100.少年と女神
王都も忙しく発って、東方へ。
その先にあるのは、もうウーゼルの故郷だった。
港町。
そう呼ばれているが、海の向こうの国と船の行き来があったのはずっと昔のことだと聞く。
この町を包含する王国に変化が起こった後も、その状況に変わりは無かった。海の向こうの国は、まだこの島の変化に気付いていないのだろう。
だがこちらからそれを知らせるには、まだ時期尚早だ。―――と、ウーゼルの父はそう言っていた。事実を知った海の向こうの国がどう動くか分からない、と言うのがその理由だ。
そんな訳で、港町には現在も他の町の人々に自慢できるようなものが何も無かった。昔はアルバートに支配されない「自由の町」と呼ばれていたこともあったようだが、全ての人々が解き放たれた今となってはその看板も霞む。
それどころか、自由故に他の町より治安が悪いと捉えられることも多いようだ。裏町の方に入っていかなければそれほど危険は無いのだが、それをはっきりと言えるのは今のところ町に住んでいる人間だけだった。
そのためウーゼルは、自分が生まれたこの町をあまり好いていなかった。
他の町を見てきた後だと、余計に見劣りする気がした。しかしそれでも「帰ってきた」と思うと心に安らぎを感じてしまうのだから、故郷とは不思議なものだ。
茜色に染まり始めた町へ向かって、ウーゼルは荷を背負って歩んでいく。
疲れていても、彼の足は自然と早まった。
「早く帰ろ!」
「はいはい、転ばないで下さいねー」
ニーナの声を背に町へ駆け込んだウーゼルは、しかしすぐに足を止めた。
あまり会いたくない人間に出会してしまったからだ。
「あ、ウーゼルじゃない」
「……」
声を上げて近づいてきたのは、一人の茶髪の少女。
ウーゼルより一つ年上の彼女は、名をイグライネと言う。
どうも彼のことが気に食わないらしく、ちょくちょく絡んでくる面倒な相手だった。
「どこ行ってたの?」
「色々。鍛冶町とか、大都とか―――」
「何それ、狡い!」
言ってイグライネは、ウーゼルの肩をどんと押す。
「商人の家の癖に、生意気……」
「それとこれとは、関係無いじゃん」
「私は王女で、あんたは商人の家の子。私の方がずっと偉いのよ? なのにあんたが私より良い思いしてるなんて―――」
また始まった、とウーゼルは内心で溜息を吐く。
否、実際に吐いていたらしい。イグライネの表情が、不快感を示した。
「何よ、何か文句があるの?」
「別に無いけど……」
「はっきりしなさいよ!」
「おっと、喧嘩ですか?」
とそこへ、追い付いてきたニーナが問うてくる。
それでウーゼルは助かった、と安堵した。
実際、イグライネは気勢を削がれていた。
「あ……、ニーナさん。お帰りなさい」
「只今です。どうしました? うちのウーゼルちゃんが、何かしました?」
「ニーナ姉ちゃん……、お願いだからその呼び方やめて」
そういうところから、また色々言われ兼ねない。
だが幸いなことに、イグライネにその余裕は無いようだった。
「い、いえ、別に……。喧嘩ってつもりも無くて……」
「そですか。まァ、年近い子もそんなにいないですからね。仲良くしてあげて下さいな」
「は、はい! 仲良く、させて下さい……」
ニーナにぽんぽんと頭を叩かれて、イグライネは恥ずかしそうに頬を赤らめる。
その回答はどう考えても、ウーゼルとのことを言ってはいないだろう。
呆れ交じりの息を吐きながらその様子を見ていると、そこへイグライネの父親がやってきた。
「おや、怪力女のご帰還か」
「その呼び方、嫌いです」
向けられた言葉に、ニーナがべっと舌を出して返す。
対して彼は「悪い悪い」と、反省の色も見せずに言った。
彼の名は、オリバー。
解放以前は鍛冶町に住んでいたらしいが、何やらそこに居られない事情があって港町へ移ってきたそうだ。
鍛冶町に住んでいた時に、彼は今の妻であるローラと恋に落ちた。そして二人は逃避行の末、港町に骨を埋めることにした。―――と言う話は何度も聞かされたので、ウーゼルはすっかり覚えてしまっている。
「―――って言うか、こんな所にのこのこ出てきて良いんですか?」
とニーナが呆れ交じりの声で問うた。
「純人新王国の王サマなのに」
「王様だって息抜きしたいし、姫の付き添いもしたいの」
「あー、そうですかー……」
オリバーの冗談めかした答えに、ニーナも気の抜けた声を返す。
本当に王とは思えない雰囲気の男だ、オリバーと言う男は。
しかし彼が家名を持たない低位の人間だったと言うことを知っていれば、納得もいく。
十年前に、オリバーは解放に関わる大きな功績を立てたらしい。そしてその功績によって人々から支持され、解放後の新たな国の王にまで上り詰めたのだ。
だがそうした位に即いても、彼の態度は変わらなかったようだ。
今もニーナと対等な言葉を交わしている。
「ところでお前、俺の姫君を誘惑するのやめてくれる?」
「はあ?」
と眉根を寄せるニーナに、彼は言った。
「うちの姫が、お前に憧れちゃってるの。お前みたいに粗暴になったらどうすんだよ」
「お父さん言わないでよ! 恥ずかしい……」
と言って、イグライネが頬を朱に染める。
そうしていると可愛らしいが、普段は既に荒っぽいので手遅れかもしれない。
ウーゼルが内心で思う一方、ニーナは「へえ」と嬉しそうな声を出した。
「イグライネちゃんは王サマと違って見る目がありますね、王サマと違って」
「煩ぇ。余計なことするようならリンド王じ―――っと、リンドに言い付けるからな!」
「ふふん。リンドさんになら喜んで叱られてやりますよ」
「そこで威張るなよ……。ホント、うちの姫が心配になるわ」
悩ましげに頭を掻いたオリバーは、それで話を切ってイグライネに「行くぞ」と言う。
それに姫君も頷きを返してニーナに「それではまた」と礼儀正しく挨拶すると、父と共に去っていった。
そんな彼女らを見送ってから、ニーナもウーゼルに目を向けて言う。
「行きましょうか」
「うん」
と応えて、ウーゼルは彼女と一緒に歩き出した。
もう彼の家はすぐそこだ。
「―――ねえ、」
と歩きながら、ウーゼルはニーナに声を掛ける。
「王様は、時々『リンド王子』って言うよね」
「そうですか?」
「うん。絶対言ってる」
と彼は断言する。それから、問うた。
「何でなの?」
「さあ? リンドさんが王子っぽいからじゃないですか?」
「……っぽくないよ」
どこからどう見ても、そんな風には見えない。
思いながら、ウーゼルははあと溜息を吐き出した。
今度も、はぐらかされてしまった。ウーゼルが真実を知る日は、まだ遠そうだ。
問答している内に、二人はウーゼルの家に到着した。
ウーゼルが家の戸を開こうとすると、それをニーナが押し止める。
そして、扉に耳を当てた。
「どーれ……。あっ、やってるやってる」
「やってる?」
気になってウーゼルも聞き耳を立ててみるが、何も聞こえない。
ニーナは腕力や脚力だけで無く、視力や聴力も人並外れている。恐らくウーゼルでは聞き取れない音を、彼女の耳は拾っているのだろう。
「何が聞こえるの?」
「しっ」
とニーナが、口元で人差し指を立てる。
そして、にやっと笑んで見せた。
「大人の社交です」
「何それ?」
首を傾げたウーゼルは、しかし別のことに気付いた。
聞き耳を立てるニーナの後方から、見知った人物が近づいてきていた。
その黒髪の男が、口を開く。
「何してんだ?」
「うおわっ!」
と驚いたニーナが、扉にがんと頭をぶつける。
すると何故か家の中からも、ばたばたっと慌ただしい音が聞こえてきた。
それは扨措き、ニーナは声を掛けてきた男を睨む。
「行き成り話し掛けないで下さいよ」
「扉に耳当ててる不審な女がいたから、声掛けたんだよ……」
と彼はそう返した。
その彼に、ウーゼルは問う。
「アニー兄ちゃんは、どうして来たの?」
「ん?」
問いを受けて、彼―――ニーナの弟であるアニーは怪訝な顔をした。
そして、言葉を返してくる。
「どうしてって、今日はお前の誕生日だろ? 違ったか?」
「―――あっ」
「あーあ、言っちゃった」
あんぐりと口を開けているウーゼルの横で、ニーナが言った。
「忘れてるみたいだったから、お祝いの直前に教えて驚かせようと思ってたのに……」
確かに、忘れていた。
初めての旅に浮かれていて、自分の誕生日のことなど意識していなかった。
ニーナが旅を急いだ理由も、これで分かった。
彼女のお陰で、ウーゼルは無事に故郷で八歳の誕生日を迎えられたのだ。
「そんなこと言ったって、俺は知らなかったんだから仕方無いだろ……」
「空気で察して下さいよ。そんなだから、女にもてないんですよ」
「お前も男の気配すら無ぇだろ!」
「私は作ってないだけです。できないわけじゃないですよ、あなたと違って」
晴れやかな誕生日に合わない険悪な雰囲気をアニーとニーナが醸し出しているが、しかしこの二人はいつもこんな感じなのでウーゼルは今更気にしない。
暴力沙汰になることは滅多に無く、ただこの二人は喧嘩腰でしか話ができないようなのだ。
「ねえ、いいから中入ろうよ」
ウーゼルが言うと、ニーナが口喧嘩を打ち切って「そですね」と応える。
「まあ、今入って大丈夫かは―――」
と彼女が言い掛けたところで、家の戸が開かれた。
「あぁ、ウーゼル、お帰り……」
「ただいま……。何、どうしたの?」
ウーゼルは、何故か息を切らしている母を怪訝な顔で見る。
赤みがかった長い茶髪のその女が、ウーゼルの母であるフレア・バリスタだ。
ややそそっかしい所はあるが、表情豊かに息子の過ちを叱り成長を褒める良き母だった。
その母は、今は苦笑しながら「ちょっとね……」と答える。
「その……、今起きたばっかりで。慌てて身支度して来たから―――」
「フレアさん、あの……」
とそこへ、アニーが言い辛そうに声を向けた。
彼は視線を逸らしながら、服の襟を触る。
それでフレアは自分の服の襟元が乱れていることに気付いたらしく、「ごめんなさい!」と真っ赤な顔でそれを整える。
その様を、ニーナはにやにやしながら見ていた。
「あらあら、夜にはまだ早いんですけどねェ。もう寝てたんですかー?」
「それは、返す言葉も無いけど……」
「いや、良いですよ。……って言うか、途中だったんでしょう? 最後まで済んでからでも、私は―――」
言葉の終わりを待たずに、フレアが赤い顔ですぱんとニーナの頭を叩く。
一方話を聞いていたウーゼルは、首を傾げた。
「途中って?」
「いやっ、その……夢の話! 途中で目が覚めちゃったから……」
とフレアが説明する。
その間に彼女の後ろから、もう一人の家人が姿を現した。
「―――帰ってきたか」
「うん。……って言うかお父さん、寝癖が」
呆れが交じったウーゼルの声に、父のリンド・バリスタは「うん」と応える。
「今起きてきたばかりなんだ」
「真っ最中だったみたいですね」
と今度はニーナが声を向けると、リンドはまた「うん」と言った。
そして直後、真っ赤になったフレアに背中を叩かれる。
「馬鹿じゃないの!?」
「別におかしなことは言っていない」
としかしリンドは悪怯れる様子も見せずに、家の奥を指差した。
「早く入れ。ウーゼルが帰って来たなら、早速祝いの宴を始めよう」
「始めましょう!」
とニーナがそれに応じ、ウーゼルの背をぐいぐい押しながら家の中へと入っていく。
その後ろからアニーも、若干気まずそうに付いてくる。
そして扉の傍にいたフレアも、はあと息を吐き出してから追い掛けてきた。
「席に着いて待ってて。今仕上げるから」
「早くして下さいね! ウーゼル王子サマが、お腹を空かせてますよ!」
「はいはい」
ニーナの声に適当な返事をしたフレアは、調理場に立って手を動かし始める。その調理の音と香りを耳と鼻で感じながら、他の皆は机を囲んで席に着く。
そこでウーゼルは、先ほどニーナにしたのと同じ質問を父にしてみた。
「ねえ、何でお父さんはオリバー王に『王子』って呼ばれてるの?」
「……そうだな」
とリンドは椅子に深く腰掛けながら、天井を仰ぐ。
それから、ウーゼルの方を見た。
「旅は、どうだった」
「凄かった」
と彼は返す。
「鍛冶町と大都には、お祭りで人が沢山いたよ。皆燥いでて……、それだけ昔のアルバートに苦しめられてたのかなって思った」
「なるほど」
「あと、ニーナ姉ちゃんが凄いのも分かった。鍛冶町の『面割り』って言う大会で優勝してるし、あちこちの王様と知り合いだし……」
言うと、隣でニーナがふふんと胸を張っていた。
「……なるほど」
とリンドが、また言った。
そして顎に手をやり、呟くように続ける。
「お前も成長したな。―――そう言えば俺が諸々を決めたのも、八つの時だったな」
「ふうん……?」
「諸々」の中身が分からず曖昧に相槌を打つと、リンドはこちらをじっと見て言った。
「王都にも、行ったよな」
「うん」
「アルバートの王城にも、行ったな」
「うん」
「―――彼処でな、俺は昔暮らしてたんだ」
突然のリンドの言葉に、ウーゼルは「えっ?」と思わず声を漏らした。
だが、他の皆は黙っていた。ニーナもアニーも、知っていることなのだろう。
リンドは、さらに続ける。
「俺はバリスタの家の子だったが、あの王城で育ったんだ。―――序でに言っておくと、王城の隣にあるクリストン家がフレアの実家だ」
「え……!?」
衝撃的な事実を聞かされて、ウーゼルは戸惑う。
だが一先ず、問いたいことがあった。
「どうして、隠してたの?」
「お前が言った通り、嘗てのアルバートが人々にとってとても悪い存在だったからだ」
とリンドは答える。
「アルバートもクリストンも、昔の苦しい時代を思い起こさせる名だった。だから、熱りが冷めるまで俺やフレアは港町で息を潜めることにしたんだ。―――お前にも、受け止められるようになるまでは黙っておくことにした」
「……」
未だ動揺していて上手く言葉を返せないウーゼルに対して、父はぽんと彼の頭に手を置いて続けた。
「誰にでも話せるような話では無い。抱えなければいけないのは、しんどいかもしれない。―――だがまあ、英雄アルトはお前にとって近い存在だったんだ。それを思えば、勇気は湧くだろ」
「……うん」
とウーゼルは頷くが、気の所為か周囲から溜息が聞こえた気がした。
「リンドさん……」
とニーナが言ったのに対して、リンドが「今日はここまでだな」と返す。
しかし彼女は、さらに言葉を続けた。
「私は、今も納得してないですよ」
「これが最善だった。これであいつは名を守れて、俺は安息を手に入れられた」
リンドはそう言葉を返す。
その意味するところは、今のウーゼルには分からない。
彼が知らないことは、きっとまだ沢山あるのだ。
「―――皆良い? 料理できたわよ」
とそこへ、フレアが声を向けてきた。
「リンド、運ぶの手伝って」
「うん」
「俺も手伝います」
とリンドに続いて、アニーも席を立つ。
ウーゼルも続こうとすると、それをニーナが止めた。
「今日はウーゼルちゃんも私と同じお客様なんですから、座ってて下さいな」
「間違ってないけど、自分で『お客様』って……」
とフレアが呆れ交じりの息を吐く。
「―――あっ、アニー君も座ってて大丈夫よ。リンドにやらせて」
「そうですか? すみません」
アニーが席に戻ってすぐ、フレアとリンドとが料理を運んできて机上に並べていく。
湯気が立つ温かそうなスープには豆以外の野菜もふんだんに入っているし、程好く焦げ目がついた大きな猪の肉の塊は香ばしいし、魚の煮たものは目映ゆいほどに白い身が柔らかそうだ。
実に豪勢な夕食だった。
食事の準備が整うと、席に着いたフレアが祈りの言葉を口にする。クリスト教の女神へ捧げる祈りだ。
彼女の声を聞いたリンドやニーナも瞑目し、祈る。
この二人は普段の様子から神を信じているように見えないのだが、意外と女神への祈りに関して文句を付けたことは無かった。
そんな二人を一瞥したウーゼルも、アニーと共に瞑目して祈った。
祈りが済むと、バリスタ家ではもう一つやることがあった。
「―――いただきます」
ウーゼルたちは、声を揃える。
ニーナが考えたと主張しているそれは、他では聞かないバリスタ家の変わった仕来りだった。
その言葉を合図に、宴は始まった。
リンドやニーナは、果実酒をよく呑んだ。アニーもリンドに合わせ或いはニーナと張り合って呑んでいたが、フレアは呑まなかった。その理由をウーゼルは知っている。酒癖が悪いのだ。
ウーゼルも試してみたかったが、フレアに「まだ早い」と止められてしまった。止むを得ず、代わりに料理を目一杯頰張った。
酒ばかりの大人たちに「勿体無い」と言いたくなるくらいに、料理は美味しかった。
「……さて、」
食事が一段落すると、アニーが言った。
そして若干気恥ずかしそうに、懐から小さな布の包みを取り出した。
「ウーゼル、誕生日おめでとう」
「ありがとう!」
贈り物に喜び、ウーゼルは礼を言う。
フレアもまた「気を遣わせてごめんね」と声を掛けていた。
包みを開けると、中には小さな木彫りの女神像が入っていた。
「女神様だ……!」
「うん、まあ……。お守りになるかと思って」
とアニーは、照れ臭そうに言う。
彼はとても手先が器用だ。
これまでの誕生日の時にも、こういった細工を作って持ってきてくれていた。
今回の作品も見事な出来映えだ。リンドやフレアも、彼の作った女神像に感心していた。
ニーナも同じようだったが、「手だけは立派ですね」などと言ってまたアニーと睨み合っていた。
「―――丁度良かったわ」
とフレアが呟く。
そして一旦部屋の奥へ引っ込むと、布の包みを持って戻ってきた。
「ウーゼル、おめでとう。これは、私とリンドから」
「ありがとう」
大きさと形から、本であることが予想された。そうだとしたら、かなりの高級品だ。
期待に胸を膨らませながら包みを開けると、期待通りそれは本だった。クリスト教について書かれている教典だ。
「私のお父さんが中心になって皆で考えた『立派な大人になるために大事なこと』が、その本には沢山書いてあるから。読んでみてね」
「うん。ありがとう!」
礼を言うと、フレアは愛おしそうにウーゼルを見つめて頭を撫でてくれる。
「良い子にしていれば、きっと女神様も守ってくれるわ」
「うん!」
応えて、そこでウーゼルははたと思い出した。
そして、持ち帰ってきた「荷物」を取り上げる。
「そうだ、これ。グレイ……お祖父ちゃんが、お母さんにって」
まだ呼び慣れぬその名を口にして、ウーゼルは荷物の中身を出した。
それは、白い薔薇の花束だった。
その花を見て、フレアが目を見開く。
そして微笑んだ。
「そう……、また白薔薇が咲いたのね。今度は、清浄の白薔薇が」
「あるば? ……って、白のこと?」
問うと、フレアは「そうよ。そのアルバ」と頷きを返した。
「穢れ無き白い花を見た誰かが、その名で呼んだのよ」
「へえ……」
その花は、フレアにとって特別な思い入れがあるものらしかった。
彼女は暫し優しげな表情で花束を抱いていたが、ふと何か思い至ったようでリンドを見る。
「ねえ、リンド。この花、港町の教会にも―――」
「俺もそう思った。行ってくる」
リンドが応え、「お願い」と言ってフレアが差し出した花束の一部を受け取ると席を立つ。
気になって、ウーゼルも立ち上がった。
「僕も行って良い?」
「ああ、行こう」
リンドが頷いたので、ウーゼルは彼に続いて家を出た。
*
教会は、町の中央に建てられていた。
十年前の解放の後に建築されたものなので、まだ新しい。それに特にこの町においては信仰者がそれほど多くないため、使われる頻度の低さ故に建物は綺麗なままだった。
それでも教会を建てたオリバー王には、何か思うところがあったのだろう。
日没が迫っていて、辺りは薄暗い。
そんな頃なので、リンドが教会の戸を開いても中に人の姿は無かった。
決して広くは無いその空間の奥に、ただ石の女神像だけが鎮座していた。
「―――来たぞ」
とリンドは、まるで旧友に接するかのように女神像に声を掛ける。
昔からそうだ。彼はいつも、妙に親しげに女神に接する。
「お父さん」
「うん?」
「お父さんは、女神様に会ったことがあるの?」
馬鹿馬鹿しい問いだ。
実際もっと幼い時にも訊いて、「そんなわけ無いだろう」と言われた気がする。
だが、今なら違う答えが聞けるような気がした。
「……」
リンドは、暫く黙って女神像を見つめていた。
しかし、やがて口を開く。
「―――女神様は、頭が良くて何でもできたんだ」
「神様なんだから、当たり前じゃないの?」
「でも本当は怖がりで、我が儘な人だった」
リンドは、そう言った。
その表情はどこか寂しげで、だが微かに笑んでいるようにも見えた。
普段見ない父の顔に、ウーゼルは少し戸惑う。
そんな彼の頭に、リンドはぽんと手を置いた。
そして、語り掛けてくる。
「―――ウーゼル、この世界は一度終わった。だから今度は、始めるんだ。そして始めるのは、お前だ」
「僕が、始める?」
「ああ。お前が……お前たちが、新しい世界の主役だからな」
言って、リンドは微笑む。
それを見たウーゼルは、突き動かされるように頷いていた。
「うん。僕は……、僕は世界を始めるよ」
そう返すと、不意に教会の中をびゅうと風が吹き抜けた。
入口から奥へと吹いた風につられて見上げると、女神アリアが微笑んでいるように見えた。
〈了〉




