43.偽英雄(前編)
星も月も塗り潰されてしまったような漆黒の夜の中に、リンドだけがぽつんと残されていた。
やがて、声がする。
「人にはそれぞれ、与えられる役というものがある」
その声を、リンドは知っていた。
「それは例えば、英雄の血筋かもしれないし、魔法の国の王かもしれない。或いは酒場の看板娘かもしれないし、鍛冶屋の跡取り息子ということもあるだろう」
ギルト・アルバート。リンドの父の声だ。
何度も聞かされてきた言葉だ。
「何の役を与えられるかは、生まれてみなければ分からない。確かなことは、生まれたその時点で役は決まっているということだ」
常と変わらない父の声は、厳かに響いてくる。
そして、最後はこう締め括られる。
「―――与えられた役を全うしろ。何があろうと。最後まで」
……否、それで終いでは無い。
父の言葉には続きがあったはずだ。
リンドは闇の中に溶けたその言葉を探す。
しかしそれはもう、そこには残されていなかった。
*
リンドは、はっと目を覚ました。
微かに日が差し込む石造りの宿の狭い一部屋。そのベッドの上に、もう十八歳のリンドは身を横たえていた。
ベッドが置かれているだけの部屋は、しかしその粗朴さとは裏腹に暖かく感じられた。
リンドは黒髪の癖っ毛頭を掻いて、くあと一つ欠伸する。それから切れ長の眠たげな目を擦ると、掛け布を引き寄せごろりと寝返りを打った。
すると目の前に、すやすやと寝息を立てている女の顔があった。
やや乱れた長い赤茶の髪が頬を流れその肩に掛かっている様は艶やかだが、背を丸め身体を縮こまらせて眠る様はまるで子供のようだ。
やがて彼女の瞼が、ゆっくりと開かれる。そして、とろんとした眠たげな目がぼんやりとリンドの顔を映した。
「……んっ」
その上品な口元が、意味を成さない声を漏らす。喉に掛かったような声は、どこか艶めかしい。
しかし暫くすると、彼女の目が徐々に大きく見開かれていく。
「え……!?」
また声を漏らして、フレアはベッドからがばと慌てた様子で身体を起こす。そして身を抱きながら、リンドを前にしてずるずると後退した。
「何……、どういうこと……!?」
「それは俺が訊きたい」
とリンドは、そんな彼女に呆れ交じりの声を返す。
「昨日のあの豹変ぶりは、どういうことだ」
「ひょ、豹変……?」
「えー、覚えてないんですかァ?」
戸惑うフレアに、隣のベッドの上からニーナが声を向けた。
彼女は恥じらうように両手を頬に当てながら、大袈裟に身を捩って見せる。
「昨日の夜、お酒に酔ってあんなことしちゃったのに?」
「あんな―――!? 何、何したの私っ!?」
さっと顔を青くして動揺するフレアに対し、ニーナは「言えませんよそんなこと……」とまた恥ずかしそうな仕草を見せる。
気持ちは分かるが、これ以上続けるとフレアが卒倒しそうなのでリンドは口を開く。
「ニーナ、それくらいにしとけ」
「……えー」
と不服そうにする彼女に、リンドはじとっと恨みがましい視線を向ける。
「大体、お前は途中から面倒避けて一人で寝ただろ」
「いや、起きてましたよ。隣のベッドから見てました」
「余計悪質だ……」
ニーナにしっかり文句を言ってから、彼はベッドの傍らで固まっているフレアに目を向けた。
「リンド……。わ、私……!」
今にも泣き出しそうな彼女に、リンドは頭を振って見せる。
「お前は俺に文句以外のものを寄越しちゃいない」
「ほ、ホントに……?」
「本当だ。夜更けまで答えろ答えろって煩かったけどな」
言うと、フレアはようやく強張った身体を弛緩させて、はあと安堵の息を吐き出した。
それから、ちらとこちらを窺うように見る。
「因みに、何を訊こうとしてたの私……?」
「いや……」
とリンドは言葉を濁して、ベッドに仰向く。もう押し問答するのは懲り懲りだ。
「大した話じゃない」
言って、そのままリンドはしばし不足した分の睡眠を取った。
そうしてリンドたちは想定よりも長く宿に留まることになってしまったが、日が天辺まで昇り切る頃には宿を出ることができた。
外へ出ると、長く降り続いていた雨は止んでいた。
未だ空は厚い灰の雲に覆われているが、雨粒は落ちてこない。出発するには十分な好天と言えた。
先頭をリンドが行き、ニーナとフレアがその後に続く。
境界の大橋へ向かうその間、誰も言葉を発しなかった。ニーナもフレアも、流石に緊張しているのかもしれない。リンドも同じだった。
そうして黙っていると、街の静けさを感じる。
戦いの音がしないのだ。前に来た時のように、今は境界線上での争いが起きていないようだった。
橋の向こうに誰もいなければ良いのだが……とリンドは有り得ないことを思いながら、街の中心部へと歩を進める。
やがて、中央の大通りが視線の先に見えてくる。
通り沿いを流れる大河は、昨夜までの雨で相変わらずざぶざぶと音立てて流れていた。
逆に言うと、耳に届く音はその荒れた川の音だけだった。
流れる川の音以外の音に注意しながら、リンドは足を繰る速度を緩める。そして大通りへ出る直前のところで一旦足を止めてから、ひょことその先を覗いた。
橋の傍には、純人王国兵の姿も魔法王国兵の姿も無かった。
この間の戦いは幻で、実際のところここには誰もいないのではないか。そう錯覚してしまいそうなほどに、前線は落ち着いていた。いっそ不気味にすら感じる静けさだ。
「―――誰もいない。運が良いですね」
リンドの隣でそう言うニーナだが、その声にいつものような弾んだ調子は無い。
彼女も目の前の光景が全てでないことくらい、当然分かっているのだ。その上で、少しでも自分たちを落ち着かせる材料を探している。
ニーナの声に、フレアもまた明るく装った言葉を重ねた。
「そうね。今の内に、早く渡っちゃいましょ」
その言葉をわざわざ否定する意味は無い。
故に、リンドも頷く。
「……そうだな」
静かに応え、大きな石橋に向かって歩を進めた。その足が怯んで止まってしまう前に。
大河の上流側から下流の方へ向かって、大通りをただ黙々と進む。そして通りの中途に架かる大橋に差し掛かったところでくるりと方向転換し、何を思うでもなくすぐにその橋を渡り始めた。
こつこつと彼らの靴が石橋を叩く音が鳴り響く。そのすぐ下では、大河がどどどと岸を打ちながら流れていく。
大河を渡す橋は、さして長くないはずだ。だが今のリンドには、向こう側がずっと遠くにあるように感じられた。
その向こう側―――魔法王国を目指して橋の半ばまで至ると、俄かに空気がざわつき始める。
「リンドさん」
「リンド」
「……ああ」
後背から掛けられる二つの声に、リンドは「分かっている」と伝える。
待ち受けていた者たちが動き出したのだ。
やがて、前方に見える砦から魔法王国の兵たちが現れ、その前に広がって布陣する。中央の一番先頭に立っている男が隊長だろうか。先陣を切っているところを見るに、前線の指揮を任されている人物なのかもしれない。先の戦いでは見かけなかった若い男だ。リンドと同い年くらいに見えた。
その男を「見かけなかった」と断言できる理由は、その恰好にあった。後ろで小札鎧や鎖帷子を身に纏い兜を被っている者たちは顔が見えにくいし似たような姿なので見分けがつきにくいのだが、その男は厚手の紅色を基調とした布服を纏っているだけなのだ。
兜も無く、ただ質の硬そうな黒髪がやや棘々とした型を作っている。顔もよく見えるので、その左の頬から目元付近にかけてある印象的な十字の焼印がはっきりと見て取れた。腰には剣を差しているが、それは彼の右側。左利きなのかもしれない。
男の姿をリンドが観察していると、後方ではフレアが別のところを観察していた。
「……純人王国の兵は、出てこないわね」
その声にちらと視線を振り向ければ、未だがらんと人気の無いもう一つの砦が見える。ダートはこの件に一切手出ししない気でいるらしい。
端から援護など期待していなかったので、驚くことでは無いが。
一方、ニーナは前を見て呟く。
「―――攻撃してきませんね」
「待ってるんだろ」
とリンドはその声に応える。
「俺たちが簡単に退けないところまで来るのを」
「え、それ大丈夫なの……?」
声を漏らしフレアがその歩速を緩めるが、リンドは足を止めない。
「待ってたって向こうは退いてくれない。―――行くしかない」
最後の言葉は自身にも向けて、彼は一歩また一歩とその足を魔法王国へ進めて行く。
近づくにつれて、敵兵が戦闘準備を整えていく様が見て取れた。半数は弓に矢を番え、もう半数はその胸の前で十字を切る。魔法構築の前段階が済む度にぽつぽつと増えていく赤い光は脅威が増していることを示しているわけだが、次第に淡く紅い輝きが広がっていく様は敵ながら美しい。
その危うい光に向かって一歩ずつ近づいていくと、先の隊長と見られる若い男が口を開いた。
「―――リンド・アルバートだな?」
「ああ」
とリンドは答える。先にダートによって告知されたのだ。誤魔化しようも無い。
すると男はその右手で十字を切りながら、低い声で唸る様に呟く。
「ようやく来たな……、まずは一人目」
「お前は誰だ? 名前を訊いたなら、お前も名乗れ」
対するリンドは、感情を抑えた淡々とした口調を彼に向けながら足を進める。
それに男は、怒りを押し殺したような危うい静かな声で応える。
「マーシャル・イージス。今はな。―――アルバートが記憶することもなく蹂躙した魔法人の息子だ」
今にも怒りを爆発させそうな彼―――マーシャルを前に、リンドは変わらぬ落ち着いた声音で言葉を向けた。
「マーシャル、俺は殺し合いをしに来たわけじゃない。ソートリッジに話を聞きに来ただけだ」
すると、マーシャルの眉がぴくと反応する。
「……ソートリッジに?」
「ああ」
と頷き、遂に橋を渡り切ったリンドはそこで足を止めて相手の出方を窺う。
しかしその相手は、思わぬことを口にした。
「なら、とんだ無駄足だったな」
「……どういうことだ」
心持ち首を傾げるリンドに、彼は冷たい声音で告げる。
「ソートリッジは、もういない」
「それはどういう……」
同じ問いを向けようとしたその時、不意にマーシャルの右手の平がこちらを向いた。
「―――燃焼」




