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BOUILLIR

「ぶっははっは!」

 豪快に笑うのは、柔らかな薄茶のくせっ毛、ヘーゼルの瞳の持ち主。アンドレ。

 彼が笑い転げているのは、私の新居の床。


「まっさか、あんたが大男を追い払うなんてな! しかも俺の首絞める気だったなんて……、ぶっはは!」


 先輩の元に戻るのも気まずくて、兄が帰っているはずの自宅に招待してしまったのだが、今夜も兄は帰っていなかった。

 ワイン片手に爆笑しているアンドレは、あの赤毛の大男の首を絞めた私を目撃していたらしい。


「笑いすぎ。だいたい、あんたが感じ悪いから、舐められないように……」

「育ち良さそうだったけど、『舐めんじゃねぇぞ、小僧!』とか!」

「はぁ!? そっから聞いてたなら助けなさいよ!」

 

 しかも一部始終見られていたとは……

 アンドレは涙が出るほど笑った後、上体を起こして私の目を見つめた。その顔は赤く上気していて、かなり酔っていることが分かる。


「お前のことが、面白くなくて、痛い目みれば良いと思ってた。すまん」

 素直に頭を下げてくるアンドレに、調子が狂う。

「それは、私も同じだから」

 私も彼を嫌っていた。直感的に。


「ついでに言うと、俺、孤児だったんだ」


 アンドレの言葉に、内心ぎくっとする。しかし彼はそんな私の様子に気づくことなく話を続けた。


「路上で育った。オヤジ共の手下にならなかったことだけが、俺の誇れるところだな」

 孤児の運命なんて、似たようなもの。大人の食い物にされるだけ。彼は、そんな路上の生活を一人きりで生き抜いてきた人。私が、両親に拾われなかったら、辿っていたかもしれない運命。


「残飯をシェフがくれるんだ。猫に餌やるみたいに。そんで、頭に来るけど、それを食うわけ。……うまいんだ。俺は憎んだね。こんなうまいもん、残す奴がいるのかって」

 どこか遠くを見ながら、語るアンドレの瞳。

「言ったんだよ、それを。したら、じゃあお前が奴らの口に突っ込んでやれって。うまいもん作って、きれいな皿、返してもらえって……」

 もう、話が終わったのか。彼が黙り込む。目でアンドレを窺うと、彼も私に気付き、苦々しく笑った。

「あんたはさ、俺が食い物作ってやる側の人間で、品が良くて、それでいてすぐに腕認められて、ほんと気に入らなかったんだわ」

 分るような。分からないような。

 彼もきっと、複雑な気持ちなんだと思う。昔を忘れちゃいけないような。でも、囚われ続けるのは、もっといけないような気がして。


「親に捨てられたとき、まだ私は乳飲み子だった」


 そう話を切り出した私に、アンドレが「え?」と困惑したような目を向ける。ロジェ兄にも、ルネ兄にも失礼だとは思うけど、この話はアンドレに聞いて欲しかった。


「変な話、私は生まれた時から今までのこと全部覚えてる。私は生まれたとき、泣きもしなかった。肺に入った水を吐き出して、終わり。乳が飲みたいときは、母の乳房を指さした。おしっこしたら、下着を脱いだ」

 アンドレの目が疑ってくる。でも口をはさむことはない。


「私は気持ち悪がられたわ。気づいたときには『化物』って呼ばれて、孤児院の前の階段に置き去りにされた。今思えば『化物』っていうのが、私の最初の名前だったわね。次にもらった名前は『五番』。院長は、私の体に傷をつけることはなかったけど、随分苛め抜かれたわ……。それで、夜中、院長が男を連れ込んでいる隙に、逃げ出した。死ぬほど走って、たどり着いたのが今の家族……」


 俯いていたアンドレは、その猫のような目で私を真っ直ぐに見つめた。何も聞かず、何も言わず、ただ見つめるだけ。お互いに、「同族嫌悪」という言葉が頭をよぎっていたんだろう。

 どちらともなく笑いだし、隣人に壁を叩かれて怒られるまで、それは続いた。


 結局その夜も、兄が帰ってくることはなかった。








「おはようございまーす!」

 翌日出勤すると、厨房の皆の視線が私たち(、、)に寄せられる。

「あれ、アンドレ、新人ちゃんと仲良くご出勤ですか?」

 ダニ先輩が面白がってアンドレの肩をつつく。

 そう。昨晩私たちは、あのまま笑い転げて寝てしまったのだ。何もやましいことはしていないし、冷やかされるような何かもない。


「ま、まぁ。話せない奴じゃなかったんで……」


 そう顔を赤らめてそそくさとロッカー室に向かうアンドレの背中に、飛び蹴りしてやりたくなる。案の定、よからぬ想像をしている先輩料理人たちが、私のことを面白そうに見てくる。


「な、なんでもないですから!」


 そう否定することこそ、怪しく見えるものだと気づかず、私は早足でデセールのサミュエルの元に歩み寄った。

「仲直りできたの?」

 まるで子供に言うように、面白がって聞いてくるサミュエルさん。仲直りも何も、飛び蹴りして、一緒に酒飲んだだけだし……。

 黙り込んだ私に、いらぬ想像をするサミュエルさん。

「青いねぇ……」

「か、勘違いしないでください!」

 そして私は知らぬ間に墓穴を掘るのであった。







 アルフレッド・ド・フルーヴは史上最年少で近衛副隊長になった男だった。

精霊を操る魔法使いの家に生まれながら、武の道に進んだのには優秀な弟の存在が大きかった。

しかし元々男は剣を振るってこそだと思っていたアルフレッドにとって、弟に家を任せることが出来るのは都合が良かった。

 彼は魔法使いの家系を嫌っていた。自分の家はもちろん、他の六家とも縁を絶つようにして暮らしてきた。魔法使いたちにとっては、たとえ優秀な剣士になろうと、精霊使いの才がなければ意味がないのである。見目麗しい近衛副隊長のアルフレッドは、魔法家系を嫌い、そして魔法家系に嫌われる無能であった。


 しかし、実家を離れていたのは大きな間違いだった。


 弟のカミーユとガスパールは、魔法使いの才能があるため、自由な生活を謳歌していたのは、アルフレッドだけだ。今や弟たちは早々に魔法家系の娘と結婚し家庭を持っている。弟たちに、四六時中オドレイを守るということは、出来なくなっていた。

 皆知らなかった。オドレイがどれほど鳥籠の中を嫌っていたか。どれほど自由な大空に恋焦がれていたのか。年頃のオドレイは、熱いロマンスを夢見る普通の少女だったのだ。


 あの日、アルフレッドは王宮で開かれた舞踏会の警護をしていた。休憩時間には婦人と適当に遊び、いつも通りの夜だったのだ。

 基本的に、アルフレッドは舞踏会の様子を見ているわけではない。それよりも王宮の中をパトロールしていることが多かったため、あの夜会場をにぎわせた『花の妖精』の登場に気が付くことはなかったのだ……。






「まぁ! なんて愛らしいこと! どこのお嬢様かしら……」

「初めて見る顔だわ。でもエスコートもなしに、舞踏会に来るなんて」

 会場は、見慣れない少女の姿にざわめいていた。

 柔らかな金の髪は緩く波打ち、彼女の肩を覆っている。夜会に髪を下したままでやって来るところから、まだ幼いのだろうと思うが、その姿はどの婦人にも勝る美しさだった。


 澄んだ青い瞳、バラ色の頬。控えめな鼻に、微笑む唇。

 彼女のためだけにあると言わんばかりの、淡い黄色のドレスは幾重にも重なった花びらのようなオーバースカートが愛らしく、まさに彼女は『花の妖精』のような出で立ちであった。


 同年代の男たちは色めき立ち、「身分の悪い女だろうと構わない。ものにしたい」という気持ちで彼女の周りに群がった。


「あ、その……」


 矢継ぎ早に質問され、誘われて困惑する『花の妖精』。夢に見ていた舞踏会は、本当にきらびやかな世界だったけれど、少女は皆が舞踏会に来る目的を知らなかったのである。


「皆、彼女が困っているじゃないか」


 彼がその場を治めた時、彼女の目は釘付けになった。


「申し遅れました。私の名前は、エミール・ド・モンタン。疲れたでしょう。少し外の空気を吸った方が良い」


 気遣わしげな言葉。優しげな緑色の瞳。自分よりずっと高い視線。

 少女は胸のペンダントがぐっと冷たくなるのにも気づかずに、彼を自分の王子様だと確信してしまったのである。









 王宮の舞踏会の翌々日だ。公爵家が、オドレイに結婚を申し込んで来たのは。それも、ほとんど脅しに近い文句を使って。










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