55.魔女が見つめる愛憎劇
鍛治町北東部に位置する小さな鍛冶屋ラギア。
人通りも疎らな小道に面したその店に、麻のローブを纏った彼女らはやってきていた。
頭巾を目深に被った二人の表情は、遠目には窺い知れないだろう。
先を歩んでいた彼女が、きいと静かに店の戸を開く。
すると中から、あの気弱な出迎えの声が掛けられた。
「いらっしゃい、ませ」
「いらっしゃい」に中途半端に「ませ」が続くその挨拶は、彼の性格をよく象徴している。親しみを出そうとする一方で失礼があっても良くない、という葛藤がそのまま挨拶に出ていた。
何方付かずな挨拶するくらいなら何方かで言い切った方が余程良いと思うのだが、今はどうでも良いことなので敢えて触れることはしない。
「ラギアさん、こんにちは」
先に入った彼女が、朗らかに挨拶する。
その彼女の声に「えっ」と驚いたような声が聞こえた。それから、大柄で小心者の男がこちらを窺うように慎重に姿を現す。
「ローラさん……?」
訝しげな様子のラギアに対して、彼女―――ローラはゆっくりと彼に歩み寄って頭巾を被ったままその顔を覗かせた。
その表情は、憂いを滲ませた微笑。実によくできている。
「やっと会えた……」
と言って、ローラはラギアの太い腕に触れる。
さらにその手を彼の胸の方へ流して、胸板をなぞった。
「暫く娼家へいらしてなかったでしょう? 私寂しくて、会いに来てしまいました」
「え、え? そんな……」
愛撫するような手つきと甘い声に、ラギアは酷く動揺した様子で一歩退く。
だがその分、ローラがまた一歩詰めた。
「ねぇ、どうして来て下さらなかったの?」
「それは、その……」
言い淀むラギアに、ローラは首を傾げて見せる。
「―――もしかして、オリバーさんと何かあったの?」
「あっ、ローラさん、それは……」
ラギアは狼狽しながら、ローラの後ろに控えるもう一人の方を見やった。
その視線に気付いたローラは「あぁ」と声を漏らす。
「彼女は娼家の新入りなんです。まだ客引きのやり方も分からないから、教えるために連れてるんです」
「はあ……」
「それに、教団にも入ってるんですよ」
とローラは、内緒話するように口元に手を当てて囁く。
「だから、新たな協力者として打って付けなんです。―――ほら、来て」
「……」
ローラはその娼婦を呼ぶが、彼女はその場から動かず寧ろふるふると首を横に振りながら一歩後退した。
目深に被った頭巾によって顔は鼻先から下しか見えないが、一歩退いた際にローブの深い切れ目から細くて白く長い脚が露わになった。
「ごめんなさい。まだちょっと恥ずかしいみたいで……」
「い、いえ……。そういうことなら、大丈夫です」
娼婦の美しい脚に目を奪われていたラギアは、それを誤魔化すように慌てた様子で言う。
それにローラは「ありがとうございます」と返してから、話を戻した。
「それで……、何かあったんですか?」
「あ、いやその、―――実は、」
とそこで一旦口を閉じて間を取ってから、ラギアは意を決した様子で言葉を継いだ。
「実は、オリバーさんが捕まったんです」
「え、オリバーさんが……?」
驚いて見せるローラに、ラギアは頷きさらに言う。
「もう、教団はお終いです。これ以上関わっていたら、僕もあなたも捕まってしまう。だから……」
「どうするんですか?」
問うたローラの手を、ラギアはぎゅっと握り締めた。
「―――新しい組織が、もうできてるんです。僕はそっちに移りました。ローラさんも来て下さい……!」
「新しい、組織……」
「そうです! 教団のやり方を真似て……。ただ、教団はやり過ぎました。そもそも偽英雄に喧嘩を売っていたから目を付けられたんですよ。でも、今度の組織はそこが違うんです!」
とラギアは熱く弁舌を振るう。
「ただの盗賊に偽英雄は目を付けません。大丈夫。だから、ローラさんも来て下さい!」
そう言ってから、彼はもう一人の娼婦の方にも目を向けた。
「あなたも、こちらに来た方が良いと思います」
「……なるほど」
とその娼婦は呟く。
「つまり、新しい組織もあなたが拠点を提供しているのね」
「はい! ―――え?」
娼婦の態度に違和感を覚えたであろうラギアが、訝しげにこちらを見る。
だがもう、演技する必要は無い。
アリアは頭巾を取ると、店の入口の方へ向かって歩んだ。
「あっ……、あなたは……!」
ラギアの顔が青褪める。
そしてその目が、ローラの方へ向けられた。
「ローラさん、どうして―――」
言いかけたところで、彼は握っていた手を勢いよく振り払われる。
さらにローラは、振り払ったその手でラギアの頬を打った。
ばちん、と大きな音が静かな部屋に響く。
大した威力は無いはずだが、ラギアは仰け反って二歩後退した。
そんな彼を、ローラは冷酷な目で睨み据えていた。
「触らないで。汚らわしい」
「えっ? え……?」
困惑するラギアに、ローラは凍て付いた言葉をぶつける。
「新しい組織に入れば、お金も安全も手に入る?」
「そうです! だから―――」
「要らないのよ。そんなものは」
ぎろとラギアを睨むローラの眼光は鋭かった。
「私の父親は境界の街に兵士として集められて、魔法人との戦争で殺されたわ。母親は鍛治町で偽英雄に目付けられて、強姦されて死んだ。―――だから私は、魔法人も偽英雄も憎んでいるのよ」
彼女の荒々しい言葉を聞きながらアリアは店の入口まで行くと、その傍の壁に寄り掛かる。
一方のラギアも、ローラの激しい言葉を受けてずるずると後退っていた。
そんな彼に向かって、彼女はさらに言葉を継ぐ。
「純人教団に手を貸したのも、それが理由よ。教団の過激派も相当に狂ってると思ったけど、毒には毒をと思った。それで相打ちにでもなれば、最高でしょ? ……けど、」
とそこで彼女の語勢は、急に弱まった。
彼女は柔らかな口調でその続きを語る。
「けどね、私は出会ってしまったのよ。オリバーに。彼は私の浅はかな目論みをすぐに見通して、そしてその思いを全部受け止めてくれた。その上、愛してくれたのよ……」
ローラはほうと恍惚の息を吐く。
自身に経験が無いので推測になるが、「恋に落ちる」とはこういうことなのだろうとアリアは思う。
相手の姿に或いは精神性に嵌るのだ。宛ら、底無しの沼に足を取られるように。
そしてその沼に落ち込む感覚は、眼前の彼女が思わず溜息吐くほどにきっと心地好い。
アリアに言わせれば、冷静さを欠いては真っ当に相手を評価できないと思う。「直感」などというものを、彼女は信用していない。
尤もそんな彼女自身もリンドという青年に必要以上にちょっかいを出していて、その理由について正確に説明できるわけでは無いのだが。
結局のところ、アリア・クリストンもただの人間だった。
己の滑稽さにアリアが苦笑している間に、ローラはラギアに冷たい視線と言葉を向けていた。
「―――だからね、ラギアさん。偽英雄に見つからないようにこそこそ盗み働いてオリバーもいない盗賊集団には、私何の魅力も感じないの。いえ寧ろ、目障りだから消えてほしいくらいよ」
「……」
ローラからぶつけられた辛辣な言葉に、ラギアはただ茫然と立ち尽くしていた。
ローラが口を閉じたことで、静まり返る店内。
だが不意にラギアは、くるりとこちらに背を向けた。そしてふらふらとした足取りで店の奥へと歩んでいく。両腕も掴み所を探るように中途半端に持ち上がっていて、その様はまるで死体が何者かによって操られているかのようだった。
そんな彼の行動を確認して、アリアはすぐ店の入口の戸をこんこんと二度打った。
音に気付いて、ローラがちらとこちらを見やる。
だが、その目はまたすぐに店の奥へと向けられた。
がらがっしゃんと棚から物が落ちる派手な音が聞こえてきたからだ。
音に続いて、奥から舞い上がった埃が流れてくる。
それだけではない。ラギアもまた、再び静かに姿を現した。
「……ちょっと、何するつもり?」
ローラが尖った声を彼に向ける。
その彼女の表情には、若干の緊張が見られた。
それもそのはず。
ラギアは、その右手に斧を引き摺っていたのだ。
「―――だって、仕方無いじゃないか」
とラギアは、覇気の無い表情で告げる。
表情が無くなっている分、高くからこちらを見下ろす顔は不気味に見えた。
「君が敵になるって言うなら、もう帰せないよ」
「だから殺そうって言うの? ……あんた馬鹿ね。ホント馬鹿」
じりじりと迫ってくるラギアを前に、ローラは後退りながらそれでも彼を罵倒する。
「私たちを殺せば、あんたも立派な悪党よ。もう裏町からは絶対に抜け出せない。死ぬまで逃げ回って―――」
「うるさいッ!」
とラギアが激高し、ローラがびくと肩を震わせる。
そんな彼女に向かって、ラギアはずんずん近付いてきた。
「うるさいうるさいうるさいッ! お前が悪いんだ! そもそもお前が教団に僕を誘ったからこんなことにっ……!」
喚いて、彼はその手の斧を振り上げる。
「こうなったらお前も道連れだッ! 一緒に地獄行きだ―――!」
その斧が今まさに振り下ろされようとした、その刹那。
どんと店の戸が蹴破られた。
そして跳び込んできた黒髪の男が、すっとその冷淡な目をラギアに向ける。
その目に一瞬たじろいだラギアは、それでもその手の斧をローラに向かって振り下ろした。
だがそれを、男の振るう折れた剣が横から叩き付ける。
その衝撃で軌道が逸れ、斧はローラの傍で床に減り込んだ。
斧を弾いた男は即座に手首を返して、剣を今度はラギアに向かって振り薙ぐ。
「うっ、あぁッ……!」
男が左手で薙いだ剣は、ラギアの身体に届かない。
だが次の瞬間、戦慄の表情を浮かべたラギアは白目を剥いてその場に引っ繰り返った。
倒れた巨体がずんと床を揺らし、埃を舞い上げた。
それを見下ろして、彼は呟く。
「ローラ怪我させたら、俺はオリバーに一生恨み言言われかねないんだよ……」
「決まったわね」
舞う埃を吸わないように貫頭衣で口元を覆いながらアリアが言うと、相手は言葉を返そうとして噎せた。
その様子を見ながら、ローラは安堵の息を吐く。
「―――オリバーだったら、もっと良かったんだけどなぁ」
「悪かったな……」
けほけほ咳き込みながら今回の王子役―――、もとい本物の王子リンドはそう返す。
「あと、決まってない。退魔の力はまだ使ってなかった。こいつが勝手に引っ繰り返ったんだ」
「結局ただの臆病者だったのね」
ローラは嫌悪の目で泡吹いているラギアを見下ろしていた。
一方のリンドは、不満げな視線をアリアに向けてきた。
「それより、あの合図は何だ」
「『何だ』って?」
小首を傾げて見せるアリアに、リンドは呆れ交じりの声を向けてくる。
「あんなノックじゃ分からない」
「分かったから来たのではなくて?」
「聞き逃すところだったと言っている。こっちは周辺調べに回ってるんだ。もう少し分かるように―――」
「もう戻っている頃だと思ったのよ」
とアリアは悪怯れず答えた。
「ちゃんと考えているわ。現にしっかりあなたには届いたでしょう?」
「……」
まだ不服そうではあったが、リンドはそれ以上何も言ってこない。
納得したか、若しくは諦めたのだろう。
代わりに別のことを口にした。
「あと、脚はもう仕舞え」
「あら、気になる?」
問いを返すと、彼は「そうでもないが……」と答える。しかしその視線は、ローブの切れ目から覗く彼女の長い脚に向いていた。「そうでもない」こともないらしい。
アリアが視線を合わせると、彼は一つ咳払いをする。それから、取り繕うように言葉を向けてきた。
「大体、脚出す必要あったのか?」
「あるわよ」
とそこへ割って入ってきたのはローラだ。
「頭巾で顔隠してたら、普通誰かって顔窺うでしょ? でも他に気になるところを作っておけば、そっちに視線を誘導できる。特にラギアみたいな単純な男相手なら、効果抜群なのよ」
そう得意げに自身の策を話した彼女もまた、アリアの脚をちらと見やる。
「それにしてもホント綺麗な脚よねぇ。普段隠してるのが勿体無いくらい。……あ、でもスカートにも切れ目あったわよね? もしかして『そういう使い方』普段からしてる?」
確かにローブの下―――アリアが普段着ている衣にも、スカートの両側面に深い切り目が入っている。普段は布紐を通してしっかり閉じているが、比較的簡単に解くことができるので今回役立った。
だが「そういう使い方」をしているかと訊かれれば、答えは否だ。
「そういう風には使いません」
とアリアは答える。
「ただいざという時に動きやすくなりますし、他にも使い道があるので」
「何に使うんだ?」
リンドが問うてくるが、それに対する答えは口の前で人差し指を立てる仕草だけに留めた。
そして話題を変える。
「ところで、周辺の調査はどうだったの?」
「……留守だ」
とリンドは答える。
「全部留守。居留守。要するに―――」
と彼が言いかけたところで、突然ぴーっと指笛の音が辺りに鳴り響いた。
それでアリアも、ふむと納得する。
「確かに、こうすればよく聞こえるわね」
「今更その話か」
リンドが呆れ交じりの視線をこちらへ向けてくる。
それから、はあと溜息を吐いた。
「……店にも、監視を置いていたんだな」
「そして私たちを消すために、周りに知らせたのね」
言葉を交わすリンドとアリアを見て、ローラが「はあ?」と嫌そうな声を出す。
「何それ……、私たち敵の網の中ってこと?」
「違う」
とそれにリンドが答えた。
「網に入ったのは、敵の方だ」




