35.偽英雄と魔女の影
境界の街を吹く風は無い。開け放した窓から雨が吹き込んでくることは無かった。夜闇に溶け出した街からは、ただしとしと降る雨音だけが流れ込んできていた。
「さっきも出てきましたね、その『魔女』って言うの。フレアさんのお姉さんはそう呼ばれてるんですか?」
ニーナの問いに、リンドは頷く。
「アリア・クリストンは、幼い頃から『神童』と呼ばれていた。今じゃ『魔女』って恐れられてるらしい」
「―――何でよ!?」
不意に、フレアが叫んだ。
「どうして私が、あの人のエサなのよ!」
「家族だからだろ」
とそれにリンドは冷静に言葉を返す。
「ダートだけじゃない。ギルト王も『魔女』を探している。お前がどこへ行っても連れ戻されない理由はそれだろう」
言うと、フレアは唖然とした様子を見せる。
しかしそうで無ければ、彼女はとっくにどこかの街の門で捕まって王都に戻されていたはずだ。リンドと会うことすら無かっただろう。
ギルト王もまた、フレアを泳がせてアリアとの接触の機会を窺っていたのだ。
「そんなの……冗談じゃない!」
怒りに顔をかっと赤くして、フレアは寝台を離れる。
向かう先は、部屋の出入口だ。
「どこ行く」
問うと、フレアはきっとこちらを睨む。
「エサなんて御免だわ! 今すぐ出て行く!」
「今出たら、却って繋がりを疑われる。今夜はここで過ごして、接触が無いことを示した方が良い」
とリンドは諭すが、フレアの怒りは収まらない。
「知らない!」
と言って、部屋の扉を勢いよく開いた。
するとその外には、兵士が二人立っている。二人はフレアの前で槍を打ち合わせ、行く先を遮った。
「通して!」
「なりません」
フレアの声に、兵士たちは応じない。
しかしフレアの方も、引き下がらなかった。
「お手洗いよ! 行かせて!」
「では、ご案内致します」
「いいわよ! 一人で行くから!」
「なりません」
「―――ふざけないでっ!」
苛立つフレアは、その胸元で素早く十字を切った。そしてその掌から赤い光が漏れる右手を、兵士たちに差し向ける。
その紅色の光を前に、兵士たちの表情がやや硬くなる。
「邪魔をすると、火傷するわよ……!」
「止めておけ」
リンドは感情的になる彼女に歩み寄って、制するようにその肩を掴む。
しかし、即座に撥ね退けられた。
こちらをじろっと睨むフレアの様子から、リンドは姉妹の間の確執を感じ取る。確執……と言うような相互的なものではなく、その感情はフレアからの一方的なものなのかもしれないが。
彼女は先に、アリアが家族を放って出て行ったと話していた。この激情を引き起こす原因は他にもありそうだが、リンドにできそうなのはその誤解を解くことくらいだろう。それについては、リンドにも責任があるのだから。
ただ、あまり迂闊にできる話では無いので、人に聞かれないように注意する必要があった。
「フレア―――」
とリンドがそれを口にしようとした時、不意にこつこつと足音が部屋に近づいてきた。
「……思っていたより、早かったな」
部屋の前まで歩んできたダートが口にする。
「リンド、お前が教えたのか」
「黙ってるのは、性に合わないからな」
リンドが返すと、彼はふっと嘲笑する。
「そのせいで騒ぎになっているようだが?」
「……」
「私を今すぐ外に出してっ!」
とそこに、フレアが割って入ってくる。
「何のためにアリアを捕まえたがってるのかは知らないけれど、私を巻き込まないで!」
「随分な言われようだな。あの魔女も」
ダートは呟き、それからフレアが知りたがらない『理由』の方を語った。
「魔女の行方はギルトも追っている。それだけその存在が不都合ということだ」
「だからその魔女をあんたが先に押さえて、ギルト王と交渉しようって腹積もりか……」
呟いてから、リンドはふうと息を吐き出す。
「―――それは無理だろ。相手が悪過ぎる」
言うと、ダートはふっと鼻で笑う。
「あの女を慕うお前の言葉は、信用に値しないな。―――陶酔、盲信と言う方が適当か」
「リンド、ちょっとどういうこと?」
「幼馴染だったってだけだ」
フレアが食いついてくるが、リンドは適当に往なしてダートを見返した。
「規格外で無ければ、『魔女』だなんて呼ばれないだろ。……それに、だからあんたも安易に手を出して引っ掻かれたんだろ?」
それを言うと、まだ新しい傷跡が残るダートの頬がぴくとやや引き攣った。
その彼に、リンドは言葉を重ねる。
「また迂闊に手を出すと、次は引っ掻き傷くらいじゃ済まないぞ」
「……」
ダートは暫く、冷たい表情で押し黙っていた。
しかし唐突に、荒々しく声を上げる。
「そうだ、同じ屈辱は受けん! 次に相見えた時には、身包み剥いで砦の天辺に張り付けにしてくれるわッ……!」
その顔は、憎悪を露わにしながらも笑んでいる。
それはまるで、魔女に対して愛と憎とを一遍に抱いてしまったかのようだった。
「あの女を手に入れれば、ギルトであろうとも―――」
なおも捲し立てるダートの声は、しかし途中でぷつりと切れた。
突然に、開け放していた窓の外からどんと爆音が響いたからだ。大きな爆発音に続いて強風が吹き込み、開いていた鎧戸をばたばた鳴らした。
「何……!?」
驚いて固まっているフレアを余所に、リンドは部屋の窓際まで歩む。
既にニーナも、そこから外を覗いていた。
「―――リンドさん、あれ」
とニーナが指差す先―――石の建物が並ぶ街中からは、白に近い灰の靄が立ち上っていた。
「燃えてるんですかね」
「いや。粉塵と、あとは霧だと思う。氷塊を一気に炎で炙ったのかもしれない」
「それって、誰か魔法を使ったってことですか?」
ニーナの問いに、リンドは頷く。
しかしその場合、一つの違和感が生じる。
「―――魔法人が、純人王国側に入っているならな」
件の靄が上がっているのは、純人王国側の街中だ。魔法ということならば、魔法王国兵の侵入を許しているということになる。
「有り得ない」
としかし後背から歩んできたダートが否定した。
「境界の大橋の監視は万全だ。大河沿いにも兵を歩かせている。大河沿いならまだしも、あんな街中の方で―――」
とそこまで言ってから、ダートはばっと部屋の外へ振り返る。
そして部屋の入口に立つ兵士たちに、すぐに指示を飛ばす。
「今すぐ砦の兵を出せるだけ出せ!」
「は……?」
「爆発の現場周辺を捜索! 見つけ次第報告を寄越せッ!」
「は、はいっ!」
ダートの剣幕に、兵士たちは慌てて駆け出す。
魔法王国兵の侵入は考えにくい。しかし魔法が使われた。ならば、答えは一つだ。
元からこちら側にいる魔法人が動いた―――。
するとそこへ、先ほど駆けて行ったばかりの兵士が戻ってきた。
「何をしているッ!」
と怒鳴りつけるダートに「申し訳ございません!」と返しながらも、彼はその場に立ち続けて報告する。
「現場にいた兵の一人が戻って参りました!」
「―――何?」
と眉根を寄せるダートを前に、その兵士が「こっちだ」と廊下に向かって呼び掛ける。その声に応じて、一人の兵士が部屋の前に現れた。
着ている鉄鎧は一部が凹み、左腕がぶらりと力無く垂れている。折ったか外れたかしているのかもしれない。
ややびくびくとした様子は、ダートの顔を見る前から変わらない。戦場で感じた恐怖によるものなのだろう。
兵士はダートの前に立つと、敬礼も忘れた様子で開口一番に言った。
「ダート様、魔女です」
その言葉に、フレアがばっと兵士に顔を向ける。
「状況は」
「……ほぼ全滅、です」
ダートの問いに、兵士は悄然とした面持ちでそう返した。
「その場に居合わせた一部隊二十名の内、動けたのは私だけでした」
「それで、おめおめ逃げ帰って来たのか」
ダートが冷淡な声音を向ける。
それに兵士は「申し訳ございません」と返してから、しかし言葉を続けた。
「魔女から、ダート様に伝えるように言われたことがあるのです」
その言葉に、ダートは怪訝な顔をする。そしてその仕草だけで、言葉の続きを促した。
しかし兵士は、中々その言伝を口にしない。それに苛立って、ダートが声を荒げた。
「早く言えッ!」
「は……はい!」
と答えるものの、やはり兵士は言い辛そうにしている。
また少し間があって、それからようやく兵士は口を開いた。
「……お、お馬鹿さん」
「はぁ?」
とダートが、眉をぴくりと動かす。
しかし兵士は、そこから箍が外れたようにわっとそれを口にした。
―――お馬鹿さん。あなたが誰を囲い込んだところで、それは私が命を投げ出してまで会いに行く相手になり得ないわ。もしもその結果、あなた程度に殺されてしまうくらいの人間ならば、私にとってもう関わる価値が無い。早々に斬り捨てて、私を探して御覧なさい。
「……」
兵士が口を閉じると、しんと痛いほどの静けさが部屋を包んだ。
ダートはぎりと歯噛みし、その両の拳を固く握り締めていた。
どこかで見ていたのか、或いは見なくても分かるのか。
いずれにせよ彼女は、ダートの考えを嘲笑ったのだ。
怒りにその目を血走らせているダートに、リンドは念のために言う。
「―――嘘じゃないだろうな。あれは、そういう女だ」
すると瞬間、肌がぴりつくような強い殺気が部屋を占める。
退魔の力。
ニーナがばっと部屋の端へと跳び退き、フレアが肩を弾ませ、アニーが気を失う。
「―――分かっているわッ!」
叫びながらダートは腰の剣を抜いて振り上げ、そしてリンドに向かって振り下ろす。
それはすっと身を躱したリンドのすぐ横で窓枠に打ち当たってその木製の枠に減り込み、石の壁を叩いてがんと激しい音を響かせる。
それからダートは、ふーっと息を吐き出して退魔の力と剣を収めると、さっさと部屋を出ていく。
「あ、あの、部屋の監視は―――」
「要らん」
ぎろとダートに睨まれびくと身体を強張らせた兵士たちも、彼の後に続いて部屋を去って行った。
再び静まり返る部屋の中。
その中で、不意にフレアが弾かれたように顔を上げる。そしてリンドが立つ枠の壊れた窓際へと駆けると、そこへ手を掛け身を乗り出す。
「フレア―――」
飛び降りでもしないかとリンドは思わず彼女の身体を支えようと腕を回すが、彼女は気に留める様子も無くただ叫んだ。
「アリアぁっ!」
「落ち着け、ダートに聞かれるとまた厄介なことに―――」
リンドが止めるが、フレアは止めずにまた「アリア!」と叫ぶ。
「あんたのせいでっ、あんたのせいで! 私の人生は滅茶苦茶よッ……!」
どこにいるのかも分からない姉に向かって、ただ叫ぶ。
「もうこれ以上! 私を振り回さないでよッ―――!」
「フレア、もう止めろ」
彼女の腹に回した腕をぐいと引いてその身を窓から離そうとするが、フレアは「離して!」と踠く。
そしてその右手で、再び十字を切る。
「おい、ニーナも手伝ってくれ」
とそちらを見やれば、彼女は部屋の端っこから無表情でこちらを見つめていた。
しかし、こちらへ来る気配は無い。
「……良いじゃないですか。フレアさんも、その魔女に振り回されたんでしょう?」
ただ、呟くように言っただけだった。
ニーナの方へ気を向けている間に、フレアはその指先で魔法を綴っていた。
そしてそれが済むと、その手を窓の外に広がる暗い夜空に伸ばした。
「燃焼っ!」
彼女の声に応じて、雨粒を落とす真っ暗な天に向かって炎が上がる。
それは激しく燃えながら昇って行き、―――そしてすぐに消えてしまった。
「……」
炎が消えると、静かな暗い夜が街に戻る。
耳に届くのは、フレアのはあはあ息を切らすその息遣いだけ。
何も言えなくなった。
彼女が姉に対して抱くものを、リンドはほとんど何も知らないのだ。
だからリンドは、苦しげに声を上げた彼女を止めようと回したその腕に、ただ僅かばかり力を込めて自分に引き寄せた。
すると彼女は、恥じらうように身を捩る。
「―――お腹に手回さないでよ。出てる、から……」
言うものの、彼の手を外そうとする抵抗は弱い。
すっとこちらを見上げる瞳も縋るように揺れていて、思わずリンドの方が目を背けてしまった。
すると不意に、夜空が明るくなる。
ぱっとそちらを見やると、街の中から天に向かって炎が上がって行く。
フレアの放ったゆらゆらと不安定な炎とは違い、まるで矢のように細く渦巻いたそれは、天高く昇ったところで突然拘束を解かれたように舞い広がる。
細く渦巻いていた炎がその回転の勢いを残したまま開いて行く様は、さながら一輪の花が咲いたかのようだった。
「アリア……」
呟くリンドのすぐ傍で、フレアもまた呟く。
「……敵わないなぁ。届かないなぁ……!」
見下ろせば彼女は今にも泣き出しそうな顔で、諦めたような笑みを浮かべていた。




