13.聖女の一人旅
(キャラクターイラスト制作:たたた たた様)
王都を出立して、早三日。その北西に位置する大都市「旧都」は、ようやく近づいてきていた。
平坦で地平線を遮るものが北方の森くらいしかない土地柄、遠景には早くから街の姿が見えていた。しかし足を繰れども繰れども中々近づくことができず、彼女―――フレア・クリストンはもどかしい思いをさせられていたのだ。
歳はまだ十七で足腰丈夫な彼女だが、これまでほとんど家から出ることができない生活を送ってきた。広い邸宅ではあったが、しかし当然その生活で旅するに十分な身体ができているはずもない。
王都の街に出てから買った丈の長い麻布の外套で全身を覆い、頭巾も被って顔を目立たなくした出で立ちで、フレアははあはあ息切らしながらなんとかここまでやってきた。
魔法の時代以前からあるという石敷の旧街道の上を歩いていれば、一定間隔で宿場施設を営む小さな村があるので、危険な野営は避けられる。ただそれも、自室以外で眠ったことが無い彼女にとっては慣れないことで、十分な休息が取れているとは言い難かった。小さな村では宿泊客それぞれの空間が仕切られているだけで御の字、といった具合だ。十七の若い娘がそこでぐっすり、というわけにもいかない。
そんなわけで、ようやく大きな街に辿り着こうというフレアは既に満身創痍であった。
日は傾いてきているが、日没までには旧都に到着できるはず。そう算段がついて、フレアは溜息とも安堵の息ともつかないような息を吐き出す。
しかしながら、外の日常は息もつかせない。
旧都よりやや西方から、フレアの方に向かって二頭の狼が南下してくる。だが、彼女は自身でも不思議なほどに冷静だった。慌てふためくほど元気が無い、というのが実際のところであろうが。
いずれにせよ、彼女は対象を捕捉した時点でその力を見定めていた。魔物ではあるだろうが、精々第五世代の少々身体が大きいだけの獣。十分な距離で捕捉できた今、フレアにとって問題にはならない。
彼女は羽織った外套から右手を差し出し、胸の前で水平に一線を引く。さらに引いた水平線を断つように垂直線を引き下ろし、そこに十字を描く。魔法を使えるようにするための作法だ。それで準備が整ったことは、赤い輝きを放つ右の掌を見れば一目瞭然。あとはその右手で呪文を綴り、詠唱すれば魔法が発動する。
フレアは紅蓮の光を漏らす右手を、こちらに駆けてくる狼たちに差し向ける。早くに気付けたため、落ち着いて狙いを定めることができる。正確に対象に当てるその精度には自信があった。彼女は白く細い人差し指で、迫ってくる狼たちよりも若干手前側に線分を描く。そこに生まれる光の軌跡を、彼女の目では確実に捉えている。
同時に、中指では器用に呪文を綴る。魔法原書の各頁に記された最初の文字列。それが、それぞれの魔法を呼び出す合言葉だ。意味は分からない。呪文以外の記述に至っては字体も崩れていて、真面に読めもしない。それでも頁に右手をかざせば、彼女の中に全ては記憶される。
だからフレアは、ただ綴り謳えばいいのだ。
「氷結!」
彼女の声に応じて、向かってきた狼たちの足下が凍り付いてその足を地面に張り付ける。
足は止めた。あとは、確実に仕留めるだけだ。彼女はいつもの通り、もう一言を口にする。
「燃焼!」
それで狙い通り、フレアの言葉は炎となって狼たちの身体を焼く。
勝負はついた。ただ、今の一撃が今使える最後だったかもしれない。身体のエネルギーを、大分使い果たしてしまったようだ。自身の消耗を感じながら、彼女は呻く魔物たちから視線を外してふうと息を吐く。集中を解くと、熱を持って輝いていた右手の光も消える。
打ち倒した狼は毛皮を剥げばそれなりの金になる、らしい。だが黒焦げでは、相手にして貰えないだろう。それにこれまでほとんど家を出たことがない彼女には、毛皮を剥ぐ技術も精神力も無い。
故に早々に諦めて、フレアは再びその足を旧都へ向けた。
*
多少足止めを食いはしたものの、日没前の茜空の下で彼女は無事旧都に行き着いた。
街の南門では、他の村や町のように門衛による「印」の確認が行われている。言うまでも無く、フレアのような魔法人を中に入れないためのものだ。
ただ彼女には、中に入る方法があった。そうでなければ彼女はどこへ行っても門前払いされてしまって、旅などできるはずもない。気の進まない方法ではあるが、この場においては仕方が無い。フレアはふうと溜息交じりの息を吐いてから、門衛の元へ歩んだ。
「両手を開いて見せてくれ」
槍の石突で石敷の地面を打って、簡易な鉄鎧姿の門衛の男は言う。その指示に従い、フレアはその両の掌を彼に示した。その右の掌には、もちろん赤い龍の印がある。
門衛の目が、大きく見開かれる。そしてすぐさま、その手の槍をフレアに突き付けてきた。対して彼女ははあと息を吐いて、その外套の前を開ける。中に着ているのは白色を基調としたやや厚手の上衣と、紅色のスカート。こちらも厚い生地のスカートは膝丈ほどの長さだが、その下に黒の下衣を穿き膝を覆う長い白のブーツも履いている。動きやすく怪我もしにくいようにと、彼女なりに考えた装備だった。
フレアはその白の上衣の襟元を緩め、その下を弄る。
「何をしている……!」
警戒感を強めたことを示すように門衛は声を上げるが、その目は僅かに覗く彼女の白い柔肌と鎖骨に奪われている。その視線に気付いているぞとばかりに赤茶の瞳でちろっと睨みを返しながら、フレアは上衣の下に隠していた首飾りを引き出す。
フレアの右手の印とよく似た、しかし黒い龍を模した首飾り。つまり、王家アルバートを象徴する品である。それを見せれば、門衛には伝わる。目の前の彼にもそのことは伝わったようで、彼は槍を彼女から引く。
「……クリストンか」
その「首輪」をかけているという事実が示すのは、アルバートに降った者であるということ。そしてアルバートに降った魔法人の一族は、唯一つしかないのだ。
そんなものを着けて晒すのは不愉快極まりないが、しかし街を行き来するために外すわけにはいかなかった。
「もういいでしょ? 通して」
思わず声にも、棘が出てしまう。
しかし通り抜けようとしたその行く手を、再び槍が塞いだ。
「待て。アルバートの方は一緒じゃないのか?」
流石に大きな街だ。首飾りだけでは通してもらえないようだった。
「……先に、中に入って行っちゃったのよ」
フレアは予め考えておいた言葉を返す。彼女の歩みに間違いが無ければ、それで通るはずだ。
そしてフレアの思った通り、門衛は「あぁ」と呟く。
「そういえば通られたな。あんた置いて行かれたのか?」
「そうよ置いて行かれたの」
やや苛立ちの交じった声を向けると、門衛は頷いた。
「分かった。それじゃあお呼びしてくるから、ここで待っててくれ」
「―――えっ?」
思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまったが、門衛はさも当然といった様子でこちらを見る。
「クリストンでも、次からはアルバートの方と一緒に行動してくれ」
「……」
「―――まったく、昨日の消える子供の次はクリストンとはなァ……」
むっと口を引き結ぶフレアを置いて、彼はぶつぶつ言いながら門の反対側に立つもう一人に状況を説明しに行ってしまった。
―――面倒なことになった。
フレアは渋い顔をして、頭を悩ませる。彼女のことをそのアルバートに伝えられれば、話の矛盾が浮き彫りになる。そうなれば最悪、アルバートと顔を合わせることが無いまま王都へ強制送還させられることもあり得る。それではここまでの苦労が水の泡であるし、次の機会は無いかもしれない。そんな事態は、避けねばならない。
どうすべきか。一旦、この場を離れるべきか。しかし事が知れてしまえば、逃げても捕まるのは時間の問題だ。
焦りがあるせいか考えはちっとも纏まらず、時間だけが過ぎていく。内心で頭を抱えていると、先ほどの門衛が戻ってくる。
そして、彼は言った。
「通って良いぞ」
「……え?」
「許可が下りた。次から気をつけてくれ」
フレアがぽかんとしている間に、門衛は彼女に道を開ける。
「……ありがとう」
釈然としないが礼を言って、フレアは旧都の門を抜けた。
日没も迫る中、旧都の大通りは仕事を終えて酒場や家に向かう人々が多く行き交っていた。それだけ人がいればフレアの存在感も大分薄まるが、人の目が多いということでもある。フレアはその両手を柔く握り、頭巾を被ったままの頭は心持ち俯かせて静かに大通りを歩いた。
今日のところは、通り沿いの宿屋で一刻も早く身体を休めよう。そう思い宿を探そうと周囲の漆喰塗りの木造建築に首を巡らせた、―――その時だった。
「っ!」
不意に前方を歩く人たちが左右に分かれたかと思うと、小柄な少女が勢いよく突っ込んできた。突然のことに、フレアはよけることができずにぶつかってしまう。
「痛っ……!」
相手の勢いが強く尻餅をついてしまったフレアは、相手をきっと睨む。
「ちょっと、どこ見てんのよ!」
しかし相手の方から、応答は無い。
鮮やかな青の衣を身に纏った黒髪の少女は、歯を食いしばって涙を堪えているように見えた。しかし、それも束の間のこと。少女はすぐに、フレアを押しのけるようにしてだっとまた駆け出す。
「こらっ! ちゃんと謝りなさいよっ!」
はっとして声を上げるが、もう遅い。少女はどよめく人々の間を抜けて、どこかへ走り去ってしまった。
「もう、何なのよ……」
不平を口にしながら、フレアはよろよろと立ち上がる。歩いている間は気が付かなかったが、脚にももう大分疲れが蓄積しているようだ。
早く宿で休みたい。そう思っているのに、今度はすぐ傍から声を掛けられる。
「君、大丈夫?」
気遣わしげな男。だが、油断は禁物だ。
「いえ、結構です」
「え? いや、大丈夫かなって―――」
「結構ですっ!」
困惑する男を振り切るようにして、フレアはその場を離れる。
転んだ時に、顔が見えたのかもしれない。露出は控えているが、膝の辺りが外套から出てしまったのかもしれない。或いは身体のラインが―――。不毛な推測に頭を回してしまい、思わずフレアは溜息を吐く。
フレアは、自身が人並み以上に「女らしい」ということを自覚していた。それは生来に持ったためでもあるだろうし、また広い邸宅の中だけで大切に育てられてきたためでもあるだろう。しかしそれは必ずしも彼女にとって幸福なことではなく、むしろ十七の若い娘にとってはコンプレックスですらあった。
故にフレアは外を歩く際、その丈の長い外套をいつも纏うことにしたのだ。それでも、先のように声を掛けられることはしばしばあったが。
その内の一つが例え誠実なものであったとしても。今の彼女に、それを見定められるだけの余裕は無い。
フレアは足早に大通りを進むと、ようやく宿を見つけてそこへ入る。
向かいには、丁度酒場も見られた。明日「情報」を得るために行ってみるとしよう、と考えを纏めながら、彼女は宿で部屋を取った。
大通り沿いの宿屋であれば設備が良いことはもちろんのこと、何より宿泊する人間が絞られ比較的安全性が高い。それは彼女にとって、何よりも重要なことだった。
部屋に入るとフレアは長い外套を脱ぎ捨て、膝下までを覆うブーツを脱ぎ捨て、白の上衣の襟元を緩めてアルバートの首輪を放り、ベッドに倒れ込んだ。寝台上に、赤みがかった艶のある長い茶髪が流れ落ちる。
慣れない旅で、脚はぱんぱんに張ってしまった。そんな脚を親指でぐいぐい撫で付けているうちに、フレアはすぐ深い眠りに落ちていった。




