40.偽英雄が聞いた少女の決意
さっと吹き抜ける風の如く、少女は一瞬にしてリンドの視界に入ってきた。そしてその爪を振り下ろそうとしたカリストの脇腹付近を勢いよく蹴りつけて撥ね飛ばした。
「ニーナ……!」
と声を上げるフレアに視線を向けると、彼女はにっと笑む。
「やっぱり私がいないとダメですね」
「悪い……、助かった」
リンドもその小さな背に追いついて声を掛ける。その声にニーナは、得意げにむんと胸を張って見せた。
「……どうなってやがる」
濡れた地面に仰向いたカリストが、その上体を起こして漏らす声が聞こえてくる。
「腰抜け剣士と威勢だけの魔法人の次は、馬鹿力の子供かよ」
そしてその目が細められ、無遠慮にニーナを観察する。
「まさか『最高傑作』……? まさかな。匂いも違う」
「うわ喋ってる気持ち悪っ」
一方視線を向けられたニーナは、ぶつぶつ呟く魔物を見て引いていた。
緊張感も、町の外で見た硬さも無い。
吹っ切れたのなら、良いのだが。
リンドたちが集合して態勢を立て直すと、カリストもまたゆっくりと起き上がってこちらを見る。
その顔は、恰も喜んでいるかのようだった。
「お前、『研究者の町』の出だな?」
「何ですかそれ。初めて聞きましたけど」
声を向けられたニーナは眉根を寄せるが、カリストは一人で勝手に得心したように笑う。
「面白ェ……!」
言うが早いか、カリストはまた一跳びでこちらに接近してきた。
それを迎え撃つのは、ニーナだ。振り下ろされる腕を跳び蹴りで打ち、相殺する。さらに振り薙がれる爪の一撃も、引き抜いたナイフで打ち払う。
力は互角に見えた。しかし徐々に、ニーナが押される。体格差の分、力比べでは彼女の方が若干劣るのだろう。
しかしそれは、ニーナとカリストとが一対一で打ち合った場合に起きる劣勢に過ぎない。リンドが横から剣を薙げば、カリストはそれを防ぐために片腕を使う。
剣がその腕を断てなくても、ニーナは魔物の片腕が塞がったその一瞬の隙にナイフを振り上げ、さらに強烈に蹴りつける。
「ぐッ……!」
浅いが胸の辺りに刃が入り、腹に蹴りを受けたカリストの身体が飛ぶ。
カリストは地を転げながらも、爪を立ててその勢いを殺した。そしてすぐに崩れた体勢を立て直すが、そこにもう一人の声が飛んでくる。
「燃焼っ!」
アニーを背に庇いながら叫ぶフレアの声。それに反応してカリストはすぐ跳び退くが、今度は炎が巻き起こる方が早い。
「あァァッ……!」
下半身を焼く炎に、カリストが悲鳴を上げる。そして激しく地面を転げてその火を消しにかかった。
そこへさらにニーナが跳び込んで行き、踵を落として追撃する。
しかし、それは当たらない。カリストはばっと後方へ跳んで、リンドたちから距離を取った。
場が静まる。
その静寂の中に、カリストのやや乱れた呼吸が聞こえた。
カリストは胸から少量だが出血し、後ろ脚も火こそ消えたが毛が焦げていて火傷を負っている。
形勢は完全に逆転していた。
それを悟ったのか、カリストは静かに口を開く。
「……借りは、返す」
言って、町の壊れた壁に向かって跳ぶ。そしてその壁の外へと去って行った。
カリストの姿が消えると、フレアがふうと安堵の息を吐き出す。
「もう……、何なのよあれは」
「魔物ですよ」
とそれにニーナが静かに答える。
その目は、まだカリストが消えた町の外へ向いている。
「もう魔物です」
その言葉はリンドの耳に引っ掛かった。
意味を問おうとすると、その前に彼女はすたすたと歩き出す。
「どこ行く」
問うと、背中越しに答えが返ってきた。
「家、無いんでしょう? ありますよ、こっちに」
そう言うと彼女は、さっさと先へ歩んで行ってしまう。
詳しく訊く間も無い。リンドはフレアと互いに顔を見合わせるが、ひとまずアニーを連れてその後を追った。
*
町の北端から、中心部を抜けて南端の地域へ。ニーナは黙々と歩いて行った。
そんな彼女の背に、フレアが今日知ったことを話した。
「ニーナ、バリスタ家は有名な商人の家だったの。だからアニー君にも、あんたにも家はあるのよ」
「―――ふうん」
とニーナは、そう返しただけだった。他には何も言わない。
全く興味が無い、と彼女はその態度で語っていた。
それから彼女は一度もこちらを振り返ることなく歩き続けて、不意にその足をぴたと止めた。
そこには、小さな家があった。木造のそれは造りこそ周囲の建物と変わらないが、大分傷んでいるように見えた。
「これは……?」
「私の家です」
フレアの疑問に、ニーナはすぐ答える。
「ちゃんと残ってましたね。その辺の家無しに預けといて正解でした」
言って、彼女はその戸を叩きもせずにぎいと開いた。
すると中にいた中年の男が、びくと驚いた様子でこちらを見る。彼がニーナから家を預かった男なのだろう。
「―――あ」
とさらに目を見開くその男には、見覚えがあった。
ついさっき見たばかりの顔だ。
「お前っ……!」
とアニーが声を上げる。どうやら間違い無く、アニーの家を潰した男のようだった。
「この家があるのに、アニーの家にまで手を出したのか」
「酷いっ……!」
リンドが呟きフレアが怒りを露わにすると、男は床に這い蹲って釈明する。
「違うんだ! 俺はただもっと良い暮らしがしたくて、だからここはもう手放すつもりで―――!」
「ええ、手放して下さい」
とそれにニーナが応えた。
「私が戻ったので。―――そういう約束でしたよね?」
「い、いや待ってくれっ! ついさっき向こうの家にこいつらが突っ込んできて、壁が壊れちまったんだ! せめてそれ直すまでは……!」
「知りませんよ、そんなこと」
男の説明に対して、しかしニーナは素っ気無く返す。
「いいから、早く出てって下さい」
「だから、向こうの家は今―――」
「早く」
ニーナの冷たい視線を受けて、相手の男は青褪めた顔で言葉を失う。反応を見る限り、彼は既にニーナの恐ろしさを目の当たりにしているようだった。
彼は諦めた様子でがっくり項垂れると、リンドたちの横を通り抜けて家を出て行った。
「―――どうしよう。壁どころじゃないわよね……」
こそっとフレアに耳打ちされるが、リンドも頭を掻くしかない。
少々気の毒ではあるが、しかし手にした家に飽き足らず欲張って他人の家も奪ったその報いではある。反省しながら文字通り立て直してもらうしかあるまい。
預け主を追い出すと、ニーナは入ってすぐのその場所にしゃがみ込む。
そしてその床をそっと撫でた。
「……お母さんを、ここで殺したんです」
不意に呟くように言った彼女の声に、誰も言葉を返すことができない。
彼女もまた、相槌を求めてはいないようだった。
一人、追憶するように語る。
「私を置いて父親を追って行ったお母さんは、ここに一人でいました。それで私を見て、『良かった』って泣いたんですよ? ―――おかしいでしょ」
ニーナは鼻で笑う。もっとも力無く吐き出された乾いた笑いからは、ただただ空虚さしか感じられなかった。
彼女自身もその虚しさを感じたのか、続く言葉に茶化すような色は無い。
「……おかしいと気付けば良かった。でもその時の私は、何も考えられなかったんです。―――分かったのは、お母さんが動かなくなってからです。お母さんが父親を止めようとしたんだって、その時になって気付きました」
彼女の言葉を聞いて、リンドはようやく彼女の取っていた行動の理由を理解した。
ニーナの自罰的な戦い方は、母を殺した罪悪感に対するものだったのだ。
「お母さんは、私を売らないようにずっと父親を止めてたんですよ。でも止められなくなって、だからあの日『私を一人にしないで』って―――、ニーナと引き離さないでって言ったんだって、やっと分かった……」
「あの日」とは、彼女が売られた日のことだろうか。
「私を一人にしないで」と、彼女の母親がそう言ったのだろうか。
リンドには、具体的なことは分からない。分かることは、彼女にも向けられた愛があったということだ。
自身の中に溜まっていたものを吐き出すように話し続けていたニーナは、やがてぺたんと両膝をついて床に伏す。
その小さな身体は、小刻みに震えていた。
「お母さん……。お母、さん……!」
やや腐ったその床に頭を擦り付け、爪を立てながら、小さな少女は呻く。
その苦しげな声に応える言葉は見つからない。リンドは、ただ見守ることしかできなかった。
しかし一頻り泣くと、彼女は顔を上げて一人で立ち上がった。
こちらを向いたその目は赤くなっているが、表情はもう落ち着いていた。
ニーナの視線は、アニーの方へ向けられていた。
「……私、決めたことがあるんですよ」
と彼女は口にする。
「ソレは殺しません。もう殺さないって、お母さんにも誓ってましたし」
その言葉に、フレアがほっと胸を撫で下ろす。
しかし、彼女の言葉は続いた。
「だから殺すんじゃなくて、死ぬのを待つことにします」
「はぁ!?」
安堵の表情を浮かべていたフレアは、一転驚愕の表情で声を上げた。
「あんた何言ってるの!?」
しかし当のニーナは、澄まし顔のまま言葉の意味を語る。
「私の方が、長く生きるって言ったんですよ。長く生きて、それでソレが先に死んだ時に『ざまあみろ』って言ってやるんです」
「ふざけんなッ!」
とそんな彼女に、アニーが噛みつく。
「絶対にお前の思い通りになんかならない! 俺の方が長く生きてやる! 先に死ぬのはお前だっ!」
声を荒げるアニーとは対照的に、それを聞いたニーナはふっと笑む。
「まァ、精々頑張ってくださいね。早くに死なれたら、面白くないですから」
言って、彼女は家を出て行く。その場に立ったままのリンドに「行きましょう」と告げて。
「待って!」
とフレアがそれを止めた。
「まだアニー君の家の問題が―――」
「家なら、ここを使えばいいです」
とニーナは即座に言葉を返す。
「ソレを助けるのは嫌ですけど、誰かに預けとかないと潰されかねないですし」
それなら何故先の男を追い出したのか……とは、リンドは訊かなかった。敢えて訊くべきことでは無いだろう。
その行動の理由が彼を救うためなのか、はたまた問題を早く片付けるためなのかは分からない。しかしそれは、些末なことだ。
彼女は行動した。それで十分なはずだ。
「何で俺がお前の家の留守番なんか―――!」
「それなら、どこだかの立派なお家に行きますか? それでも良いですけど」
ニーナが言うと、アニーはぐっと言葉を詰まらせる。
バリスタの本家に入ることは、よほど嫌らしい。
ニーナにしてもアニーにしても、既に本家バリスタとは別の生き方を見つけているということなのだろう。
「……俺は礼なんか言わないぞ。魔物から守ったことにも、家を預けたことにも」
アニーは唸るような低い声でそう言う。
「何をしたって、お前がやったことの償いになんかならない」
「当たり前でしょう」
とそれに対して、ニーナは不敵な笑みを浮かべて答える。
「私は償おうと思ってやってませんし」
彼女の言葉に、アニーはもう何も言葉を返さない。
ただ真っ直ぐに、ニーナを睨み据える。
対するニーナも、黙ってアニーを見返していた。
一時の沈黙。
しかしそれは、すぐに終わる。
ニーナが踵を返し、家を出て行く。別れの挨拶などあるはずも無い。
だが、それも一つの折り合いだ。
ニーナが悩んで悩んで、やっと見つけた妥協点なのだ。それにリンドが口出しできようはずもない。
故にリンドもまた、静かにその場を後にする。
ただ一人フレアだけが膝を突いて彼と目線を合わせ、その両肩に手を置いて優しく言葉を掛けていた。
「元気でね。一人で頑張るのも良いけど、辛くなったら『助けて』って言って良いのよ。私はすぐに駆けつけられないかもしれないけど、血の繋がった家族は傍にいるんだからね」
「……」
彼女の言葉に、アニーは言葉を返さずに俯いていた。
だがフレアが立ち上がると、小さな声で「ありがとう」とそれだけ口にする。その声に彼女は優しく微笑むと、リンドたちの方へと歩んできた。
「良い母親になれそうだな」
リンドが声を向けると、彼女は「そう?」とはにかむ。満更でも無さそうだ。
「早く行きましょうよ!」
とそこにニーナがやってきて、リンドの手を引く。
それに従って外へ出ると、やはりさらさらと小雨は降り続いている。
だが不思議と、夕暮れに向かっているはずの曇り空は幾分か明るくなったように見えた。




