14.聖女の苦しみ
旧都の夜。フレアは夢を見た。それは、彼女の記憶。
王都の王城の隣に建つ石造りの邸宅。中庭を正方に囲う形のその建築は、規模も大きい。しかしながら隣に城があるせいで、相対的にその規模感は失われていた。
そんなクリストン邸の二階に、フレアの部屋はあった。広い部屋で、手足を一杯に広げてもまだ余裕があるベッドや、書物を傍らに広げて勉学に勤しむことができる机と椅子、更には多くの書物や服飾を収納できる棚も設置されている。それらを置いてなお、舞踊を練習できるほどの領域が残る。それくらいに広い部屋だ。家から頻繁に出入りすることができないフレアにも窮屈さを感じさせない、満たされた空間だった。
だが、今その場に立たされた亜麻色の一繋ぎの衣を纏った彼女の内心を占めるものは、恐怖と怒りだけ。
これは記憶だ。そう気付いてしまった彼女はただ身を硬くして、部屋の入口の扉を睨み据えるしかない。
やがてその扉が、ゆっくりと開かれる。
部屋に入ってきたのは、二十歳くらいの若い男。少し長めの茶髪で顔立ちが整った彼は、にこやかに歩み寄ってくる。服装は上下とも白を基調とした清潔感のある亜麻の衣で、腰には一振りの剣を差している。そして視線を落とせば、左の掌に黒い龍の印がちらりと覗く。つまり、アルバートの人間だ。
「聞いたよ。どこだかの貴族の御曹司とくっつけられそうになったんだって?」
男はフレアを気遣うというより半ば茶化すような声音で言う。対して彼女の口は、その時を再現するように同じ台詞を吐く。
「……あんたには関係無いわ」
「冷たいこと言うなよ! 何度もこうして逢ってる仲なんだし」
「あんたが一方的に押し掛けて来てるだけでしょう」
フレアは冷たい眼差しを向けるが、彼が動じる様子は無い。ふふと笑って、一歩距離を詰めてくる。その分フレアが一歩退いたので、その距離は変わっていないが。
「『あんた』なんていう無粋な言い方しないでさ、名前で呼んでくれよ。『マルク』って」
「冗談じゃないわ。誰があんたなんかを―――」
「でもさァ、実際その方が良くない?」
唐突にぐいと迫ってきた男―――マルク・アルバートに恐怖を感じ、フレアはすぐに距離をとる。しかし、その後背はベッドだ。足をとられてぺたんとそこに尻餅をついてしまった。
そんな彼女を見下ろして、マルクは笑みを浮かべながら言葉を継ぐ。
「アルバートと交われば、退魔の力と魔法の両方をクリストンの子に継がせられるかもしれない。父さんたちは、それを恐れて僕らの接触に口を挟むんだ」
そう話す彼は口元こそ吊り上がっているが、目は笑っていない。その瞳の中にあるものがフレアに対する色欲なのかそれとも父親に対する憤怒なのかそれは分からないが。
「―――だからさ。ちょっと金があるだけの貴族と繋がりを持つよりも、僕の妻になってアルバートの王女になった方が得だと思わない?」
「……あんたが、次の王になるって言うの?」
「可能性が無いわけじゃない」
とマルクは応じる。
「僕だって継承順位は第三位だ。―――それに王にならなかったとしても、君を幸せにすることはできる」
「私の家族は?」
「え?」
聞き返す彼をじろりと睨みつけて、フレアは尖った声を向けた。
「私とあんたがくっついたとして、それでクリストンはどうなるの?」
問うと、マルクはふっと笑う。
「もちろん、大切に扱うさ。君の家族なんだからね」
そしてその左手でフレアの頬をそっと撫で、次いで彼女の肩を優しく掴むと、ゆっくりとベッドに押し倒した。対してフレアは唇を噛んで両手で敷き布を掴み、首を横に向けて視線を部屋の片隅へ逃がす。目の前の現実を、直視しないようにするために。
フレアに覆い被さるマルクの左手が、彼女の赤みがかった長い茶髪を梳く。そして再び彼女の肩に触れ、腕を摩りながら腰の辺りまで滑る。それから腹の方へ流れて臍の辺りから正中線をなぞるように身体を上り、胸の間を通って襟元を締めていた飾り紐にかかった。
するりとその手が飾り紐を解き、緩んだ襟元からフレアの目映いばかりに白い柔肌が覗く。身体中を這い回る不快感に、彼女は思わずぎゅっと目を瞑る。そんな彼女の耳に、マルクの熱い吐息がかかった。
「大丈夫。クリストンの家も、僕がちゃんと保護してあげるよ」
「……保護?」
囁かれた言葉に、フレアは視線を目の前の現実に戻す。その彼女に、マルクは笑顔で頷いて見せる。
「そうだよ。僕が守ってあげる」
しかしその言葉で、フレアの眠っていた、眠らせていた感情が目を覚ました。
「―――それじゃあ、今と変わらないじゃないっ!」
叫び、好き勝手這い回っていた彼の左手を撥ね退ける。
「家畜みたいに囲われて飼われるのは、もう御免だわ!」
「大丈夫だよ。君のことは僕が幸せに―――」
「嫌っ! 離してッ!」
強引に続けようとするマルクに対して、フレアは激しく抵抗する。
そうして強く振り薙いだ右手が、マルクの横っ面を掻いた。
ぱたたと、フレアの白い衣の上に小さな赤い染みができる。彼女の爪が、マルクの整った顔の頬の辺りに深い引っ掻き傷をつけていた。
マルクの動きがぴたと停止する。彼は頬をぐいと拭うと、その手についた血を見る。
そして、烈火の如く激怒した。
「何してくれるッ!」
叫び平手でフレアの頬を思い切り叩く。そしてその両手を、彼女の首にかけた。
「人が優しく接してやってるのに、何だその態度はァ!」
「―――っ!」
徐々に絞まっていくその両手を外そうとフレアは藻掻くが、激昂したマルクの強い力が彼女の意識を遠のかせる。
抵抗が弱まったフレアを見下ろして、マルクはふっと満足げに笑んだ。
「全く、とんだじゃじゃ馬姫だな」
そして不意に、彼がかくっと項垂れる。
「前に貴族の御曹司が来た時も、顔を焼いたんだろ?」
俯いたままのマルクの言葉に、フレアはびくりと肩を弾ませる。汗が吹き出し、呼吸も荒くなる。そんな彼女を嘲笑うかのようにくくっと声を漏らした彼は、顔を上げる。
「……こんなふうに、焼いたんだろ?」
その顔は、赤く焼け爛れていた。ぼたぼたと熱い鮮血がフレアの身体に落ち、消えない染みを増やしていく。
「……ッ!」
ひっと声にならない悲鳴を漏らして、彼女は顔を覆った。
なァ、こっちを見てくれよ。
お前が、こんなにしたんだぜ。
目を背けるなよ。
もう、何もかも台無しだ―――。
マルクといつかにやってきた貴族の男の声とが、交互に反響する。フレアはぎゅっと目を閉じ、両手で耳を塞いだ。それでも、赤い雫が身体を叩く感触は消えない。彼らの声も頭の中で響き続ける。
彼女は恐怖に震えながら、ただ朝日がその身を目覚めさせてくれる時を待った。
*
西に沈んだ太陽は、必ず東よりまた昇る。その当然の事実が、彼女を悪夢から救い出した。朝日が鎧戸の隙間から部屋を明るくし、フレアの目を覚まさせる。
目を開いた拍子に頬の辺りをつっと伝ったのは、汗かそれとも涙であったか。ぼーっとした頭では分からなかったが、どちらでも構いはしない。既に過ぎ去ってしまったことに対して流す感情を根本から解決することはできないと、フレアは理解している。
故に彼女はすぐにそれをぐいと拭い去って、この先に流し得る涙を止めるために動き出す。ベッドから出ると、部屋の机の上に放られた諸々の装備を拾い上げて身につける。準備が整ったところで、すぐに宿を出た。
目的地は、向かいに建つ老舗と思しき酒場だ。店の名は「ルイス」というらしい。看板が出ている。ただ、それ以外に文字情報は無い。
店は営業しているのだろうか。フレアはきょろきょろと店の様子を窺うが、分かるのは正面の鎧戸が少しだけ開いていることくらいだ。仕事始めの鐘は、先ほど宿の部屋で耳にした。だが、酒場の場合は職人たちの場合と少々勝手が違うはずだ。酒場は仕事終わりの職人たちが語らう場所であり、即ち夕方頃の時間帯が一番の書き入れ時であるはず。そうなると、朝に店を開いているとは考えにくい。
ただ、フレアとしては日暮れまで待っているわけにいかない。一刻も早く情報を得ねば、目的の人物を取り逃がしてしまうかもしれないのだ。
彼女は入口に何の示し書きも無いことを言い訳に、酒場の戸を開いた。
酒場の店内は、薄暗かった。鎧戸が少ししか開かれていないために、朝の陽光が十分に入ってきていないのだ。
やはりまだ開店していなかったか、とフレアが肩を落としてはあと溜息吐いていると、不意に店の奥から声がした。
「―――何か用かい」
突然の声に、フレアはびくりと肩を弾ませる。それから店の奥へ視線を巡らすと、そこに一人の女の姿を見つけた。
店のテーブルの席の一つに着いている膨よかな中年の女は、疲れた様子でこちらに視線を向けている。
「……あの、もしかしてまだお店営業していませんでしたか?」
「―――あぁ、そういえば閉店の札を掛けてなかったね」
フレアの問いに、店主と見られる彼女はそのことに気が付いたようだった。
「やっぱりそうでしたか。すみません、出直します」
「待ちな」
詫びて踵を返したフレアの背に、女店主の声が掛けられる。
「札を掛けてなかったのは、こっちの落ち度だ。用があれば聞くよ。食事かい? それとも依頼?」
「……では、食事をお願いします」
彼女の言葉に甘え、フレアは答えた。そして女店主が杖を片手に席を立ったそのテーブルの向かいに座ると、机上に銀貨を一枚置く。
フレアが置いた銀貨に、女店主は目を丸くした。それから、怪訝な表情を浮かべる。
「うちで、そんな高価な食事なんて出せないよ」
しかしフレアは、出した金を引っ込めない。
「情報料も、含んでいるつもりです」
「情報料?」
その言葉に、女店主は益々怪訝そうにフレアを見る。
「何を訊こうって言うんだい」
「―――アルバートのこと、です」
答えると、女店主の動きがぴたと止まる。そしてその目が、じろりとフレアを睨み据える。
「……あんた、アルバートとどういう繋がりだい」
威圧感のある視線と声に、しかしフレアは真っ向から相対する。眼光鋭く女店主を見返し、やや低い声で答える。
「家族を殺されました。男を充てがわれました。暴力を振るわれました。―――もうあんな目に家族の誰も遭わせたくない。だから、話を付けに行くんです」
「……」
彼女の赤茶の瞳に灯る怒りを見つめて、女店主はふうと息を吐き出す。
「情報料は、要らないよ」
「え?」
「知ってることは話す。金は要らない。分かったら、その銀貨は仕舞いな」
彼女の言葉に暫し、フレアはぽかんとしていた。
それから、はっとして声を上げる。
「あ、いえ、お代はこのままで!」
「要らないって言ってるだろ」
「いえ違います。そういうことじゃなくて……」
鬱陶しそうに言う女店主にすぐ言葉を返して、フレアはその腹を摩る。
「お腹が、空いてるんです」
「だから、うちでそんな高級なものは―――」
「はい。ですからそういうことではなく……」
フレアの説明は何とも歯切れが悪かったが、それでも言わんとすることは伝わったようだった。
女店主は、暫く呆気にとられた顔でフレアを見返していた。




