31.偽英雄が見る陰
(キャラクターイラスト制作:たたた たた様)
赤い陽が、開け放した鎧戸から差し込んでいた。
夕陽に照らされた酒場の中に、まだ客の姿は無い。が仕事終わりの時間だ。直に仕事を終えた職人たちが集まってくることだろう。
リンド・アルバートは、そんな静かな酒場の中ほどに立っていた。
傍らには、彼がよく知る金髪の若い女の使用人の姿がある。
「サーシャ」
呼び掛けると、彼女はこちらを見て優しげに微笑む。
それから、静かに店の入口の方へ向かって歩んでいく。
彼女の姿を目で追うと、その先に男が一人。白の装飾の鎧を身に纏い、白い鞘の剣を携えたその出で立ちは、どこか余人の介入を許さない現離れした雰囲気を感じさせる。少しも揺らぐことのない厳めしい顔に目を向けると、その髪と瞳は鎧と対照的に深い深い黒。窓から差し込む夕陽も、或いは天高く照る真昼の陽光であっても、その目に光を灯すことはできないように思われた。
男のことを、リンドは知っている。
英雄の血を受け継ぐ一族、アルバートの当主にして純人王国国王、そしてリンドの父親でもあるギルト・アルバートだ。
「―――駄目だ、サーシャ」
リンドが呼び掛けても、彼女の足は止まらない。そのまま、ギルトの前へと歩む。
そんな彼女に、ギルトは告げる。
「―――これは、見せしめだ」
「止めろっ……!」
声を上げサーシャの元へ駆け寄ろうとしても、その身体は石のように固まっていて動かない。
まるで、もう効くはずの無い退魔の力の影響を受けているかのように。
「サーシャ、逃げろっ……!」
呼び掛けると、彼女はこちらを振り向く。優しい、だが哀しい微笑みを浮かべて。
ギルトは静かに右の手で剣の柄を握り、ゆっくりと引き抜く。すらとその白銀の刀身が姿を現し、赤い陽を反射して輝いた。
「純人王国の礎となれ」
剣を両の手で握って掲げ、ギルトは極めて冷淡にそう言った。
直後、振り下ろされた剣がサーシャの肩口から胸にかけて深く食い込む。
噴出する赤い赤い血。瞬間天井に達するかと思われるほどのそれは、床を撥ね壁を打ちそしてギルトの鎧を染めた。
彼女は悲鳴を上げることも無く、そのまま膝から崩れるようにして床に伏した。
「―――ッ!」
リンドはそんな彼女に手を伸ばして、声にならない叫びを上げることしかできなかった。
*
その左手が、何かを掴んだ。
「ちょっ―――、何っ!?」
どさと身体の上にかかる重み。
それでリンドは、ようやく目を覚ます。
小さな宿屋の一室。そのベッドの上に、リンドは身を横たえていた。黒の癖っ毛頭はいつにも増して酷い寝癖を作っており、眠たげな黒い瞳の目元にも小さな隈ができていた。額には汗が浮き、起きたばかりだというのに疲弊も感じていた。今の姿は実年齢の十八歳よりも老けて見えるかもしれない。
そんな彼の目の前には、驚いた表情で頬を朱に染めたフレア・クリストンの顔があった。彼女の上体は、リンドの身体の上に覆い被さっている。その長い赤みがかった茶髪はベッドの上で艶めき、その髪色と同じ瞳がこちらを向いて揺れた。リンドと同い年と以前に聞いたが、その色香は成熟した女のそれとほぼ変わらない。もっとも、中身に関してはむしろ年下の印象なのだが。
眼前の彼女の姿に、リンドは眠たげな目を瞬かせた。
「……何してる」
「それはこっちの台詞よ!」
即座に返される。
「手、離してっ!」
ぺしぺしと叩かれてようやく、リンドは自分の左手が彼女の服の襟元近くを引っ掴んでいることに気付いた。
アルバートの印と忌み子の傷を隠すために布を巻き付けたその左手は強く握られ、そこに皺を作ってしまっている。
「悪い、気付かなかった」
手を離すと、フレアは「もう……」と乱れた襟元を正しながら、不満げに赤らんだ顔を背ける。
「寝ているリンドさんにべたべた触ってたフレアさんも、悪いと思いますけどね」
不意に別の方から飛んできた声に、フレアがまたかあと顔を紅潮させた。
「ニーナっ! 変なこと言わないでよ!」
叫ぶフレアに、しかしニーナは黒のまとめ髪を揺らしながら大きな黒い瞳の目を細めて、むふと怪しげに笑う。その姿は本人曰く十二、三歳と言うその年相応の悪戯っ子に見えなくもない。
「あーもう、私どきどきしちゃいましたよ。フレアさんってばあんなとこまで触ってるんだもん」
「それは、困るな」
とそれにリンドは声を上げる。
「事を急がないでくれ。俺はまだ何も決めてない」
「触ってないわよ! そ、そんなとこなんて……」
恥じらいつつぽしょりと言ってから、フレアはこほんと咳払いして訂正を入れる。
「あんたが魘されてたから、起こしてあげようと思って肩に触れただけよ。本当に、ちょこっとだけ……」
「―――魘されてた?」
とその言に首を捻るリンドに、ニーナがちょこちょこ歩み寄ってきて首肯する。
「何か苦しそうでしたけど……、怖い夢でも見たんですか?」
「……」
問われて、リンドは思い返す。―――が、その頭の中にもう夢に見たものは残っていなかった。
「思い出せない。確かに、嫌な夢を見た気はするんだが……」
「覚えてないなら、わざわざ思い出すことないわよ」
フレアは服の皺を手で伸ばしながら言う。
「悪い夢なんて、覚えてても良いことないし」
「……まあ、そうだな」
呟き、もやもやする頭を振って覚醒させると、リンドは枕元の長い襟巻を取ってベッドから起き出す。
襟巻を適当に巻き付けて部屋を出ようとすると、フレアに待ったを掛けられた。
「ちょっとだらしなさすぎ。座って」
言われてベッドに腰掛けると、彼女は襟巻を整えてくれる。
そうしていると、その手がいつかの誰かの手に重なって見えた気がした。
それは、迷う彼の手を引いてくれた彼女のものであったか。それとも、歩き出す彼の背を押してくれた彼女のものであったか。或いは両方かもしれない。
いずれにせよ、彼が過去二人の姉に支えられて一人立ちした事実は変わらない。
そして今彼は、二人の仲間と共に歩き出していた。
襟巻を整えられ、ついでに寝癖も直されたリンドは、今度こそ部屋を出た。
それから階下で朝食を済ませ、職人たちの仕事始めの鐘が鳴る頃には宿を後にする。
外に出ると、小雨に打たれる木造の街並みが視界に広がる。
そこは宿場町。鍛冶町と西の境界の町との丁度中間点にある小さな町だ。
鍛冶町と境界の町とを行き来する兵士や商人たちの休息地点として栄えたその町は、この辺りでは珍しく木造建築を中心に構成されている。戦線が近い鍛冶町以北の地域では、魔法による放火を懸念した石造りの街並みが一般的なのだ。
しかし敢えてそれをしなかったことで、宿場町は「町の発展」という面で功を奏した。木造の宿が王国北部に住む人々にとって新鮮に映ったのだ。その結果、この町は「宿場町」の代表格としてその名で呼ばれるようになったというわけだ。
もっとも旧都を通ってきたリンドたちからすれば、特に目新しさを感じるものでも無いのだが。
目の前の景色で気になることがあるとすれば、しとしと降る小雨の方だ。
その雨は、今朝になって降り出したものではない。鍛冶町で過ごした最後の夜頃から降り始め、今日で三日目。強まることは無いが、然りとて降り止むことも無い。歩みを止めるほどのものではないが、少々鬱陶しい雨だった。
とは言え、天に文句をつけるわけにもいかない。普段から日照が多いとは言えない地域であるし、諦めて歩を進めるしかないのだ。
リンドは小さな雨粒を間断なく落とし続ける曇天を見上げて、ふうと息を吐き出す。
それから、ちらと通り沿いに目を向けた。
「どうしたの?」
彼に続いて宿を出てきたフレアが、怪訝な顔をする。
それにリンドが答える前に、後から出てきたニーナが口を開いた。
「あー、何かつけて来てる人いますよね」
「うん」
「えっ!?」
頷くリンドの横で、フレアが驚いている。
「つけられてるって、誰に!?」
「さあ?」
とニーナは興味無さそうに言う。
「気配全く消せてないですし、気にするほどの相手じゃないです」
「でもずっとつけられてるなんて、気持ち悪いじゃない!」
「フレアお嬢サマは気付いてらっしゃらなかったみたいですけど?」
「……それは、そうだけど」
言い合う二人を余所に、リンドはさっさと通りを歩き出した。
「リンドさん、どうするんですか?」
「リンド、どうするのよ?」
その背に掛けられた二つの声に、彼は振り返ることなく答える。
「―――向こうの話し易いところで、直接事情を訊いてみる」
そうしてリンドは東西に伸びる短い大通りを暫く歩むと、途中で脇道に入った。
細い道を抜けて、人通りの少ない裏町へ。―――と言っても小さなこの町では、旧都のように表と裏とで大きな格差は見られない。賑わいは無いが、整った木造の街並みが続く。
その中を進んでいくと、具合の良い開けた空き地に出た。リンドは、そこで足を止める。
そしてぱっと後背のニーナとフレアの方へ振り返り、声を出した。
「ここで話をしよう。そっちもこのまま追い続けていたら、消耗するだけだろう」
もちろん、彼女らに向けた言葉では無い。そのさらに後方へ向けた問いだ。
しかし、その向こう側からの返答は無い。
フレアが首を傾げた。
「……本当に誰かいるの?」
「私見てきます」
ニーナが挙手して、踵を返す。
そして大して警戒する様子も無く、たった今通ってきた細道の方へと歩んでいく。
彼女がその道へ入って行こうとした、正にその時だった。
「うわっと」
不意にニーナが、身を躱す。
その横から、一人の少年が勢い余ってリンドたちの前へ飛び出してきた。
十歳くらいの黒髪の少年だ。麻の汚れた上下の衣の上に、所々焦げ跡が残る外套を羽織っている。外套は彼の身の丈に合っていないようで、裾が雑に切られている。その身なりから、少年の暮らしがあまり良くないことが窺えた。
彼は憎悪に満ちた表情で、その手に一本のナイフを握っていた。
そんな少年の姿を見たフレアが、あっと声を上げる。
「私の外套……! ってことはあなた―――」
しかしフレアの言葉に耳を傾けること無く、少年はばっとニーナの方を振り返る。
そしてそのナイフを突き出して、猛然と彼女に向かって駆けた。
「死ねッ……!」
「何ですかあなた?」
それをまたひょいと躱しながら、ニーナは眉根を寄せる。
「見覚えが無いんですけど」
「純人教団に捕まってた子よ!」
フレアが言うと、彼女は「あー」と曖昧な声を出す。覚えていないのだろう。
「―――でも、それなら命狙われるのおかしくないですか? お礼言われるなら、分かるんですけど」
「誰がお前に礼なんて言うかッ!」
少年が叫び、ナイフを振り回してニーナに襲いかかる。しかし一振りたりとも、彼女には掠りもしない。
それでも彼は、声を上げながらそのナイフを振り続ける。
「お前は父さんと母さんの仇だ! 絶対に殺してやるッ!」
「仇ィ?」
と怪訝な顔をするニーナを、少年はぎろと睨んだ。
「俺はアニー・バリスタ! お前に殺されたフロスト・バリスタの息子だ!」
「……バリスタ?」
その単語に、ニーナの動きがぴたと止まる。
そこへ、少年―――アニーがナイフを振り薙いだ。
しかしニーナは、その刃を右手で掴んで止める。
アニーが引き抜こうとするが、彼女が握ったナイフはびくともしない。
「ニーナ」
彼女の異変に気付いてリンドが声を飛ばしても、彼女からの応答は無い。
代わりに、呟くような彼女の声が耳に入った。
「……そうか、子供がいたんですね」
その声は、酷く凍て付いた響きを持っていた。
ニーナはくいと握り締めた刃を引いてアニーを寄せると、その左手を握って彼の腹に打ち込んだ。
どっと鈍い音がして、吹っ飛ばされたアニーが地面を転がる。そしてげほげほと苦しげに咳き込んだ。
「ニーナっ!?」
とフレアが声を上げる。
「何やってるの!? 相手は子供よ!?」
しかしその声も、ニーナには届いていないようだった。
彼女はその手に残ったアニーのナイフを持ち直して、転がったままの彼へと歩み寄って行く。
酷薄な言葉を向けながら。
「まだ、死んじゃ駄目ですよ。あの男はすぐ死んじゃったから、あなたが代わりに苦しんで下さいな―――」
そこへ、リンドは割って入った。
ニーナとアニーとの間に立って、彼女を見下ろす。
彼女の足が、ぴたと止まった。
「……邪魔です。退いて下さい」
彼女はリンドを見上げること無く、真っ直ぐに前を見たまま言う。
その顔に、これまで見てきた様な喜怒哀楽は無い。
凍りついてしまったかのように固まった無表情。
そんな彼女に、リンドは平生と変わらない調子で言葉を返す。
「退かない」
「通して下さい。私は、そこの子供に用があるんです」
「駄目だ。冷静になるまで、一度離れろ」
「―――冷静ですよ、私は」
とニーナは笑う。しかし貼付けたようなその笑みは引き攣っていて、不気味でしかない。
「駄目だ」
リンドが繰り返すと、ひゅっと勢いよくナイフが振り薙がれた。
彼の腹近くを通ったその一閃で、さっと風が巻き起こる。
「邪魔をしないで下さい」
とニーナも繰り返した。
「……でないと、私はあなたも殺してしまいます」
その顔は、怒りと悲しみと憎しみに歪んでいた。
そんな彼女に対して、リンドは一歩距離を取る。
それからその腰の剣を鞘ごと取って、ニーナの前に構えた。
「やってみろ。俺が目を覚まさせてやる」
■登場人物(キャラクターデザイン:たたた たた様)
【リンド・アルバート】
純人王国王位継承順位第二位の王子。十八歳。感情が顔に出にくいが、意外と情に厚い。
【サーシャ・ルイス】
リンドの元使用人。二十歳。しっかり者で正義感が強い。
【ギルト・アルバート】
リンドの父であり、純人王国の国王。合理主義者で、目的を達するためには手段を選ばない。
【フレア・クリストン】
純人王国唯一の魔法人の家の娘。十七歳。面倒見が良いが、少し抜けている一面も。
【ニーナ】
一人放浪していた怪力を持つ少女。十二、三歳。快活な振る舞いが目立つが、一方で重い過去を背負っている様子。
【アニー・バリスタ】
両親の仇としてニーナへの復讐を誓う十歳くらいの少年。ルーマスと同じく純人教団に囚われていた。




