EAU DE VIE
「十三卓、デセールお願いします!」
「はい!」
ギャルソンの声に続くサミュエルの返事。夜の営業が始まって、厨房はてんやわんやの忙しさ。
冬のディナーメニューは濃厚なソースが多く、今日の魚料理にも大量のバターが使われている。デセールまでパイやバターケーキじゃ、ゲストの胃がもたれてしまうだろう。二人で相談した結果、舌も胃袋もクールダウンできる、シンプルなレモンソルベを用意した。甘味は加えた蜂蜜だけ。レモンの果皮の砂糖漬けも刻んで入れた。粒々とした食感も、楽しんでもらえることだろう。見た目は地味だが、コース料理全体を考えた時には、これくらいの存在感がちょうどいい。
指示を受けてから、温めたスプーンでソルベをくりぬき、白い丸皿に盛り付ける。持って行こうとしたギャルソン達が、皿を斜めにしようものなら、ソルベはつるつると皿の上を滑ってしまって台無しだ。最後の最後まで、ギャルソン達は気を抜けない。
「デセール上がりました!」
果汁のソースの上に乗せたソルベが、次々に運ばれていく。その間も休む間なく、サミュエルが作ったシューアラクレームが、お化粧されて別のテーブルに運ばれる。
運ばれる皿を見送ると、あとは食べてもらうだけ。私たちが出来るのはここまで。
「お疲れ様」
かなり疲れた様子のサミュエル。私も、へらっと笑って、最後のテーブルにデセールが出たことに安心して、脱力した。
「サミュエルさんこそ、お疲れ様でした」
「朝から慣れないことしたからかな。すごく疲れたよ」
そう言う彼の表情が、一瞬柔らかくなったような気がする。
「片付けたら、一杯飲みにいかないか?」
「はい?」
突然の誘いに、驚く。
「店の奴らの行きつけがあるんだ。仕事終わりは、そこで飲むのが気晴らしでさ。皆新人の君に興味津々だから、良ければどう?」
確かに。仕事場に早く馴染むためには、そういう場に顔を出すのも大事なことかもしれない。せっかく誘ってくれたんだし……。兄のことは気になるけれど、別に過保護な兄ではないから。
「是非!」
そう言った私の言葉に、サミュエルさんは、やはり少しだけ微笑んだように見えた。
なんでコイツがいるかなぁ……。
青いコックコートだけ脱いで、下に着ていた白いシャツと、制服青いズボン姿になって店を出ると、飲みに行こうという若手料理人たちの中に、サミュエルさんともう一人、アンドレという男を見つけた。思わず「げっ」と顔を歪めたのに、相手が気づいてなければ良いけど。
一行は店の裏の路地をぞろぞろと進み、控えめなオレンジ色の看板を出している店に入り込む。
『酔っ払いの穴蔵』
おお、いかにも一見客は入りづらい店構えと店名。先輩の後に続き、私も恐る恐る中に入った。
しかし、入ってみれば意外と明るい店内で、立ち飲みがこの店のスタイルらしく、至る所に設けられたテーブルで酒を楽しむ客の姿があった。
「ヘレンちゃん! ワイン持って来て!」
先輩の一人がそう言うと、すぐに緑色のビンに入った赤ワインがテーブルに置かれる。そして人数分のグラス。
「あれ、新人さん?」
そう聞いてくるのは、ワインを持って来てくれたお姉さん。艶やかなブルネットを、高い位置で一つに結っている。猫のように真ん丸でつり気味の瞳が、私の顔を楽しげに見つめてきた。
「女の子だなんて珍しい! 私はヘレンよ。よろしくね、新人さん」
「はじめまして。私はエメ・ノワーと申します」
「ふふ、硬いわね。エメノワちゃんね! 可愛いわぁ!」
そう言うヘレンさんのほうがとっても可愛くて、気づけば周りの先輩料理人たちがうっとりと彼女を眺めている。なるほど。常連の理由は彼女に有りってわけね。
何となくその快活さが、故郷のセリアお姉さんに似ていて親しみを覚える。
「確かに、ヘレンさんの笑顔を見たら、仕事の疲れも吹き飛んじゃいますね」
つい思ったことが口をつく。ヘレンさんは、ちょっとだけびっくりして、すぐに満面の笑顔になると、私の顔を両手で包みこんだ。
「ほんと、かっわいい!」
いや、そう言うヘレンさんのほうがとっても可愛くて……、ってあれ、先輩たちの目が怖くなってる。サミュエルさんまで冷めた目をしている……。
「あ、あはは……」
ヘレンさんは私の乾いた笑い声を気にすることなく手を離すと、テーブルの伝票にメモをした。
「ダニにいじめられたらすぐに言うのよ! 私が殴ってやるから! じゃあ楽しんでってね!」
「お、俺はそんなことしねぇって!」
ひらひらと手を振って、他のテーブルの注文を取りに行くヘレンさん。そして「ダニ」と呼ばれた先輩が顔を真っ赤にしてその後ろ姿に叫んだ。
ダニ先輩は小柄だが筋肉質な体型で、それでいて童顔だった。もちろん、彼にいじめれれたなんてことはない。気づけばここに居る人達は、店でも私に嫌味を言うことのない人ばかりだった。
アンドレを除けば。
「ずるいよなぁ、女同士だとあんなに優しくしてもらえるのかよ……」
そう呟くダニ先輩。
「エメをいじめれば殴って貰えるらしいじゃないか、ダニ」
そう穏やかに茶化すのは、サミュエルさん。
「先輩そーゆー趣味なんすか!」
「ば、馬鹿言え! んなわけないだろ!」
「ダニ、俺とお前の仲じゃないか。そろそろ皆に言っても良い頃だと思うぞ」
「サム!」
ダニ先輩をいじる会になり始め、皆ケラケラと笑い出した。驚いたのは、サミュエルさんもワインを煽りながら笑っていたことだった。
ちらり、とアンドレの顔を窺う。
サミュエルさんと一緒になってダニ先輩をからかう様子は、全く棘を感じさせない人懐っこいもので、私はその意外な顔に驚いた。でも考えてみれば、彼は私だけに嫌な奴だったのかも。普段の彼は、今の姿なんだろうか。
「今夜は俺のことはどうだって良いじゃないか! 新人歓迎会なんだからよ!」
ダニの一声で、「おお、そうだった」と皆の視線が私に寄せられる。
「あのジュリア・チュテレールの弟子なんだってな」
「っていうか娘なんだろう?」
母の名前に興味津々の先輩たち。
「皆さん、母のことをご存じなんですか」
私の言葉に、げらげら笑いだす先輩たち。
「この国の料理人で知らない奴なんていねぇさ! 何たって、国王陛下が自ら足を運んでまで食べたがるんだからな!」
「それに、うちのシェフはジュリアさんに惚れてるからな」
「え? シェフが?」
先輩の言葉に耳を疑う。
「そうさ。ジュリアさんがうちの店で修業してた頃、二人は出会い恋に落ちた……」
「ってのが、シェフの言い分。でも聞く所によれば、故郷に残した恋人を一途に想い続けていたジュリアさんに、見向きもされなかったらしいけどな」
ダニ先輩の言葉に、父セザールの顔が浮かび、つい顔がにやけた。ルネ兄の一途さは、母譲りだったのかしら。
「まぁさ、女料理人ってのは大変だろうよ。でもな、俺たち若手は応援すっから、どんと頼って良いからな!」
先輩の言葉に、私は胸が温かくなるのを感じて頷いた。
「俺は認めないっすよ」
しかし、水を差す者が一人。
「アンドレ! お前なぁ、子供じゃねぇんだから」
たしなめるダニ先輩の声を無視して、酒を煽るアンドレ。その目は私を睨み付けたままで、先ほどまでの人懐っこさはどこにもない。
「気に入らないんですよ、ぽっと出て来てサムさんの仕事取りやがって」
「おい、それは違うぞアンドレ」
否定したのはサミュエルさん本人だった。
「エメは新人だけど新米料理人じゃない。だから対等な立場で仕事してるんだ」
「……とにかく、気に入らねぇ」
アンドレが、どんと音を立ててグラスを置く。そしてそのまま立ち上がると、ポケットから金を出してテーブルに置き、荒々しく店を出て行ってしまった。
その時、私は何を思ったのか、テーブルに置かれていたワインのボトルをかっさらって、彼の後を追うために立ち上がった。
「お、おい、エメちゃん!」
「男は盃を交わしてこそ!」
自分でも意味不明なセリフを吐いてから、私はどたどたと店を出て、アンドレの姿を探した。
とっくに真夜中だから、道を歩く人は少ない。暗闇の中に、ぼうっと浮かぶ淡い髪の毛がすぐに見つかった。
私はワインボトルの口に親指で栓をして、その人影に向かって全速力で走りだす。夜の街に、私が駆ける音が響く。
相手も気が付いたのか、ゆっくりをこちらを振り返るがもう遅い。
「どぅりゃー!」
雄叫びと共に、飛び蹴りを食らわせる。
驚きと痛みに歪んだ顔のアンドレが、地面に倒れていく。
「…っざけんなよ」
かすれた声のアンドレを見下ろして、私は少し清々した。
「私もお前が気に入らない」
よろよろと立ちあがったアンドレの目に映る自分は、悪魔のような表情で笑っていた。
持っていたワインをアンドレの前に突き出す。
彼はそのボトルを奪うと、直接ごくごくとワインを飲み下した。彼が飲んだワインを、私も奪って喉に流し込む。二人して汚れた口元を手で拭い、二人して悪魔のような表情で笑った。
「気に入らねぇ」
久々の更新です。お待たせしました! すみません……。




