裕を失うものだが、彼女はまるで木の枝を手に遊んでいるかのようだ。
その様子は、アリアから見ても常軌を逸していた。
「この子供っ……!」
「子供扱いは、私嫌いです」
男が振り薙いだナイフに対し、ニーナは退かず滑り込むようにして彼の懐に入る。
そして小さな拳をほんの少し引いたかと思うと、すぐ高速で放つ。
「ぐぅッ……!」
と男が苦しげな声を漏らしながら後退する。
ニーナの拳は、男が素早く防御に回した左腕に当たっていた。
それを見て少女は、目を瞬かせる。
「へェ、受け止めましたね。一回戦って、ちょっとは学習したんですね!」
「舐めんな、俺だって―――」
「どこまで耐えられるか、見物ですね」
言ってニーナが両拳を構えると、男の表情は凍り付いた。
しかし彼女は待ってくれない。すぐさま男の目前まで迫る。そしてその時には、もう拳を引いていた。
男はナイフを振るう間も無い。
一方的にニーナが拳を打ち込み、男が両腕で受け止める。
彼女の拳に力が入っていないことは、その表情から明らかだった。
まるで父親に戯れつく子供のように笑みが浮かんだ顔。だが一方で、その拳は異常な速さで男に打ち当てられていた。
すぱすぱと当たる連撃は、すぐに止んだ。
男の両腕がだらりと落ちたからだ。
そうしてがら空きになった顔面は、恐怖に歪んでいた。
「待て……、待て勝負はもうっ―――!」
「また来て下さいね!」
にこっと笑んだ少女から、これまでで一番早い拳が男の顔面に放たれる。
それで男の身体は一瞬宙を舞い、それから店の床を激しく転がって壁に叩きつけられた。
観衆は大盛り上がりである。少女の異様さは、この場においては正確に認識されていないようだった。
沸き立つ人々の間で、アリアはふうと一つ溜息を吐いた。
それから、その口を静かに開く。
「あなたたち―――」
「お前ら何やってんだよ!」
アリアの言葉に重なって、少年の大きな声が響いた。
声のした方へアリアや観衆が目を向けると、そこには十歳くらいの黒髪の小柄な少年の姿があった。
「アニー君……」
呟くフレアの傍で、ニーナは面倒臭そうに息を吐く。
「まァた来たんですね」
「お前らこそ、いつまでこんなとこで喧嘩してるつもりだよ!」
「アニー」と呼ばれたその少年は、ニーナに言い返す。
「何か他にやることがあるんだろ!?」
「前にも言ったけど、その『やること』のためにここで訓練してるの」
とフレアが答えるが、アニーは納得しない。
「俺も前に言った。こんなところで喧嘩してたって意味無いだろって!」
「意味無いことなんて無いわ」
としかしフレアも引かない。
「私はここで近接戦闘の訓練ができるから」
「喧嘩もできないお子様は、お家で私たちの帰りを待ってれば良いんですよ」
そこへニーナも声を向け、しっしと手の仕草も交えて彼を追い返そうとする。
だがそれでもアニーは、その場に留まって声を上げ続けた。
「うるさい! お前なんか訓練にもなってないじゃないか!」
「……うるさいのはあなたの方ですよ」
とニーナはやや苛立った様子を露わにして言う。
「あんまり喧しくするなら、私の家から追い出しますよ」
「俺は間違ったこと言ってない!」
それでも退かないアニーを前にして、ニーナの表情はさらに険しくなった。
「やっぱり、片付けちゃいましょうかね。余計な口出しされるのは不愉快ですし―――」
「その子の言うことは正しいわ」
アリアが声を上げると、言葉の応酬をしていた三人がぱっとこちらを見る。周りの観衆も驚いた様子でこちらに視線を向けてきた。
しかしそれらを気にすること無く、彼女は人々の間をすっと抜けて店の中へ入った。
突然話に割り込んできた女の姿を見て、一番に声を上げたのはフレアだった。
「アリア……!?」
「アリア?」
とそれにニーナも反応する。
「それって確か、『魔女』だっていうフレアさんのお姉さんですよね?」
「魔女」という言葉に、観衆は互いに顔を見合わせる。
この場においてその名はあまり認知されていないらしく、彼らの反応は鈍い。
だがニーナや目を見開いているアニーは、魔女のことを知っている様子だった。
しかしそんなことは、アリアにとってどうでも良いことだ。
彼女らが魔女を知っていようが知っていまいが、アリアが言うことは変わらない。
「こんなところで時間を無駄にするのは止めなさい」
「時間の、ムダ?」
と不愉快そうな声を出すニーナを前に、しかしアリアは落ち着き払った声音で告げる。
「フレアの付焼刃の近接戦特訓と、―――ニーナちゃんだったかしら? あなたの憂さ晴らしには、何の意味も無いと言っているのよ」
「付焼刃って……、私はっ―――!」
フレアが声を上げるのとほぼ同時に、ばきばきっと大きな音が店内に鳴り響く。
ニーナが床を勢いよく踏みつけたのだ。その力で、そこには罅が入っていた。
「……すごく嫌な人ですね、あなた」
行為とは対照的に冷ややかな声音で、彼女が言う。
「うっかり殺してしまいそうですよ」
「やってご覧なさい」
対するアリアは、ふっと挑発的に微笑んで見せた。




