47.魔女と偽英雄
(キャラクターイラスト制作:たたた たた様)
曇天の東の境界の街は、静かなものだった。
今まさにアルバートの王子が仲間たちと境界を越え、魔法王国軍と戦っている。それなのに耳に届くのは、大河の荒ぶる音に混じった途切れ途切れの一人と一人が剣を打ち合わせる音それのみだ。
決着が近いということだろう。
「彼女」は戦いを純人王国側の砦の屋根の上から眺めていた。砦の上では、左半分を結い上げた胸ほどまである茶髪や、一繋ぎの衣の上に纏った貫頭衣が冷たい風にはためく。しかし長いスカートや腕を保護する袖布のお陰で寒さを感じることは無く、彼女は平生と変わらない凪いだ瞳で石橋の向こう側を見つめていた。
やがて彼女は、紅い光を漏らす右手を握ってそこから飛び降りる。すると即座に強風が巻き起こって彼女の身体を支え、柔らかに着地させた。
地に降りると、彼女はそのまま真っ直ぐに躊躇無く境界の大橋を渡っていく。
その視線の先に映るのは服を鮮血に染めながら剣を振るリンド・アルバートと、それを往なすマーシャル・イージス。さらに彼らを囲む魔法王国軍の兵士たちと、川岸に掴まって今にも大河に呑まれそうなフレア・クリストン、そして彼女がもう一方の手で掴んでいる小柄な少女の姿だ。
リンドとマーシャルは、何か言い合いながらその剣を打ち合わせていた。大河の音に掻き消されてその声を聞き取ることはできないが、大凡の状況を把握している彼女にとってその内容はどうでも良かった。
「―――アルバートに、成り切れなかったのね」
呟いた直後に、フレアの手がずると岸から離れる。そして彼女は少女と共に、大河の中へ呑み込まれてしまった。
それとほぼ同時に、リンドの振り下ろした剣がマーシャルによって圧し折られる。
それでもマーシャルの脇を掻い潜った彼の目が何も無い岸辺を捉え、そして絶望に見開かれた。
そこへ、マーシャルが剣を振り下ろす。
その斬撃を避けるも、リンドは次の蹴りに対応できず砦の方へ撥ね飛ばされた。
勝敗は決したと言っていいだろう。
「……おい、何だあの女は?」
リンドの敗北を見つめながら石橋の半ばを過ぎると、彼女の存在に兵士たちが気付き始めた。
彼らは剣や弓、そして魔法を構えながら橋の傍まで寄ってくる。
「何者だ」
とその中の一人が問うてくる。
「気安く渡ると、痛い目を見るぞ」
その声に彼女は、にこりと微笑んで見せる。
そして、静かに言葉を返す。
「通してもらえるかしら。私はリンド・アルバートに用があるの」
しかし彼女の言葉に、相手は首を横に振った。
「できないな。―――止まれ! でなければ、全身に矢を浴びることになるぞ!」
「そう、それは恐ろしいわね」
向けられた矢を前に彼女は言うが、その足を止めることは無い。
当然、「放て!」の合図と共に一斉に矢が射られた。
低い軌道で放たれた十数本の矢は、正確に彼女の身体に向かって飛んでくる。
そして、かつかつと音立てて石橋を打った。
兵士たちの目が、驚きに見開かれる。
「外した……!?」
放たれた矢は、唯の一射も彼女に命中していなかった。
無論、運が良かったわけではない。彼女はそんな不確定なものに頼らない。
「怯むな! 剣と魔法で―――」
武具を構え直す兵士たちに、突然大きな布がふわりと舞い降りる。
ばさと彼らの視界を覆うように被さったそれは、次の瞬間発火した。
「うわァァッ……!」
悲鳴が上がり、兵士たちの陣はたちまち混乱する。
橋を渡り終えた彼女は、その横をすっと静かに通り抜けた。そしてその先で、リンドを見下ろすマーシャルの方へと歩む。
「この世界を腐らせた連中は、俺が全て潰す」
呟きと共にマーシャルが振り下ろす剣に対して、リンドはその左手で折れた退魔剣を掴む。
その退魔剣が、マーシャルの斬撃を防ぐか。
彼女は、間に合わないと判断する。
故にマーシャルの剣を止めたのは、地面からすらと伸びて交差した二本の刃だった。
その魔法を前にマーシャルは、すぐに彼女の存在に気付いて睨め付けてきた。
「何だお前は」
「こんにちは」
敵意剥き出しな相手に対しても、彼女の態度は変わらない。微笑みを浮かべて挨拶する。
その背後から兵に矢を放たれても、即座に呼び出した鉄の壁でそれを弾く。
そんな彼女の魔法から、マーシャルはすぐに彼女が何者であるかを察したようだった。
「その力……、お前が『魔女』か」
その言葉に、彼女―――アリア・クリストンは肩を竦めて見せる。
「あまり気に入っている呼び名ではないけれどね」
言ってから彼女は、左手に退魔剣を握るも砦に寄り掛かって座り込んだままのリンドを見下ろす。
意識がはっきりしていない様子で、彼はアリアが現れたことに気付いていないようだった。
「こんなところで終わるの? それでは全く面白くないわ」
声を向けていると、すぐ傍から別の声が上がる。
「無視してんじゃねェぞ」
「あら、ごめんなさい」
一瞬で間合いを詰めたマーシャルが、剣を振るう。
それを後方へ跳んで躱したアリアは、自分が立てた鉄の壁に退路を塞がれる。
そこへマーシャルがさらに一歩踏み込み―――。
そして、彼の表情が痛苦に歪んだ。
踏み込んだ足を、地から伸びた刃が貫いていた。
「今日のところは、見逃して貰えるかしら」
「ふざけっ―――!」
声を上げようとしたマーシャルの文字通り釘付けの足は、さらに氷漬けになる。
それでも剣を振り薙ごうとした左手にはじゅっと火が点いて、彼は剣を取り落とす。
さらにその口が氷に塞がれ、反論と激しい呼吸とを不可能にした。
マーシャルはすぐに口を覆う氷を砕きにかかるが、興奮状態では鼻からの呼吸が不十分だ。ぐらっと目眩を起こしたように膝を突いた。
そんな彼を余所に、アリアはリンドの元へ歩み寄る。
「―――リンド、行きましょう」
「……」
アリアが声を掛けると、彼は顔を上げる。だが応答は無い。
それでも彼女はリンドに肩を貸すと、仕上げとばかりに砦の前を焼き払った。
燃え盛る炎に混乱する兵士たちを置いて、アリアは半ば引き摺るようにしてリンドを連れ出した。
*
今は昔のこと。
苦悩する少年リンドに、見守る少女アリアは言葉を向けた。
右手を差し伸べれば、彼も左手を伸ばしてくる。
アリアは彼の手を、指を絡ませ握った。
ぎゅっと握ったその手は、熱かった。
「……アリア?」
その声に、彼女は浅い睡眠から意識を目の前に戻す。
薄暗い石壁に囲まれた部屋。
ベッドに寝かせたリンドが、薄目を開けてこちらを見ていた。
上半身には手当のための亜麻布が巻かれている。
「ええ、アリアよ」
椅子に掛けたまま、彼女は彼に微笑みかける。
すると彼は、次いでその左手に目を向ける。アリアが優しく握っている彼の左手を。
彼がそれについて何かを問う前に、彼女の方が先に声を上げた。
「リンド、大変だったわね」
優しい声音を向けながら、身を寄せる。
左手を枕元へ添えると、ぎっとベッドが軋む音がした。
「もう、疲れたでしょう」
彼の耳元で甘く囁く。
「あとは全部、私に任せなさい。あなたは何もしなくていいの」
「……」
ぼうっと放心状態の彼の左手に、いつかのように指を絡ませた。
もっとも昔と違って、彼女も彼ももう子供ではないのだが。
それでもアリアは、少年リンドに向けるように囁きかけた。
「沢山甘えていいのよ。全部、受け止めてあげるから―――」
するとそれを言い終わる前に、彼女の右手がぐいと強く引かれた。
体勢を崩したアリアは、リンドの上に覆い被さる。
「リンド、待って今靴を脱ぐから……」
声を掛けるが、無視される。
隣に引き倒したアリアの胸に、リンドは顔を埋めてきた。
思わず、「んっ」と艶めいた吐息を漏らしてしまう。常ならぬはしたない自分の声に、アリアは内心で苦笑する。
だが同時に、満ち足りた高揚も感じていた。あまり感情を表に出さないリンドが、今は感情のままにアリアを求めている。それが堪らなく心地良かった。
ぐいぐい顔を押し付けて来る彼の頭を優しく撫でながら、アリアは恍惚の息を吐き出す。
擦れる彼の脚が、彼女の長いスカートを徐々に捲り上げてその細く白い脚を露わにしていく。
彼の頭が彼女の貫頭衣の下へ潜り込んできて、その肩口や鎖骨付近に固い髪質を感じさせる。
衣服も、呼吸も、乱れていく。
羞恥なのか、興奮なのか、頬が火照る。
身体が熱くなり、仄かに汗ばんでいく。
リンドの身体は、思いの外ごつごつとしていて硬かった。当然だろう。アリアが最後に言葉を交わしたリンドは、まだ八歳の少年だった。変化があって当たり前だ。
きっと、リンドが今感じているアリアの身体も、当時とは異なっているのだろう。
これまで感じたことが無い高揚感に感情を乱されながらもアリアは普段通りの冷静な自分も心に置いて、リンドを導いていく。
顔を上げたリンドの頬に左手を添え、そしてその親指を彼の唇に触れさせた。
「リンド……」
やや呼吸を乱しながらも、彼を呼ぶ。
すると彼も、それに応じるようにぼうっとした目をこちらへ向けてくる。
そしてゆっくりと、その顔をアリアに寄せてきた。
それに合わせるようにして、アリアはゆっくりと目を閉じた。
―――しかし、期待した感触はやってこない。
目を開けて確認すると、リンドは夢から覚めたように目を瞬いて、アリアの顔を見つめていた。
「どうしたの?」
と問うと、リンドはやや乱れた呼吸を整えながら答える。
「お前の瞳の色……、フレアと同じだ」
「あら、ベッドの上で他の女の話?」
茶化すように言葉を向けると、彼は身を起こして頷く。
「ああ。ニーナとフレアがどうなったのか、気掛かりだ」
「―――そう」
と返すと、アリアもベッドから身体を起こした。そして乱れた着衣を整える。
戯れの時間は、ここまでのようだ。
「ここはどこだ? 俺はどれくらい眠ってた?」
「ここは東の境界の街の魔法王国側にある教会の地下。あなたはおよそ三日くらい寝ていたわ」
リンドの問いに、アリアは一切の無駄なく答える。
「三日……」
と呟きながら、リンドはその布が巻かれた左の脇腹に触れる。
そしてやや怪訝そうに言葉を向けてきた。
「それにしては、治りが早過ぎないか?」
「回復魔法を使ったからね」
とアリアがまた端的に答えると、彼は目を瞬かせる。
「……そんなことができるのか」
その顔に、アリアはふっと吹き出してしまった。
「冗談よ。半分ね」
「半分?」
と未だ怪訝そうなリンドに対して、彼女は補足する。
「壊れたものを元通りにできる力、なんてものがあれば便利だけれどね。魔法は物体を生成することしかできないわ。―――だから私は、あなたの治癒を手助けしたに過ぎないの。血や皮膚なんかを一時的に補ってね」
言うと、彼は驚いた様子で少し目を見開いていた。
「血肉を魔法で生成したのか?」
「あなたが元々持っていたものと同じに作ったつもりよ。無事に再生したってことは、成功ね。―――ただ、退魔の力を使う時には気をつけて。一時的に血が減るかもしれないわ。布はここで貰ったから大丈夫だけれど」
「……」
アリアが平然と語る「回復魔法」の話に、リンドは少々引いているようだった。彼女が「魔女」と呼ばれる所以についても納得したことだろう。
「……ところで、」
とリンドは、話題を変えた。
「ニーナとフレアがどうなったかは、知らないか?」
「知らないわ」
とアリアはそれに即答する。
「大河に落ちるところは見たけれど……、その後は知らないわね」
「落ちるところを見たのか?」
「ええ」
答えると、リンドがずいと詰め寄ってくる。
「どうして助けなかった」
「どうして?」
こちらを見据える彼に対して、アリアは首を傾げた。
そして真っ直ぐに、本当に意味が分からないと言うように、彼の目を見返す。
「どうして私が、あの子たちを助けなければならないの?」
「お前は俺を助けたろ。だったら、あいつらも同じ―――」
「勘違いしないでね、リンド」
とアリアは、ぴしゃりと告げる。微笑みはそのままに。
「私があなたを助けたのは、私のためよ。そしてあの子たちを助けることは、私にとって利が無かった。だから助けなかったのよ」
「……」
リンドは黙り込む。言葉を返したところで、アリアの一貫した考え方を覆すことはできないと分かっているのだろう。
彼は黙ったまま、ベッドから這い出た。そしてぼろぼろの上衣を手に取って、身支度を始める。
そんな彼に、アリアは答えの分かっている問いを投げかける。
「どこへ行くの?」
「川下」
とリンドは端的に答える。
そんな彼に、アリアはさらに問うた。
「リンド。あの子たちのこと、守ってあげたい?」
「ああ」
とリンドは即答する。
だが、それは彼女が想定した通りの答えだった。
「そう。―――それなら、彼女たちを連れるのはもうやめなさい」
アリアの冷ややかな言葉に、リンドはその動きを止めた。




