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不浄のアルバ  作者: 北郷 信羅
第3章 境界の街を目指した彼らは
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39.偽英雄の覚悟

 ぽつりぽつりと落ちてくる雨粒がリンドの髪をしっとりと濡らし、重くなった前髪が視界を邪魔する。リンドは頭を振ってその水滴を払った。

 視界の先に見える二足で立つ熊の魔物も、この雨で全身の毛に水滴が乗っている。しかし小さな雨粒がその硬そうな毛を(しな)らせることは無い。魔物の吊り上がった口の端からは、降り掛かるものを物ともしない余裕を感じた。


「戦おう」


 と熊の魔物―――カリストは繰り返し、その後ろ脚をぐぐと曲げる。


「強い奴に勝つことは、俺にとって大事なことだ……!」

「……よく喋る熊だな」


 対するリンドは、剣を構えながら呟く。


「お前はもしかして、海の向こうから来たのか? 向こうの国の熊は、皆喋るもんなのか―――」


 彼の問いに、答えは返ってこなかった。

 代わりに振り下ろされる太い腕。リンドはそれを(すんで)の所で(かわ)す。


「なっ……!?」


 フレアが素っ頓狂な声を漏らす。リンドも声を出すことこそ無かったものの、同感だった。

 あっという間に間合いを詰められた。リンドの想定を上回る異常な速さでだ。

 駆けたのではない。跳んだのだ。地面をたった一蹴りしただけで、カリストはリンドたちの目前まで重そうな体を一瞬で移動させた。

 それは熊の動きでは無いし、獣の速さでも無い。


「躱すか。やっぱり強ェな、お前……!」


 カリストは何故か嬉しそうな声を吐きながら、さらに鋭い右の爪で掻いてくる。

 その一撃は退いて避けるが、矢継ぎ早に放たれる次の左の一撃はもう避けられない。リンドは剣でそれを受けた。がりっと鋭い爪が剣身を掻く。

 受け止められる威力では無かった。重い体を跳ね上げられるだけの脚力は、当然後ろ脚だけであるはずがない。

 力を逸らすこともできず、リンドは雨に泥濘(ぬかる)む地面を転げた。


「リンドっ!」


 と声が飛んでくるが、それに彼は転がったその格好のまま即座に返す。


「自分を守れ!」


 いつもより鋭く飛んだ声に、フレアが「分かってる!」と応じてカリストと対峙する。


「お前は、何ができるんだ……?」


 相手が強者であることを期待するかのように、カリストはにやと口元を歪ませながら問う。

 それに対してフレアは、準備していた力ですぐに答えた。


「何でも出来るわ! ―――燃焼(フィーレ)っ!」

「―――っ!」


 詠唱と同時にフレアが突き出した右手を見て、驚いたようにカリストが一瞬ぴたと固まる。まるで純人王国に魔法人がいないことを理解しているような反応。

 そんな魔物の足元から炎が上がるのと魔物が跳び退くのとは、ほぼ同時だった。


(あッつ)!」


 火がついた後ろ脚を地面に擦りつけて、カリストが叫ぶ。

 その間に、フレアはリンドの方へ駆けてくる。まずは合流という選択は妥当だろう。

 ただ、位置関係が良くない。リンドは後方をちらと見やってから、その場を移動する。

 しかしその前に、カリストの方が再び動いた。またも一跳びで、一気にフレアに接近する。

 対する彼女は短剣を引き抜いて、眼前に迫ったカリストを斬り付ける。次の魔法の構築がまだ済んでいないのだ。


「無理に攻撃するな! 右腕がくる―――」


 声を飛ばしたリンドがその場へ至る前に、カリストの右の一振りがフレアを捉える。

 彼の声で鋭い爪は避けたものの、振り回された太い腕を短剣越しに真正面から受けたフレアの身体は撥ね飛ばされた。


 こちらへ向かって飛んできた彼女を放っておくこともできず、リンドは彼女を受け止める。

 否、止めることはできなかった。勢いは殺せず、フレアを庇ったリンドは彼女と一緒に後方の一軒家に突っ込んだ。

 幸いと言うべきかその木造の家は脆く、ぶつかるとすぐにばきばきっと壁が壊れてその衝撃を和らげてくれた。


「ごめん大丈夫っ!?」


 彼の身体の上で身を起こしたフレアが、心配そうな声を出す。

 リンドはそれにすぐ応えた。


「いいから早く退()け。重い」

「おもっ……!」


 がんとショックを受けた様子のフレアを退かして、リンドはすぐに開けた視界にカリストを探す。

 カリストはこちらの様子を窺っていた。そして、ぐっとその後ろ脚を曲げる。


「来るぞ」


 とリンドが言うと、フレアが綴り終えた魔法を呼んだ。


氷結(イーシェ)っ!」


 彼女の声に応じてその前方で急速に起こる氷結は、丁度跳び出したカリストを襲う。

 カリストは魔法に気付いてすぐに跳び出した勢いを止めるが、間に合わずにその後ろ脚を氷の中に閉じ込められた。


「ぐゥ、あァァッ!」


 カリストは雄叫(おたけ)びを上げてその氷を叩く。その一撃だけで、大きな氷塊にはヒビが入る。恐らくすぐに砕かれてしまうだろう。


「なッ……何だぁッ!?」


 不意に背に響く声がして、振り向けば壊れた家にいた中年の男が驚きと恐怖とが入り混じった顔でカリストを見ている。


「何であんな怪物が町にっ―――」

「逃げろ」


 その場で固まったままの男にリンドが声を向けると、彼は我に返った様子でばたばたと家を飛び出していった。流れは良くないが、逃がすことはできたので良しとすべきだろう。

 考えている内に、(くだん)の怪物は氷を砕いて自由を取り戻す。


燃焼(フィーレ)!」


 とほぼ同時に魔法を完成させたフレアが詠唱するが、一歩遅い。カリストは炎を躱すと、こちらに向かって跳びかかってくる。


「行くぞ」

「う、うん!」


 フレアを引っ張る様にして走ったリンドの後方で、カリストが跳び込み家がぐしゃっと音立てて潰れる。それでこの場はすっかり綺麗になってしまった。

 手を引きフレアをカリストから離すと、リンドはその間に立って剣を構え直す。そこへ再び、カリストは襲いかかってくる。


 振り下ろされる鋭い右の爪を躱す。

 直後に振り薙がれる左の一閃を剣で受け流す。


 カリストの動きは速い。だが速いと分かってしまえば、対処できない速度では無い。

 リンドはその速さを―――それ以上の速さを知っているのだから。


 故に、素早く放たれる爪の一撃を逸らすことができる。

 太い腕を振り回されても、即座に身を低くしてやり過ごすことができる。

 そしてその大振りを掻い(くぐ)れば、反撃の機会はそこにあった。


 リンドはカリストの空いた脇腹目掛けて、剣を振り薙ぐ。

 カリストは身を引くが、その間合いなら剣身は届く。

 彼の剣が、カリストの脇腹を捉えた―――。


「―――あ?」


 とカリストが声を漏らす。

 リンドの剣はカリストの脇腹に当たっているものの、その腹を裂けてはいなかった。

 当たっているだけ。


 カリストの顔が歪む。

 それはまるで、(いか)っているようだった。


「ふざっけんなよッ……!」


 そう吐いた刹那、その太い腕が振り薙がれる。

 恐らく、これまでで一番早く鋭い一撃。

 リンドは身を引き剣で受けるが、逸らすことはできない。強い衝撃が剣身を通じて伝わってくる。

 そして彼の身体は撥ね飛ばされた。


「リンドっ―――!」


 フレアの声が、一気に過ぎ去る。

 それからその身は湿った地面に落ちて転がり、泥に(まみ)れた。


「何のつもりだ、てめェ……!」


 ずるりと身体を起こして顔についた泥を擦るリンドに、カリストの言葉が飛んでくる。


「手加減するたァ、どういうつもりだ……!?」

「―――どういうこと?」


 カリストの言葉に、フレアが戸惑いを口にする。


 無論、リンドには伝わっている。

 斬らなかった。

 斬れなかった。

 迷った。


「……お前は、何だ」


 リンドは、静かに立ち上がって問う。

 その問いに、カリストは不愉快そうな声を出した。


「何か? 人か魔物かって? ―――それでお前は、斬る斬らないを決めるのか?」

「……」


 リンドが黙っていると、フレアが声を上げる。


「リンド、さっきも言ったわ! 魔物の言葉に惑わされないで! ただ人の言葉を繰ってるだけよ!?」


 人の言葉を繰る魔物。

 その通りかもしれない。

 ―――だが、もしも逆だったならば。


 リンドの頭に、記憶の一場面が蘇ってくる。

 夕暮れの酒場。

 ギルトが振り下ろす剣。

 それがサーシャの父親の命を断つ瞬間。


 人を殺せば、自分も同じになってしまう気がした。


 これまでに幾度か、覚悟を問われたことがあった。

 それに答えたことも、答えなかったこともある。

 果たして自分は、何の覚悟を決めたのだったか―――。


 リンドはその剣を握り直して、前を見据える。

 フレアが魔法を唱えている。しかし巻き起こる炎はカリストを捉えられず、それを躱したカリストは猛然とリンドに向かってくる。


 迎え撃たねばならない。

 その剣で返り討ちにせねばならない。

 リンドが、己の道を進むために。


 カリストが振り下ろす左の爪を受けて逸らし、身を翻してその剣身で逆を突く。

 リンドが振り抜こうとする剣を、カリストは右腕で受けようとする。

 それで()い。右を使えなくすれば、戦況はこちらに有利に―――。


 だがリンドの剣は、再びその腕に押し当てられただけだった。


 その右腕が剣を払い退け、左の爪が突き出される。

 それを寸でのところで避けるが、突き出された左腕が薙がれてリンドの身体を弾き飛ばす。

 受ける体勢にはなっていたものの、威力は大きい。

 ただそれよりも、自身の迷いを払えなかったことに対するショックの方が大きかった。

 またも泥を()めさせられたリンドは、一時放心状態で固まる。


 その耳に、強い女の声が響く。


氷結(イーシェ)!」


 彼女の声と同時に、空気を震えさせる氷結の音が鳴り響く。

 しかしその声に続くのは、彼女の悲鳴だ。


「やッ……!」


 どしゃっと続く音にがばと身体を起こせば、視界の向こうでフレアもまた地に伏していた。

 そしてカリストは、彼女に静かに近づいていく。


 彼女を救わねばならない。

 リンドはぐっとその手に力を込めて立ち上がろうとする。しかしそこで、その手に剣が無いことに気付いた。

 剣は、彼の後方に転がっていた。

 手放してしまっていた。


 後悔しながらそちらへ駆け出すと、その後背でまた声が上がる。


「わぁァァッ!」


 その声を知っている。

 まだ子供の声だが、確かな信念を持った男の声。


 振り返れば、恐らく路地から飛び出してきたアニーがカリストに向かって短剣を突き出していた。

 フレアを守るための勇猛果敢な一突き。

 しかしそれは、魔物の腕の一振りであっさりと撥ね退けられる。

 短剣が濡れた地面に突き立ち、アニーはその場で尻餅をついた。


 そんな彼を見下ろして、カリストはにやと口の端を持ち上げる。


「立派な英雄だなァ。向こうの腰抜け剣士とは違う」


 そして、その爪を振り上げる。


「英雄には、名誉ある死をくれてやる」

「アニー君ッ!」


 と立ち上がって駆けたフレアは、簡単にまた地面に転がされてしまう。

 魔法はもう、間に合わない。


 リンドが行かねばならない。

 剣を取った彼は、走る。だが、カリストとの距離を詰めるに十分な時間が無い。その距離では、彼の足では、間に合わない。

 カリストが振り下ろす一撃に対して、リンドはその左手を握り締め―――。


 そしてカリストの一撃は、アニーを捉えなかった。


 退魔の力では無い。

 それを使う前に、カリストの身体が撥ね飛んだからだ。

 小さな少女の強烈な一蹴りによって。


「―――勝手にソレ、殺さないでくれます?」


 彼女は魔物に向けて、そう言い放った。

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