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不浄のアルバ  作者: 北郷 信羅
第1章 旧都で出会った二人は
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10.少女と偽英雄の約束

 ルイスの酒場は、旧都南門近くの大通り沿いにあった。その店構えは、ニーナがリンドと出会った裏通りの酒場と明らかに違う。こちらもぴかぴかの新築……というわけではないが、漆喰が塗られた木造の壁とそこに掛けられた看板は手入れが行き届いていて、老舗(しにせ)の風格を漂わせていた。

 それは店内も同様だった。使い込まれた感はあるが、綺麗に磨かれたテーブルと椅子は整然と並べられている。壁に並ぶ恐らく依頼書も、上下左右のものときっちり揃えて貼り付けられている。大通りに面していることもあって開け放たれた窓からは夕陽が差し込み、店内を十分に明るく照らしていた。


 店内には、既にエールを呷る客の姿が散見される。乾杯し、談笑する声は賑やかだ。裏通りの酒場も騒がしさだけなら勝っていたが、それと今目の前に感じる賑わいとは全くの別物だ。そのことはニーナにとって不思議で、新鮮だった。知らず、口元が綻んでしまう。

 昨日までの彼女であったら、こんなところに入っても白い目を向けられて居心地悪く退散していたことだろう。だが今は違う。青の紛うことなき衣を羽織り長い髪を結ったニーナは、まるで普通の町娘になったようだった。無論、その肩に巨大な牙を抱えていなければだが。


 そんな彼女の内心を知るはずも無く、リンドはすたすたと店の奥へ足を踏み入れる。奥では、一人の女が椅子に腰掛けていた。膨よかな中年と見られる女だった。後ろで一つに束ねられた濃い茶色の髪には所々白髪が交じっていて、日々の苦労が窺える。

 彼女は穏やかな表情で談笑する人々を見つめていたが、リンドが歩み寄ってくることに気付くといくらか表情を硬くしたように見えた。その女が着いている小さなテーブルまで近寄ると、リンドはそこに依頼書を置く。どうやら、彼女がこの酒場の店主らしい。


「受けた依頼を片付けてきた」


 言って、リンドは担いできたカリュドンの牙も女店主の傍に置く。ごとと壁に立てかけたそれは流石に目を引いており、店内の客の多くがニーナたちの方を気にしながら言葉を交わしているようだった。


「早かったね」


 女店主の話し方はぶっきら棒だが、リンドは気にする様子を見せない。


「王国兵に先に片付けられると、金が入らなくて困るからな。傭兵っていうのも、楽じゃない」

「……そうかい」


 彼女は素っ気無く返すと、テーブルに掴まりながら席を立つ。そして傍らに立てかけてあった杖を取ると、右脚を庇うような足取りで奥の部屋に消えていく。

 暫くして再び姿を現した彼女は、片手に布の袋を抱えていた。恐らく、今回の依頼の報酬だ。ニーナはほんの少しばかり身を乗り出し、(つい)でに気になったことについて問う。


「右脚、怪我してるんですか?」

「ああ」


 と女店主は答える。


「もう随分昔の怪我だけどね」

「昔……。あ、ひょっとして偽英雄(ぎえいゆう)にやられたんですか? 服飾店でそんな話聞きましたけど」

「ニーナ」


 リンドが制するような声を出すのと同時に、女店主がじろりとニーナを見据える。


「……そうさ。私は、偽英雄に全部奪われた」


 その目は、憎悪に歪んでいた。


「奴らは外道だよ。何の罪も無い人間を殺して、……こんな茶番までやらせるんだからね」


 彼女の目が、リンドの方をちらと見る。それに対して彼は「そうだな」と静かな口調でそれだけ応える。そして報酬を受け取ろうと、その右手を女店主に差し出した。

 しかし、ニーナは黙っていなかった。黙っていられなかった。


「違いますよ。この人は確かにアルバートだけど、偽英雄じゃないです」


 反論すると、女店主はふうと小さく冷たい息を吐く。


「……やっぱり、そうなんだね」

「は? あなた分かってたから今この人に向かって―――」


 自分で言って、そこで失態に気付く。

 鎌を掛けられたのだ。


 隣でリンドが、がしがし頭を掻く。それからはあと諦めたような息を吐くと、いつも通りの淡々とした様子で口を開く。


「報酬をくれ。それだけ貰えればすぐに出て―――」


 言葉の途中で、金の入った袋が投げつけられる。口が閉じられていなかったせいで、その中身が散乱した。


 じゃらじゃらと銅貨が床を転がる音は、妙によく響く。先ほどまで語らっていた客の声が止んでいるからだ。客たちの視線は、リンドに集まっている。ニーナの声は彼らにまで十分に届いてしまったようだった。その声に中には逃げ出す者もあったが、意外にもこの場にいる人間の多くは留まっていた。


「いや、あのだから違うんです。この人は……」


 口を滑らせたことに対する動揺が残ったままのニーナの言葉は、辿々(たどたど)しい。その言葉を向けた先の女店主に耳を傾ける気はないようで、彼女は元居た席に座り直すと腕組して瞑目してしまった。どうすれば良いか分からずにリンドの方を見やれば、彼は散らばった銅貨を拾い集めている。表情に感情を乗せることも無く、ただ淡々と金を拾い上げていた。

 その左手が、客の座るテーブルの下へ伸びた時だった。


「―――っ!」


 リンドの表情が、一瞬歪む。

 彼の左手を、客の一人が踏みつけていた。


「……何の力も無い俺たちなら、何もしないと思ったか?」


 その男が、リンドを見下ろして言う。対してリンドは、踏みつけられた左手をぐいぐい引きながら言葉を返す。


「離してくれ。金を回収したら、俺はすぐ消える―――」


 男を見上げたリンドの顔に、エールが流しかけられる。


「ふざけんなよッ!」


 叫び、男はリンドを蹴倒した。そして表情を変えずに左手の銅貨を確認している彼を、数人の男たちが取り囲む。


偽英雄(おまえ)に全部奪われて……エレナさんがどれだけ苦しんだか分かるか!?」

「誰でも受け入れてくれるルイスの酒場は、俺たちの希望だったんだ! 誇りだったんだ!」

「これ以上好き勝手させねぇ……! この店は俺たちが守るんだ……!」


 彼らはリンドを糾弾し、彼の身を何度も蹴りつける。

 目の前で展開する光景を半ば放心状態で見ていたニーナは、はっと我に返る。そして刹那かっと怒りが込み上げて、彼女はぎりと歯噛みする。


「いい加減にしてくださいよ……!」


 低い声で呟き、ずんずんその足を渦中へ進ませた。


「いい加減にしないと―――!」


 その拳を握り振り上げようとした時、床に転がっているリンドと目が合う。その目は鋭く、ニーナを射抜いていた。

 何もするなと、その視線は彼女を制している。


「……ッ!」


 ニーナはその足を止め、唇を噛み両の拳を強く握り締めてそれに従った。


 それから暫く、彼らの暴力は続いた。長い時間では無かったはずだ。だが正確な時の流れは、もはや分からない。怒りと悔しさの感情に呑まれていたニーナが、それを正確に把握することなどできるはずもなかった。


 気付いた時には、唇と両手から床に血が伝い落ちていた。


「おい、何とか言ってみろよッ!」


 客の男たちが、むくりと床から起き上がったリンドに向かって怒声を浴びせる。身体中に蹴られた跡が付き顔も傷だらけのリンドは、それでも無表情のまま黙っている。


「……もういい。おい、誰か刃物持ってないか?」


 男の一人が、リンドの左手首を掴んで問う。


「こいつの左手切り落とす。そうすりゃ、あの忌々しい力も使えなくなるだろ」

「……確かに」


 不意に、リンドが呟いた。そしてその左手を勢いよく払って、男による拘束を拒絶する。


「だが、今はまだそれをするわけにはいかない」

「何だと―――」


 言い募ろうとした男の勢いが削がれる。リンドが眼光鋭く、彼を射抜いていたからだ。


「俺にはまだ、やることがある」

「てめェッ……!」


 身体に付いた泥を払いながら立ち上がるリンドの周囲を、男たちが囲う。

 しかし、それを止める声があった。


「―――それくらいにしときな」


 大きくは無いが、よく通る声。それは店の奥から、女店主が発したものだった。


「エレナさん! なんで―――」

「こんな騒ぎ起こしてちゃ、客が入りやしない」


 抗議する男たちをよそに、彼女はリンドに視線を向ける。


「さっさと出てお行き」

「……分かってる」


 応えて口元に滲んだ血を拭うと、リンドは残りの金を手早く拾い集める。それから、立ち尽くしたままのニーナに歩み寄った。


「行くぞ」


 声を掛けられて、ようやく彼女の目に彼の姿が映り込む。泥で汚れた上下の服。傷だらけの顔。それを直視することは、(はばか)られた。


「―――ニーナ?」


 俯く彼女の顔を覗き込もうとするリンドから逃れるように、ニーナはだっと走り出す。そのまま、酒場を飛び出した。


 最悪だ。

 最悪。

 ニーナは口の中だけで言葉を繰り返しながら、日暮れの肌寒い大通りを駆ける。


 何も見えない。

 何も見たくない。

 だから、道の途中で通行人とぶつかってしまった。


「ちょっと、どこ見てんのよ!」


 非難されるが、ニーナの耳には入ってこない。ばっと相手を押しのけて、また走り出す。


「こらっ! ちゃんと謝りなさいよっ!」


 背に飛ぶ声も、今の彼女には届かない。


 止まれない。

 止まりたくない。

 一所に留まっていると、先に見た光景が繰り返し繰り返し浮かんでくる。

 自分がそれを招いてしまった。しかし彼女の内にあるのは、そんな自責の念だけでない。彼女にはもっと、許せないことがあった。


 大通りから脇道に入り、その先の角でまた曲がる。しかし直後、足元に置かれた水入りの桶に足を取られて派手に転ぶ。膝を擦り剥いたが、痛みより先に怒りが込み上げてくる。


「―――ふざっけんなッ!」


 ニーナは叫ぶ。


「何でそんなとこにあるんだよッ!」


 完全な八つ当たり。だが今のニーナにとっては、その些細なことすら(かん)(さわ)る。


「あの人も私も、悪くないじゃんか! なのに何でっ、……っ!」


 ニーナは目元を拭って唇を噛み、天を仰ぐ。そうしていなければ、込み上げてくるものを抑え切れそうになかった。

 すると、彼女の声に応える者があった。


「―――ああ、お前は悪くない」


 声のした方を見やれば、角からリンドが姿を現す。彼は平生と変わらない淡々とした調子で言葉を継ぐ。


「悪いのは偽英雄であってお前じゃない。―――だからこそ、お前には先に言っておくべきことがあった」


 ニーナが視線だけでその先を問うと、リンドはそれを語る。


「お前は、俺の道具だ」

「は……?」


 思わず間の抜けた声を漏らす彼女に、リンドは諭すように言う。


「お前は俺に使われている。偽英雄の道具にされている。そういう認識でいろ。―――そうすれば、さっきみたいないざこざが起こってもお前は巻き込まれなくて済む」

「……」


 ニーナはしばし、ぽけっと呆けた顔で彼を見返していた。しかし彼の言葉の意味を理解すると、怒りの感情が再燃する。


「違いますッ!」


 叫んだ拍子に涙の粒が零れてしまったが、今の彼女にとってはどうでもいいことだ。

 彼女の荒々しい声に、今度はリンドの方が目を瞬かせていた。その彼に、ニーナは食ってかからんばかりの勢いで声を張り上げる。


「私が言ったのは、そういう意味じゃありませんっ!」

「ならどういう―――」

「言い返してくださいよッ!」


 リンドが問い終える前に、強い調子で言葉をぶつける。


「なんで言い返さないんですか! なんでやり返さないんですか! あなたはあの酒場で何かしたんですか!? 何もしてないんでしょう!?」

「……」


 それに言葉を返さず黙っている彼を、ニーナは睨み据える。


()なんですよ、私。そういう……繋がってない、もやもやした感じの」


 それを説明する適当な言葉が、ニーナの持つ語彙の中には無い。そのことが、彼女には(もど)かしくて仕方がなかった。


 それを表現する言葉を学ぶ機会を奪われたことも、憂さ晴らしのために突然殴られ蹴られたことも、突然物のように売買されたことも、全部ニーナの行いとは一切関係無かった。何かをした報いであれば、それを受け入れることもできる。だが、彼女は何をしたわけでも無い。何もしていないのに、そこに生まれただけなのに、周囲は世界は彼女に苦痛を()いた。


 故に彼女は、何の脈絡も無い悲劇を嫌うのだ。心の底から憎むのだ。リンドのためではない。自身の信じる正義のために。


 ニーナの(つたな)い言葉が、どこまで彼に伝わったかは分からない。彼は黙ったままだ。

 しかし不意に腰を落として膝をつき、彼は彼女と目線の高さを合わせる。もっとも顔を俯かせてしまった彼女には、彼の足下しか見えていないのだが。


 そのあまりにも狭い視界の中に、リンドの右手が入ってくる。彼の手は静かにゆっくりと彼女の口元に伸び、血の跡が残る下唇を親指で拭った。その拍子にくいと顔を上げると、そこには落ち着き払ったいつもの顔がある。


「―――お前の言いたいことは、何となく分かった」

「ホントですか……?」


 思いの他、尖った声が出てしまう。すると彼は、軽く肩を竦めて見せる。


「だから、何となくだ。まだ俺はお前を理解できていない」


 そして、むすっとした顔の彼女に向かって言葉を向ける。


「……俺も、お前に言いたいことがある」

「何ですか」

「自分を痛めつけるような戦い方するな」


 言われて、どきりとする。思わず目を逸らしたニーナに、彼はやや強い調子で続けた。


「裏通りの酒場で大男と喧嘩してた時も、街の外で狼やカリュドンと戦った時も、お前はしなくていい怪我を負ってる」

「別に、すぐ治るから問題無いと思って―――」

「そういう問題じゃない」


 リンドはぴしゃりと言う。


「例えお前が不死身であったとしても、無駄に傷を負っていい理由にはならない」


 淡々と諭すように言われ、ニーナはそっぽを向く。


「……あなたには分かりませんよ」


 小さく呟いた言葉だったが、彼には届いていた。


「だから、これから分かり合えるように話そう」


 真っ直ぐに向けられる言葉に、ニーナはちらと視線だけを彼に向ける。その彼女に、リンドは語りかけてくる。


「お前の『もやもや』を晴らせるように、俺は行動する。だから、お前も俺の言ったことを理解して、行動してくれ。―――できるか?」


 彼女の口元を拭った右手を開いて差し出し、彼は問うてくる。

 それに果たして応えられるのか。今のニーナには分からない。ただその手は温かそうに見えて、思わずそっと触れた。

 触れた理由は、それだけだ。それでも彼女は、その約束を果たしてみようと思った。


 ―――そっと触れた彼の手は、やはり温かかった。

■登場人物


【ルイスの酒場の女店主】

 膨よかな中年の女。「エレナ」というらしい。脚を怪我している。

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