20.聖女と娼婦
まだ日は高い。そのはずなのに、娼家前の小さな通りは若干薄暗いような気がした。それは薄雲りの天候のせいでもあるだろうが、晴れやかな祭りの喝采から遠ざかったせいでもあるとフレアは思う。どこか暗い雰囲気のその場所には長居したくないのだが、しかしリンドたちに付いて娼家に入ることができなかった彼女は、止む無くその建物の壁に寄り掛かって彼らの帰りを待っていた。
じっとしていると、その耳に祭りの喧騒が届いてくる。賑やかな笑い声の多いその音は、明るい響きを持っていた。
また別の方からは、かーんかーんと鉄を打つ音が聞こえてくる。今日も働いている鍛冶士がいるのだろうか。或いはもしかすると、この祭日に浮かれて不格好な音色を奏でているだけなのかもしれない。
さらに、もっと近くからもくぐもってはいるがわっと騒ぐ人々の声が耳に入ってくる。それは祭りの歓声とは雰囲気が違っていた。
怒声、奇声、そして嬌声。それは間違いなく、後背の建物の閉ざされた鎧戸から漏れ聞こえてきていた。
「早く、戻ってきなさいよ……!」
思わず、声を吐き出した。既にその音の意味するところを知ってしまったフレアとしては、耳に入る不快感を掻き消したくて堪らなかったのだ。黙ってそれを耳に入れていると、忌避している記憶が浮かび上がってきてしまう。貴族の男から、或いはマルクから迫られその身を穢されそうになったその時の記憶が。
フレアは頭を振ってその記憶を払う。同時に不快な音も耳に入らないようにする。
すると不意に、その耳が近くから上がった人の声を捉えた。
「―――おや、見ない顔だなァ」
その声に顔を上げてみれば、見知らぬ茶髪の男の顔があった。若そうだが、リンドよりはもう少し年上の印象だ。二十五、六といったところだろうか。動きやすそうなやや厚手で丈夫そうな服装はそこそこ上等で、この界隈の人間の恰好とは異なっていた。
「娼家の新しい娘なのかな?」
「違います」
近寄ってくる男から顔を逸らして即座に返すが、彼は立ち退かない。フレアの顔を覗き込むようにして、さらに声をかけてきた。
「―――うん、やっぱり綺麗な顔してる。そんな頭巾被ってちゃ勿体無いよ?」
言ってキザに笑いかけてくる男を、フレアはぎろと睨む。
「あなたみたいな軟派な男を寄せないために被ってるんです。近づかないで下さい」
「つれないなァ」
と男は肩を竦ませる。しかし、その場を離れることはしない。
「でもなら、何でこんなところにいるの? こんなところにいたら誤解されるのは当然のことだと思うけど」
それについては否定できないので、フレアは目を逸らしながら答える。
「中にいる人を待ってるんです」
「中に? ……ははァ」
男は、勝手に察したような顔で笑う。
「女待たせて娼家で遊ぶなんて、ロクでもないぞその男。さっさと見切り付けた方が良い」
「いや、そういうわけじゃ……」
と言いかけて、そこでフレアは言い淀む。情報収集のため、などと言ってこの男伝に話が広がってしまえば、皆警戒するに決まっている。この男だって関係者でないという確証は無いのだ。迂闊に目的は明かせない。
言葉に迷ったフレアの様子をどう受け取ったのか分からないが、男はフレアの肩をぽんと叩いて囁く。
「大丈夫、俺に任せてみてよ。今よりもっと満足させることを約束するから―――」
「ふざけないでっ!」
ばっと男の手を払って、フレアは叫ぶ。
「快楽ばっかり求めて……、だから男と身体を交えるなんて嫌なのよ……!」
すると男は、ふうと息を吐いて肩を竦める。
「……子を産むために、必要な過程だろ?」
「分かってるわそんなこと! それでも嫌なのよ! そんな汚らわしい―――」
「何君、処女懐胎でも期待してるの?」
男の言葉に、フレアはぱっと顔を上げる。そんな彼女に、男は付け加えるように問う。
「もしかして君、神教徒?」
「……」
フレアは男を睨みつつ認識を改め、警戒を強める。神教の聖典に通じている辺り、ただの軟派な男ではないらしい。
「あなたは神教徒に見えないけど……、よく知っているのね」
フレアが言葉を向けると、男はふっと笑う。
「商人が物を売るためには、相手の懐にいかにして飛び込めるかが鍵なのさ。そのために必要な知識は事前に集めておく。準備がしっかりしていれば、実際の交渉で深いところまで突っ込んで話すのは容易だ。―――こんな風にね」
言うが早いか、男はその手をすっとフレアの外套の中へと差し入れ、彼女の腰に添える。
「っやめなさい!」
「やめないよ」
かっと怒りを露わにするフレアに対して、男はじっとこちらを見据える。
「君が酷い男から離れるまではね」
「いいから離しなさいよっ!」
叫び、フレアはその右手をぐっと握り締める。
「いい加減にしないと―――!」
「やめとけ」
不意に、別の方から声がした。見れば、そこにリンドが立っている。
「やめとけ」
とリンドは繰り返す。その目は、フレアへ向いていた。
「なんで私なのよ! この男に言いなさいよっ!」
文句するフレアに対し、一方男の方は彼女から手を引いてリンドを見た。
「君か。彼女をほったらかしにして娼婦と遊んでるのは」
「……何だそれ」
リンドは呆れ交じりの声を出してフレアを見る。
「この男が勝手に勘違いしたのよ! 私は悪くないわ!」
「―――勘違い?」
と男が首を捻る。
「それじゃ君は、この中で何をしてたんだ?」
「―――部屋の空きを見に」
リンドは、ほぼ考えるような間を空けずに答えた。
「空いてるようだったから、今そいつを迎えにきたんだ」
「……なんだ、そういうことか」
とそれを聞いた男は、息を吐き出して納得したように頷く。
男が静かになると、又候建物の中の音が耳に届いてくる。ばたばたっと物音がして、わっと騒ぎ声が聞こえてきた。
「―――っと、急用ができたな」
と男が呟く。そしてリンドに詫びた。
「誤解して悪かったな、お兄さん。けど、大事な女の子娼家の前に立たせとくと危ねェぞ。気ィつけな」
そう言って、彼は足早に娼家の中へ入って行った。
男が去ると、フレアはほっと安堵の息を吐き出す。それから、ちらと視線をリンドに送る。
「……ありがと。一応、お礼は言っておくわ」
しかし彼は素っ気無く「うん」と返しただけだった。視線もフレアには向いておらず、娼家の入口へと注がれている。
「ねえ、まだ中に用があるの?」
問うと、彼は頷き返す。
「まだ欲しい情報が得られてない」
「ならここには無いんじゃないの? それより他の場所を当って―――」
「いや、」
とリンドはフレアの声を遮る。
「まだ可能性がある」
「可能性?」
フレアが首を傾げている間に、リンドは再び娼家の入口へと歩む。それに気付いて、彼女は慌ててその後を追った。また残されて誰かに絡まれるのは御免だ。
*
娼家に入ると、先ほどフレアに絡んできた男が娼婦たちと談笑していた。
「―――オリバーさんなら、毎日来てもいいのよ?」
「そんな風に誘われると行きたくなっちゃうだろ。金が無くなるからやめてくれよ」
「割引するから! 良いでしょう?」
オリバーというらしい彼は常連らしく、娼婦たちからは若年中年問わず人気があるようだった。
「―――君、ちゃんと食ってるか? 良いもん食わないと出るとこ出ないぞ」
「オリバーさんが今日沢山お金落としてくれたら、皆で良いもの食べに行けるんだけどなぁ。ねぇ皆?」
一人の声に、他の娼婦たちが「そうねぇ」と声を揃えた。それにオリバーは笑いながら参ったとばかりに諸手を挙げる。
「勘弁してくれよ。今日は祭日で商人は金稼げないんだよ」
「祭日なんだから、ぱーっとお金使っても良いんじゃないの?」
「口が達者だなァ。そう言われると―――」
その時突然、店の奥の廊下からばんと勢いよく扉が開く音がした。
「―――もう無理っ!」
声を上げて、一人の女がこちらへ掛け込んでくる。その服は所々裂けていて、腕や脚に傷も見られた。
女を追いかけるように、その後に声が続く。
「待てッ! まだ終わってねェぞ!」
ばたばたと女を追ってきたのは、ボロ切れを纏った見るからに「荒くれ者」という風な中年の男だ。
「金払ったんだ俺は客だぞ! 料金分働けよッ!」
男は他の娼婦たちに抱きとめられた彼女に迫ろうとして、その足を止めた。
男の前に、オリバーが立ち塞がっていた。
「あン、何だてめェ」
「ここの客だよ」
ぎろと睨む男に対して、オリバーはふっと笑う。
「この店の熱狂的な愛好者なのさ」
「愛好者ァ? はッ! ここの奉仕は大したことねえじゃねェか。金払っても途中で逃げ出すんだからな」
「それはあんたが悪い」
とオリバーは返す。
「女の子は大事に扱うもんだぜ?」
「こいつらは娼婦だろうが。いいから退け!」
対して男は、苛立った様子でオリバーを睨み据えた。
「でないと、てめェも怪我すんぞ」
「それでも、退かないね」
オリバーが言うと男は「そうか」と呟き、その拳を引いてオリバーに殴りかかった。
しかし次の瞬間、地面に仰向いたのは荒くれ者の方だった。
オリバーは殴りかかってきた男の胸倉を素早く掴んで同時に足をかけ、身を避けながら男を娼家の入口に向かって転がしたのだ。男は派手に転がって入口の戸にぶつかり、そのまま扉ごと外に向かって引っ繰り返った。
「てめェ何しやがるっ―――」
と男が上体を起こしたのと、オリバーがそこへ一駆けして男の脚を踏みつけたのとはほぼ同時だった。
「っ―――!」
「……知ってるか。娼婦も女なんだぜ」
苦悶の表情を浮かべる男を、オリバーは冷たい目で見下ろす。
「調子に乗るなよ。彼女らはあんたの玩具じゃない。それが分かんねェなら、お家で独りで遊びな」
「あァ!? てめェ舐めた口利いてると―――ぐッ!」
声を荒げた男の脚が、みしと音を立てる。
「舐めてんのは、あんたの方だぜ。あんまり吠えてると、ホントに家から出られなくなるかもよ?」
「あァッ……! 分かった! 分かったからやめてくれっ!」
悲鳴を上げた男を蹴飛ばして追い払うと、オリバーはふうと息を吐いて肩を竦めた。
それから、彼は男に傷つけられた娼婦の元へ歩み寄る。
「―――もう大丈夫だ。あんな酷い客、もう取るなよ?」
「ありがとう。オリバーさん……」
涙ぐむ彼女の頭を撫でて慰めると、彼は「さァて」と空気を切り替えるように言った。
「それじゃ、俺も遊ばせてもらうとするかな。ローラ、付き合ってもらえるか?」
「ええ。喜んで」
ローラと呼ばれた若い娼婦の手をオリバーが取る。それを見て周りの娼婦たちが「またローラ?」「いいなぁ」と口々に声を漏らした。オリバーはそれらの声に「次は遊んでやるからな」などと軽口をたたきながら、ローラの手を引いて二階へと階段を上って行く。
その目が、こちらへもちらと向く。
「ここ使うなら、場所代くらい置いていってくれよ」
「え、ええ……」
とそれに対してフレアは、曖昧な返事をすることしかできなかった。
オリバーという男は、存外悪い人間では無さそうだった。もちろん、フレアに絡んできたことは許していないが。ただそれも、彼なりに心配してくれたということなのかもしれない。
そんなことを考えながらオリバーの背を見送っていると、背後から声がする。
「フレア、お前も先行っててくれ」
振り返ると、リンドが入口の扉を抱えてこちらを見ている。
「……何してんの?」
「いや、このままだと困るかと思って」
言いながら、リンドは扉をがたがた入口に合わせてみている。
「それに場所代も払わないといけない。―――だから、先行っててくれ」
「……分かった」
リンドの言わんとすることを理解して、フレアは頷き二階へと歩む。「いいですよそのままで」「いや」と娼婦とリンドとが言い合うのが背中越しに聞こえた。
フレアを先に行かせるのは、彼らの入る部屋を確認して欲しいから。リンドは彼を疑っているのだ。フレアが階段を上がると、丁度扉の閉まる音が聞こえた。視認するには若干遅かったが、フレアの耳なら問題無い。一番奥の部屋だ。
フレアはその一つ手前の部屋まで行き、その戸をこつこつノックしてみる。返答は無い。幸いにして、そこは空室のようだった。フレアはそこへ入ると、戸を少しだけ開けたままにしてリンドを待った。
狭い部屋には中央に寝台があるのみだ。錆びついた鎧戸は長く開けられていないようで、動くのか怪しい。隙間から多少の日は入っているが、室内は薄暗くじめじめした空気を感じた。フレアにとって到底居心地良い空間とは言い難かった。
オリバーたちが入った隣の部屋側の壁に寄り掛かっていると、その声がいくらか耳に届いてくる。部屋に入って暫く聞き流していたざわざわいうそれが重大な情報でないか耳を傾けてみるが、耳に入ってくるのは甘い愛の囁きばかりだった。それもフレアには少々刺激の強い濃厚さを持っていたので、彼女は耐えきれずに壁から身を離した。
頬が火照っているのを感じる。男女の愛というのは、こんなにも熱いものなのだろうか。
フレアがその頬に手を当てて悶々としていると、部屋の戸がきいと音を立てた。




