17.聖女と白薔薇の名
クリストン邸での記憶。それは十年前のこと。
七歳の少女フレアは、邸宅の建物に四方を囲まれた中庭に行くのが好きだった。
家族の間で「秘密の花園」と呼んでいたそこは、家を出ることができないフレアにとって数少ない遊び場の一つだったのだ。中庭には赤や黄や橙など色取り取りの薔薇の花が咲き乱れていて、中央には簡易なテーブルと椅子も設置されている。
薔薇の花というのは、実は王都でここにしか無い。そのあまりの美しさと香しさから、教会が「信仰を妨げるもの」として、個人が薔薇を育てることを禁じたためだ。
一方で教会自身は、薔薇を置くことで人々の信仰を集めようとした。そしてそんな教会から薔薇の栽培場所として選ばれたのが、決して人目に付かないこの場所だったというわけだ。そうした経緯を踏まえれば、「秘密の花園」という呼び名も存外似合いの名前なのかもしれない。
その日もフレアは、秘密の花園へ向かっていた。日没後、家族と夕食を取った後のことだ。優しい月明かりを感じられる、涼しい夜だった。
中庭へ行くと、そこには彼女の姉の姿がある。
月光を反射して煌めく、艶のある薄茶色の長い髪。優しげな印象を受ける目尻の下がった瞳の大きな目と、大人びた印象を感じさせる泣き黒子。亜麻の一繋ぎの衣を着て凛と佇む姿は、とても十一歳の少女には見えない。
そんな姉は、フレアにとって憧れの存在だった。
「何してるの?」
美しく咲き誇る薔薇の前に立って腕を組み、何やら考えている様子の姉に、フレアは声をかける。
「お姉ちゃんも、薔薇を見に来たの?」
その声でフレアの存在に気付いたらしい姉は、ちらとこちらを見る。そして、穏やかに微笑んだ。
「……隠れ鬼でもしようかしらと思ってね」
「隠れ鬼?」
と、フレアは思わず首を傾げる。別に珍しい遊びではないが、この姉がそんなお遊びに興ずるということには違和感があった。
「誰とするの? 私も一緒に遊んで良い?」
「まだ誰とするかは決めてないの。する時には、あなたもきっと呼ぶわ」
そう答えると姉は、また視線を薔薇の方へと向ける。彼女の目の前でも、様々な色の花が庭園を彩っていた。
その一つに、姉が手を伸ばす。白い花弁の薔薇だ。
彼女は右の手を差し伸べて、その花を花托の方から優しく抱く。そして顔を近づけ、瞑目してその香りを堪能した。純白の薔薇を愛でる姉の姿は絵になっていて、その美しさに思わずフレアは恍惚として息を漏らす。
ゆったりと流れる時の中で暫し薔薇の香りを愉しんだ姉は、やがて満足した様子でそっと抱いた花から手を離す。―――と、その柔和な表情が一瞬歪む。
彼女が花から離した手―――その細く白い人差し指に、赤い血が浮いていた。恐らく薔薇の棘に触れてしまったのだろう。
「大丈夫!?」
と慌てて詰め寄るフレアに静かに頷きを返すと、姉は傷ついた人差し指で白薔薇を指差す。
「この花、何て言うか知っている?」
「え……?」
質問の意図が分からず、フレアは困惑する。
「何って、薔薇でしょう……?」
言うと、姉は頭を振る。
「そうだけれど、違うわ」
「……?」
怪訝な顔をするフレアを見て、姉は可笑しそうにふふと笑う。もちろん、口元に手を添え淑やかさは失わない。
それから彼女は、フレアに教えてくれる。
「これはね、『アルバ』とも呼ばれているのよ」
「あるば? ……って、白のこと?」
「そう、そのアルバ」
言って、姉はその白薔薇を見つめる。
「穢れ無き白い花を見た誰かが、その名で呼んだのよ。―――アルバートも、語源はきっと同じ」
不意に姉の口から出た言葉に、フレアはむっと表情を硬くする。
「違うよ、絶対。だってアルバートはお父さんたちを毎日お城で働かせてるじゃない。私たちをこの家に閉じ込めてるじゃない。退魔の力と同じ。真っ黒よ」
少々棘のある声を出すと、姉がぱっとこちらを見て、その目を瞬かせる。
それから、静かに息を吐き出した。
「……そう。真っ黒なのね」
「そうでしょう?」
同意を求めるようにそう言うと、姉は視線を白薔薇に戻す。そして、その花弁を優しく撫でた。
傷ついた人差し指が触れると、純白の花弁は赤く濡れる。
「……お姉ちゃん?」
沈黙している姉に呼び掛けると、彼女は純白さを失った薔薇を見下ろして慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
それから彼女は、ちらとフレアの方へ視線を向けた。
「フレア。―――アルバの花は、また咲くわ」
「えっ? それは、そうだと思うけど……」
フレアは困惑して小首を傾げるが、それ以上彼女は何も言わない。フレアを残して、中庭を去っていく。
そしてその日を最後に、姉はフレアの前から忽然と姿を消した。
*
フレアは、夢から覚めた。
あまり愉快な夢ではなかった。それでもその記憶が呼び起こされたのは、つい四日ほど前に出会った男が邂逅の間際に呟いた言葉のせいだろう。
彼女は未だ夢見心地な感覚を晴らそうと軽く頭を振って、掛け布をそのままに上体を起こした。
そこは、頑強な石造りの宿屋の二階。ベッドは二つあるが、今は窓際のベッドにいるフレアの他に誰もいなかった。
彼女のいるベッドの傍の鎧戸からは、朝日と共に賑やかな人々の声が入ってきている。ここは鍛冶町の南門から中央広場へ通じる大通り沿いの宿なので、街の喧騒がよく届くのだ。
ただ、それにしても随分と賑やかな朝である。既に仕事始めの時間なのだろうが、旧都の大通りでも朝からこれほど騒がしくは無かった。
何かあったのだろうかと鎧戸の方へ身体を傾けたところで、部屋の入口の戸がきいと音を立てる。はっとしてそちらへ顔を向けると、僅かに開かれた扉の隙間からこちらを窺うリンド・アルバートと目が合った。
「何見てるのよっ!」
思わず声を上げるが、相手は動じることなく淡々と言葉を返してくる。
「入って良いか」
「駄目」
フレアが即答すると、リンドは面倒臭そうにふうと息を吐く。しかし無視して入ってこようとする様子は無い。
その様子を見て、彼女は少々気がかりなことを問うてみる。
「……もしかして、本当に廊下で寝たの」
「お前が入るなって言ったんだろ」
その問いに、リンドは呆れ交じりの声でそう返してくる。
確かに、フレアは言った。
「宿代節約のために借りるのは一部屋」と言うリンドに不平を伝えるためだ。
鍛冶町までの旅路の休息地点では他に選択肢が無いので我慢してきたというのに、町に着いてもそれを強いられることに我慢ならなかった。その上ベッドが二つしかないからといって、怪力少女ニーナと一緒に寝られるほどフレアの肝は据わっていない。
故に彼女は言った。「それならお前が外で寝ろ」と。言ったのだが、頬に石壁の跡をつけて本当に廊下で眠ったらしいリンドの姿を見て彼女は困惑する。その姿は、フレアの知っているアルバートの姿とどうにも合致しない。
「……あんた、本当にアルバートなの?」
問うと、リンドは人差し指を口元で立てる。他人に聞かれると困るという意味だろう。そういうところも、アルバートらしからない。
彼の「らしからなさ」は、本日の一件に留まらない。何よりも驚いたのが、宿でニーナの教育をしていたことだ。齢十二、三というニーナが全く字を読み書きできないという事実もフレアを驚かせるものではあったが、その少女にアルバートが字を教えているという構図はそれ以上にフレアを驚愕させた。しかも、指導は懇切丁寧。ニーナの質問攻めに呆れたり溜息吐いたりするものの、リンドは必ず分かるまで説明するのだ。
もしかすると、「アルバート」違いなのではないか。その名を王家以外が名乗ることは禁じられていると知りながら、フレアはそんなことを思ってしまう。
さて、当のリンド・アルバートはというと、アルバートの話を廊下からすることを嫌って、再び訊いてくる。
「……入って良いか」
「駄目」
再び即座に返すと、彼は若干恨めしそうな目を扉の隙間から覗かせる。その構図は、少々不審だ。
フレアは溜息を吐くと、言葉を継ぐ。
「駄目だけど……、扉はもう少し開けても良いわよ。何か、覗かれてる感じで嫌」
「……注文が多いな」
面倒臭そうに言ったリンドだが、すぐに納得したように頷く。
「まあ確かに、何となく背徳感はあるな」
「やめてよ。厭らしい」
フレアがじろと睨むと、リンドは肩を竦めて見せた。
「だったらまず、下を穿いた方がいい」
「はぁ?」
彼の言葉の意味が分からずに怪訝な声を出すと、リンドはちょいちょいとベッドの傍の床の辺りを指差す。その方を見やれば、そこには見慣れた赤い厚手の衣が落ちていた。
どう見ても、彼女のスカートだ。
「……え?」
ぱちぱちと、フレアはその目を瞬く。そして思考が追いつくと、ばっとその下半身を覆っている掛け布を抑えつけた。そこには確かに、慣れ親しんだ衣服の厚みが無い。
「念のために言っておくが、俺じゃないぞ」
かあと頬を紅潮させて固まるフレアに、リンドが変わらず落ち着き払った声で言う。
「多分ニーナだ。お前が自分で脱いだんじゃなければ」
「脱ぐわけないでしょッ!?」
怒りと羞恥とで真っ赤なフレアはくわっと彼に噛みつく。
「いいから早く戸を閉めろっ!」
「いや、お前が開けていいって―――」
「閉めろッ!」
フレアの投げた枕は、魔法よりも余程確実にリンドの顔面を捉えた。
*
フレアが身支度を整えて部屋の戸を開くと、リンドが少々不機嫌そうに突っ立っていた。手にはしっかり枕を抱えていて、フレアが出てくるとそれをぐいと押しつけてくる。その様は、どこか少年染みていた。
歳は同じくらいのはずだが、そうしていると年下を相手しているようだ。フレアが言えた義理ではないが、こういうところに大きな家に守られて育った「お坊ちゃま」気質を感じる。無論フレアもしっかり「箱入り娘」なので、文句言いたげな彼に謝りはしないのだが。
「―――あんた、いくつなんだっけ?」
代わりにどうでもいいことを訊きながら、枕を受け取る。
「十八」
リンドのやや不機嫌そうな声を背に受けながら、フレアは部屋のベッドに枕を戻す。
年下どころか、一つ年上だった。
「お前は?」
彼に問いを返されて、彼女はふんと息を吐き出す。
「同じよ。……大体」
詰まらない見栄を張りながら、フレアは今度こそ部屋を後にした。
階下に下りると、フレアたちはそこで小さなパンと具の無いスープだけの軽い朝食を取る。フレアには少々物足らないが、無いよりはマシだ。
「日々の恵みに感謝します。私たちに、……」
祈りを捧げる彼女を前にして、リンドは気にする様子も無くさっさと食事に有り付く。これに関してもそろそろ一言言ってやろうと思ったのだが、それはもう一人がいる時の方が良いだろう。フレアは祝詞を述べ終えると、そのもう一人の行方について問う。
「―――それで、あの性悪娘はどこへ行ったの?」
「随分な言われようだな」
「随分なことしてくれたからね」
未だ怒り覚め遣らないフレアに対して、リンドは片肘突いてやれやれとばかりに息を吐いた。
「高が子供の悪戯だろ」
「そうよ、悪戯よ。だから、ちゃんと叱るの」
「……魔法は使うなよ」
リンドは冗談半分にそう釘を刺す。もう半分は本気でフレアならやりかねないと思っているらしい。
実際には、フレアであればこそ魔法を安易に使おうとは思わないのだが。
それはさておき。
「肘。行儀が悪い」
彼女はリンドの態度を注意してから、話を戻す。
「それで、あの子はどこ行ったのよ」
「祭り」
「祭り?」
端的に過ぎる彼の回答に、フレアは首を捻った。
「どこかで催し物でもあるの?」
「どこかじゃなくて、どこもかしこも祭りだ」
とリンドは答える。
「今日はこの町の大きな祭日らしい」
それを聞いて、フレアは納得する。通りが賑やかだったのは、そういう理由だったのだ。
「……ていうか、じゃああの子は遊び歩いてるわけ?」
フレアが呆れ交じりの声を出すと、リンドはうんと頷く。
「随分燥いで、飛び出していった。……騒ぎは起こすなと言ったが、どうかな」
言葉の後半には、若干の不安が滲んでいる。しかし、フレアが言いたいことはそういうことではない。
「遊んでる暇なんてないでしょう! 先を急がなきゃ―――」
「一日くらいいいだろ」
と、リンドは淡々といつもの調子で彼女の声を遮る。
「それに、俺も他に用がある。その用を済ませるまでの時間潰しってことなら、問題無いだろ」
「用って、何よ」
問うと、リンドは食事を終えて席を立つ。
「買い出し」
そう言って、彼はすぐに宿を出て行った。




