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不浄のアルバ  作者: 北郷 信羅
第2.5章 王都から旅立つ者たちへ
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28.使用人が見送るその背中

 リンドと言葉を交わしている内に、サーシャは使用人の控室に辿り着いた。使用人たちが休息するベッドと簡易な小さい机が並ぶ大部屋だ。

 彼女がその戸をそっと開いて中を覗き込むと、幸いにして部屋には誰もいなかった。既に各々仕事をするために出たようである。サーシャはほっと胸を撫で下ろす。

 他の使用人に見られ、アルバートに報告でもされたら後が面倒だ。だが、場所はここしか無かった。サーシャに与えられている場所は、この共有空間だけなのだから。リンドの部屋も謁見の間の奥なので、そちらへ戻るわけにもいかなかった。


 サーシャは部屋の自分の机の上に置いていた麻布の袋を取り上げ、その中身を取り出す。中に入っていたのは、服と履物。リンドに頼まれていた「普通の服」だ。

 魔法王の討伐に旅立つ者は通常、アルバートのために作られた白い装飾の鎧を身に纏う。しかしリンドはこれを嫌っていた。一目でアルバートと分かってしまうからだ。

 だが、「出立の儀」にはそれを着て出ねばレイドが煩い。そこで彼は、サーシャに街の人々が着ているような服を買って来させ、儀式後に着替えるという策を考えたのだ。


「こちらでよろしいでしょうか……?」


 サーシャが選んだのは、街の職人が着ているような厚手の服。亜麻の布を用いて仕立てられた丈夫なものだが、今リンドが着ている皮鎧に比べれば強度は低い。

 しかしリンドに、それを気にする様子は無かった。


「目立たないか?」


 とそれだけを問う。


「はい、それは大丈夫かと思いますが……」

「ならいい。着替えよう」


 そう言って、リンドはさっさと着ている皮鎧を脱ぎにかかる。

 しかし、サーシャがそれに待ったを掛けた。


「リンド様、その前に」

「うん?」


 首を傾げるリンドに、彼女は最も大事なことを言う。


「魔法素材が使われていないか、確認をお願いします」

「あぁ……」


 とリンドは声を漏らすが、しかし襟足に左手を回しながら気乗りしない様子でそれを渋る。


「ちゃんと確認したんだろ? なら問題無い」

「もちろん気を付けたつもりですが、確認はして下さい」


 リンドの厚い信頼は嬉しいし、彼が退魔の力を嫌っていることも理解はしている。だが、万が一にも何かあっては困る。故にサーシャは、強くそれを求めた。


 それでようやく、リンドも渋々ながら「分かった」と応じる。そしてその左手を、机の上の衣服の上に置いた。それを見て、サーシャは彼から距離を取る。

 服だけ、というわけにはいかない。調整なんてことができるのならば良いが、少なくともリンドにはそれができない。退魔の力はその左手を中心に、一定の範囲に影響を及ぼしてしまう。

 サーシャもこの城で長く暮らしてきて力に巻き込まれたことも幾度かあるので流石(さすが)に慣れてきてはいるが、それでも気持ちの()いものではない。


 今も、リンドの左の掌が鈍い光を放ったかと思うと、彼女の頭にずんと鉄器を載せられたような感覚が起こる。そしてその感覚は、「あの日」の記憶を蘇らせてしまうのだ。


 血飛沫(ちしぶき)を上げて倒れる父親。

 流血する脚を押さえて呻く母親。

 そして彼女を連れて行く血に濡れたギルト・アルバートの大きな手―――。


 彼女はその最悪の情景を振り払うように頭を振る。それとほぼ同時に、嫌な感覚は消え去った。……がしかし。


「―――えっ!?」


 思わず漏らした声に、リンドがこちらを振り返る。


「どうした」

「あ、……いえ何でも」


 サーシャは笑ってふるふる(かぶり)を振る。


「それより、服は大丈夫でしたか?」

「ああ、問題無い」


 リンドは衣服を引っ張って見せながら、しかし視線はサーシャから離さない。


「では、お着替えを」


 その視線から逃れるようにして、サーシャは彼の背に回って鎧を脱ぐ手伝いを始めた。するとリンドも大人しくそれに従う。


「情報は、何か仕入れられたか?」

「とても強い少女がいる、という話を耳にしました」


 着替えを手伝いつつサーシャは、彼に頼まれたもう一つ―――街で得た情報について話した。


「強い少女?」

「はい。何でも裏街で荒くれ者相手に喧嘩で勝って、お金を持って行ってしまったんだとか。名前は、『ニーナ』と名乗ったらしいです」

「ふうん。ニーナか……」


 言葉を交わしながら、リンドは上衣を脱ぐ。よく鍛えられた彼の肉体が露わになった。


 リンドも大人になった、とサーシャは沁み沁み思う。

 何しろ最初に会った時には、彼はまだ七歳だったのだ。サーシャも九つだったわけだが、自分が仕えることになった相手があまりに幼いことに驚いた記憶が残っている。

 だがそんな彼も、いつの間にかサーシャよりも背が高くなっていた。体つきもごつごつしてきた。中身は……あまり変わっていない気もするが。


「……手、どけてくれないか」


 不意に耳に届いた声で、サーシャははっと我に返る。知らず、彼の露わになった大きな背中に触れていた。


「すみませんっ……!」


 慌てて手を離す。

 顔が熱くなる。鼓動が速くなる。

 私も大人になった、とサーシャは苦笑しながら思った。

 もう無邪気に彼の手を引いてやることも、身体を洗ってやることも、一緒に寝てやることもできなくなってしまった。

 そして今日、彼は旅立つのだ。一緒にいることさえ、叶わなくなる。それはきっと喜ばしいことで、しかしまた寂しいことでもある。サーシャの胸中は、複雑だった。


 着替えを終えると、サーシャはぴんと思い出して机の引き出しを開ける。そして中から、長い襟巻を取り出した。


「リンド様。こちらも、繕っておきました」


 言って、それを彼の首にかけてやる。しかし、背が高いので思いのほか上手くいかない。もたもたしていると、彼はベッドに腰掛けてくれた。

 サーシャは優しく優しく、リンドに襟巻を巻いていく。その襟巻は、昔彼女と入れ替わるようにして行方を(くら)ました少女アリアから貰ったものだと聞いた。長く使っていたため傷んでおり、彼に頼まれてサーシャが繕っていた。


「……長くなってないか?」


 問われ、サーシャはふふと笑う。


「余分の布があると便利かと思います。怪我の時などにお使い下さい」


 答えながら、彼女は最後に巻いた襟巻の形を整える。

 リンドは、大人しくそれを待っていた。……かと思いきや、その視線が下を向く。

 そして不意に、彼の右手がサーシャのスカートの裾を掴んだ。


「リンド様? あっ……お()めください!」


 くいと裾を持ち上げるリンドの手を、慌ててサーシャは両手で制止した。

 しかし彼は、その手を離さない。


「どうしてだ?」

「見られたら恥ずかしいからです!」


 サーシャは顔を真っ赤にして言う。

 だがリンドは、尚も追及する。


「何を」

「何をって、それは……」


 口籠もる彼女に、彼は相変わらずの淡々とした口調で問うた。


「何も着けていないのを、か?」


 言われてサーシャは、リンドに掴まれたスカートも其方(そっち)退()けで、両手で顔を覆った。

 羞恥に紅潮したその顔を、これ以上真っ直ぐに見つめ続けられることに堪え切れなかった。


「いえ、違うのです。その、これは……」


 答えに窮してへどもどしていると、リンドがようやくスカートから手を離してはあと溜息を吐いた。


「……誰の仕業だ」

「わ、分かりません……」


 嘘だ。十中八九ラナの仕業だろう。先の思わせぶりな言葉は、このことを指していたに違いない。魔法素材のものに()り替えるなど、手の込んだ悪戯だ。

 しかし今それを言えば、リンドは黙っていまい。旅立つ彼の邪魔を、サーシャはしたくなかった。


「替えはあるのか」

「多分……」


 多分、無い。他も魔法素材のものに替えられているだろう。ラナのことだ。一枚掏り替えるくらいでは済まさないだろう。

 それを察してか、リンドはまたはあと息を吐いた。


「―――釣りは」

「え?」

「服を買いに行かせたその釣りは」


 問われて、サーシャははっと気付いて懐を(あさ)る。


「すみません、忘れておりました。確か金貨で一枚―――」

「それはお前にやる」

「は……!?」


 出し抜けに言われて呆然とするサーシャを余所に、リンドはベッドから立ち上がる。

 しかしすぐに我に返った彼女は、彼の服の裾を引っ掴んで慌てて止めた。


「そんな、いけません!」


 しかしリンドも、引き下がらない。


「ここじゃ給金は出ないだろ。どうするつもりだ」

「生活に必要なものは頂けます。使用人の長にお伝えすれば―――」

「そいつは信用できるのか?」


 とリンドは問う。


「それでその話は、そいつからどこへ流れるんだ?」

「……」


 サーシャは口を閉ざす。正直なところ、そこにラナが網を張っている可能性は否定できなかった。


「ですが、頂くわけには……」


 それでも渋っていると、リンドは面倒臭そうに息を吐いて腕を組み、思案し始める。一方のサーシャも、取り出した金貨入りの袋を如何(いか)にして彼に渡すかを考える。

 しかし、先に口を開いたのはリンドの方だった。


「―――そうだ、一つ困っていることがあった」

「困っていること、ですか?」


 首を傾げて見せると、リンドはその左手に巻かれた布を解く。


「退魔剣なんだが、これも装飾が目立って良くない」


 と言って、彼はその剣の柄と(つば)とが交わる辺りに布を巻き付ける。

 確かに、白の装飾の剣は目立つかもしれない。それに何より、今リンドが布を巻きつけている部分にはアルバートを象徴する黒龍の印が刻まれている。見えないようにした方が良いだろう。


「ただ、左手も隠したいんだ」


 とリンドは、そのアルバートの証と古傷が残る左手をサーシャに示す。

 「忌み子」を示す傷を見せないように、彼はずっとそれを隠してきた。だが旅立つ今の彼にとっては、アルバートの印それ自体が問題というわけだ。


「―――だから、お前からそれを買う」

「布、ですか? でもそんな適当なものは……」


 サーシャの手元に、丁度良い布切れは無い。今着ている服から切り出すくらいしか、彼女には思いつかなかった。


「スカートの裾を少し断てば、何とかなるとは思いますが……」

「いや、そっちじゃない」


 そう言って、彼はサーシャを指差す。―――否、サーシャの頭を指していた。

 それでようやく、彼女も思い至る。そして、後ろ髪を束ねている布紐に触れた。


「え、これで良いのですか……?」

「それが()い」


 とリンドは答えるが、サーシャとしては納得がいかない。


「ですが、このようなものに金貨一枚の価値など……」

「売り物の価値は買い手が決めるもんだ」


 と彼は言った。


「俺はこれから一人で歩く。アリアに手を引かれるでもなく、お前に背を押されるでもない。……だから、御守りが欲しい」


 その言葉に、サーシャは思わず吹き出してしまった。


「リンド様は神様を信じていらっしゃらないのでは?」

「だから、」


 とリンドは目を逸らしながら言う。


「神なんかじゃなくて、お前に見守ってて欲しいんだ」

「……リンド様は、甘えん坊ですね」


 くすりと笑って、サーシャはその髪紐を解く。彼女の金色の髪がさらりと広がってその背を流れ落ちた。


「こんなに大きくなられても、ちっとも変わらない」

「悪かったな……」


 頬を掻きながら外方(そっぽ)向くリンドに、彼女は「いいえ」と言ってその布紐を渡す。


「リンド様は、そのままでいて下さい」


 そして布を受け取って左手に巻きつけるリンドに、彼女は彼女の願いを伝える。


「いつかに私を助けて下さったように、これから出会う人たちを救ってあげて下さい」


 するとリンドは、サーシャの布紐を巻き付けた左手を見下ろして呟くように言う。


「……俺に出来るかな」


 その顔は、いつものように無表情。


「俺はこんなだから、人に優しく……なんてできた試しが無い。そんな俺に―――」

「大丈夫です」


 とサーシャは、彼の左手に触れる。大丈夫だ。無表情の中にも、彼の不安は見つけられる。


「私は、ここに連れて来られたばかりの私をリンド様が世話係に強く希望して庇ってくれたことを知っています。毒見の名目で食事を分けて下さったことも、自室の掃除を名目に休ませて下さったことも知っています。―――大丈夫です。リンド様は、ちゃんとお優しいですよ」

「……そうか」


 言ってやると、リンドは幾らか安堵した様子で息を吐く。

 無表情だが、無感情ではない。(むし)ろ、その内側は人一倍情の深い青年だ。そのことは、サーシャで無くてもきっと気付いてくれる人がいるはずだ。


「―――それじゃあ、行ってくる」


 とリンドは襟巻の具合を確かめ、退魔剣を差し直す。


「俺が行った後は、クリストンの屋敷に行け。向こうの使用人になれるよう話はつけてある。こっちにいるよりかはマシだと思う」


 彼は最後までサーシャを気遣ってくれる。彼女の良縁を探していたのも、恐らくは自分が去った後のことを心配しての行動だったのだろう。


「ご配慮頂き有難(ありがと)うございます」


 とサーシャは丁寧に礼を言う。それに対して、リンドはがしがし頭を掻いて肩を竦めた。


「解放してやれれば一番良かったんだが……それは叶えてやれなかった。すまない」

「とんでもございません。クリストンのお屋敷でお帰りをお待ちしております」

「……あと、ルイスの酒場には寄ってみる」


若干言い難そうなリンドに、サーシャは出来得る限りの笑顔で応じた。


「はい、お願いします」


 言って、頭を下げる。


「残っていると良いのですが。……もし残っていれば、誰か私をご存じの方がいらっしゃいましたら、宜しくお伝え下さい」

「うん」


 と応じたリンドはくるりと身を翻し、襟巻を(なび)かせながら部屋の出入り口に向かって歩き出す。

 別れの時だ。それを感じて、不意にサーシャは胸の奥がきゅっと締め付けられるような気がした。


 居ても立っても居られず、何も考えずに駆けてしまっていた。そして彼の大きな背中に、後ろからがばと腕を回す。


「……サーシャ?」

「ごめんなさい……」


 やや戸惑いが交じるリンドの声に、サーシャは詫びる。思いのほか声が震えてしまった。

 行かないで、とは言えない。彼の旅立ちを邪魔してはいけない。だから、サーシャが言うべきはもっと別のことだ。


「……必ず、帰ってきて下さいね」


 出来得る精一杯の、明るい声で。

 震えそうになる声は、抑えて。

 滲む視界は、諦めて。


「サーシャ……」


 と振り返ろうとする彼に、彼女は鋭く声を飛ばす。


「振り返らないで! ……下さい」

「どうして」


 問われてサーシャは、ふっと笑む。


「―――見られたら、恥ずかしいからです」

「……分かった」


 それで彼は納得してくれて、彼女が震える手を離すと、そのまま部屋を後にする。

 部屋の戸が閉まる、その間際。サーシャは震える声も気にせずに、見送りの言葉を口にした。


「行ってらっしゃいませっ……!」


 その声に、リンドは何も言葉を返さない。

 だが彼女の布紐が巻かれた左手を挙げて、確かにサーシャの言葉に応えてくれた。

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