49.魔女と偽英雄の再出発
十年前、少女アリアは一人で家を出た。
各地を回った彼女は、その後海の向こうの国へと渡った。
そしておよそ一年前に戻ってくるまで、その国で暮らしていたのだ。
アリアは、そこで知った最も重大な事実を彼に伝えた。
「海の向こうの国にはね、魔法が無いのよ。もちろん、退魔の力も」
「……魔法が、無い?」
「ええ」
アリアの言葉をただ繰り返すリンドに、彼女は頷きを返す。
リンドが、アリアが、かつて「この世界」と表現したそれは、実際のところ思いの外小さい世界だったということだ。
その事実に、無表情のままの彼は何を感じているのか。アリアの目でもはっきりと察することは難しい。
或いはその様子の通り、驚いているだけでまだ何も考えられていないのかもしれない。唐突な話だ。整理するには多少時間がかかるだろう。
ただもしそうであっても、理解を悠長に待っている気はアリアに無いのだが。
彼女は、今語るべきことを語るだけだ。
「港町を知っているわよね。海向こうの国との交易で栄えた町だけれど、その相手がやって来なくなって衰退した。―――どうして来なくなったと思う?」
「純人王国が戦争を続けていたから。……と、純人王都の歴史書にはある」
リンドは、そういう答え方をした。察しはついているのだろう。
アリアはその答え合わせをするように、彼に言葉を返した。
「純人王国から見ればそう見えるのかもしれないけれど、海向こうの国から見ると少し違うわ。彼らは島で勢力を増してきた魔法人を恐れたのよ。だって魔法は彼らにとって未知の力だから」
彼女の言葉に、リンドも同意するように頷いた。
「純人からすれば、圧倒的な力だからな」
しかしその解釈は、正さねばならない。
アリアはすぐに首を横に振った。
「いいえ。実際のところは、そうでもないわ」
「……どういうことだ?」
眉根を寄せるリンドに、彼女はその根拠を話す。
「向こうの国に、魔法は無い。でもだからこそ、彼らは技術を積み上げているの。知っている? 向こうでは、遠距離から小さな鉄の球を放つ武器ができているのよ」
「鉄の球?」
「豆くらいの鉄の球を、小さな爆発を利用して鉄の筒から高速で打ち出すの。場合によっては鎧も人の身体も貫通するほどの威力よ。一発一発を撃つのに時間はかかるけれど、集団で使えば隙も命中精度も補えるわ」
アリアがそう説明しても、彼は目を瞬くだけだった。当然だろう。実物を目にしていなければ、アリアであっても実感は湧かないに違いない。
故に彼女は、その説明をさっさと打ち切って結論を述べる。
「―――要するにね。魔法っていう異常な力があるために、私たちは却って歩みを止めてしまっているのよ。今はまだ、向こうが怖がってくれている。けれどもし向こうが攻めてくるようなことがあれば、純人王国も魔法王国も今のままでは太刀打ちできないと思うわ」
アリアの話を聞いて、リンドはしばし黙っていた。
しかし、やがてその口をゆっくりと開く。
「……魔法は『異常な力』なんだな?」
「うん?」
彼の言いたいことを計りかねてアリアが首を傾げると、リンドは肩を竦めて見せた。
「技術の進化だとか、海の向こうにも脅威があるだとかって話は分かった。ただそれは先の話だ。今は魔法が異常な力だってことが分かれば、それで十分だ」
そして、その目を真っ直ぐにこちらへ向けてくる。
「異常な力は要らない。お前も、そう思ったんだろ?」
彼の意志は変わっていない。それを確かに感じた。
だがアリアの意志もまた、変わっていないのだ。
故に、彼女は頭を振って見せる。
「私はね、傲慢に魔法を魔法のまま使っていては駄目だと思ったのよ。だから、私がその使い方を示すの。一番上に立ってね」
十年前。
彼は「この世界を終わらせる」と言った。
彼女は「この世界を手に入れる」と言った。
それは、今も変わっていない。
アリアはリンドと視線を交わしながら、それを理解した。
彼の方も同じようで、ふうと諦めたような息を吐き出した。
「私が一緒の考えじゃなくて残念?」
茶化し気味に問えば、その目がじとと鬱陶しそうなものに変わる。
「お前と事を構えるのは、大変そうだからな」
「素直じゃないのね。さっきまでは、あんなに正直に甘えてきたのに」
ごほと噎せる音がした。
リンドは視線を逸らしながら、エールをぐいと呷る。
「……何か、硬かった」
「そんなに骨張っていないと思うけれど」
「そうじゃない」
胸元を撫でながら言うアリアに、リンドは睨むような視線を送ってくる。
「貫頭衣の下。何か装身具着けてるだろ」
「あぁ、そのこと」
と彼女は、さも今気が付いたと言わんばかりの反応を返した。
「ごめんなさい。あなたがあまりにも事を急くから、外す暇も無かったのよ」
「それは何だ?」
羞恥を感じているのか、リンドは被せ気味に問いを寄越してくる。
その問いに、アリアは首を傾げて見せた。
「何って? 誰から貰ったのか、気になるの?」
「違う」
とそれに呆れ交じりの声が返ってくる。
「お前はただの飾りを身に着けたりしないだろ」
「あら、失礼だこと。私だって装いに関心が無いわけではないのよ?」
「そういうのはいい」
相手にする気がリンドには無さそうなので、アリアは肩を竦めて答え直した。
「……もしもあなたが魔法王国と対話できるようになったのなら、その時にコレの価値は証明されると思うわ」
言って、貫頭衣の上からその装身具を撫でる。
「つまり、今はただの飾りよ」
「……」
リンドはまだ納得していない様子だったが、それ以上話すことは無いと視線で告げると諦めたように息を吐き出す。
それから机上に残っていた塩漬け肉を頬張り、エールをぐいと一気に呷った。
そうして食事を終えると、彼はすぐに席を立つ。
「どこへ行くの?」
「外」
立ち上がって身支度を整える彼に問うと、簡潔過ぎる答えが返ってくる。
「あら、あなたも島を出るの?」
「出ない。お前がやったみたいな芸当が俺にできるわけないだろ」
リンドは分かってるだろと言わんばかりの視線を向けてくるが、しかしアリアは気にする様子も見せずにまた問う。
「ならどこへ? やっぱりあの子たちを探して―――」
「探さない」
と彼が答えたので、アリアは首を傾げた。
その仕草にも、彼は言葉を返してくる。
「あいつらは生きている。お前がそう言った」
「私は、死んでいるかもとも言ったけれど?」
「ニーナもフレアも、簡単に死んだりしない。だったら、生きているってことだろ」
リンドの目は、真っ直ぐにアリアを捉えている。
今度は、逸らされなかった。
「これからどうするのかは、あいつらの勝手だ。―――ただもし、もう一度一緒に戦ってくれるのなら、次は魔法王都でまた会えるはずだ」
「そう……。良いと思うわ」
「別に、お前の同意は求めてない」
アリアが微笑みかけてやると、彼はふいとそっぽを向いてしまった。
その彼に、彼女は改めて問いかける。
「でもそれなら、あなたはこれからどこへ向かうの? 魔法王都?」
「そうしたいところだが……」
と言いながら、リンドは左手を見下ろす。
「まだ、準備ができていない」
そしてその目は、ベッドの片隅へと移動する。
そこには退魔剣が立てかけられていた。鞘も無く、柄から伸びる剥き出しの刃は中途で折れてしまっている。
「それはもう、使い物にならないわね」
「そうだな」
アリアの声に同意しつつも、リンドはその剣を手に取った。
そして剣の鍔に巻いていた布を解くと、それを刃に巻き付ける。
さらに左手の布も解いて、左の上腕に巻き直した。
「……良いの?」
露わになった二つの黒龍の印と左手の古傷とに視線を送りながら問うと、彼は黙ったまま頷く。
彼なりの決意表明なのだろう。
それでアリアは、別のことを訊いた。
「そう……。でもそれなら、左腕の布はもう要らないでしょう。捨ててしまったら?」
「いや、これは要る」
としかし彼は拒否して、その布を右手で撫でた。
アリアが見る限り、それは刃に巻かれている布と大して変わらない粗末なものだ。となると、何か思い入れがあるものなのかもしれない。
アリアが考えている間に、リンドは刃を布で包んだ退魔剣を腰に差す。
そしてそれをぽんと叩いた。
「まずは、これに代わるものを手に入れる」
「そう。剣だったら、西の―――」
「当ては、ある」
アリアの言葉を遮って、リンドは言う。
「腕の良い鍛冶士を知ってるんだ」
そして颯爽と部屋を出て―――いこうとして、その戸が動かずに立ち止まった。
戸をがたがた押したり引いたりする彼に、アリアは声を掛ける。
「言ったでしょう。そこから先は、私が魔法で完全に塞いでいるの。出るなら、退魔の力を使って」
すると彼は、扉の取っ手を掴んでいた左手を見る。
そして一時瞑目して、深呼吸した。
次の瞬間、アリアの身体をざわと恐怖の感情が駆ける。
彼女であっても、その感情を完全に抑え込むことはできない。
ただ今の彼女は、その怖れと同じくらいに喜びも感じていた。
アリアの目の前で、リンドはその戸を開いたのだ。
「……アリア、」
恐怖感から解放されるとすぐに、彼の声がした。
そちらへ意識を向ければ、リンドが開いた扉の前でこちらを振り返っていた。
彼はやや気恥ずかしそうに、頭を掻きながら言う。
「言い忘れていた。―――助けてくれて、ありがとう」
それだけ言うと、彼は部屋を出ていく。
アリアは、その背に言葉を返した。
「どういたしまして。それから、しばらくよろしくね」
言うと、彼の動きがぴたと止まった。
そして、その顔がちらとこちらを窺う。
「……よろしく?」
「ええ、しばらくあなたの旅に同行することにしたわ」
にこりと微笑むとリンドは若干嫌そうな顔をして、はあとため息を吐いた。
そして忠告してくる。
「手を出すなよ」
「分かっていますとも。私は何もしません」
両手を小さく挙げて宣誓すると、彼はもうそれ以上何も言わずに部屋を出ていく。
アリアもその背を追って地下室を後にした。
階段を上がって教会の地上に出ると、そこには年配の神父の姿があった。
魔法王国の神教の主流は龍姿派。故に神父が祈りを捧げている石像も、龍の姿をしている。
彼はアリアたちが上がってくると、こちらへ顔を向けた。
「もう、よろしいのですか?」
「ああ、」
とそれにリンドが応じる。
「世話になった」
「いいえ。私は何も」
「外の様子はどうですか?」
謙遜する神父に、アリアが尋ねた。
「大きな音はしていなかったように思いますが、戦闘は起きていますか?」
「戦闘は無いようです。兵士の方々も、この間の戦闘の被害の収拾に追われているようですよ」
「そうですか。ありがとうございます」
言って、アリアは淑やかに一礼する。
「―――では、私たちは行きます」
一人外へ向かって歩き出すリンドを尻目に彼女が告げると、神父は祈るようにその手を合わせた。
「お気をつけて。あなた方に神のご加護がありますように」
「感謝します。神父様にも龍神のご加護をお祈り致します」
アリアが言葉を返すと、神父はふっと不意に破顔した。
「……神の御姿は、一つではありません。どこへ行っても、我々が望む御姿で見守ってくださいますよ」
それは、この境界の街に相応しい神父の姿だった。
アリアも思わずふふと笑んで、「仰る通りですわ」と返す。
それからくるりと身を翻すと、リンドと共に教会を出た。




