TAMISER
ふざけた女が入ってきた。
長い黒髪を束ねる様子を見ながら、俺はこの新人の横顔を睨み付ける。確かエメ・ノワーとか言ったな、こいつ。
器量は良い。質の悪い男に捕まったら、そのまま売り飛ばされそうな程には。しかし、この田舎っぽさがいただけない。街の悪い奴らにとっちゃ、いいカモだ。
こんな育ちの良さそうな世間知らず、ちょっとは痛い目見たほうが良いってもんだな。
「できました」
コック帽に髪の毛を仕舞いこみ、この店の制服の青いコックコートに着替えた女が、俺の指示を仰ぐ。
その女の目は、髪と同じように真っ黒だった。
俺は舌打ちして、ロッカー室を出ると、女を置いて厨房に向かった。後ろから、付いてくるような足音が聞こえたが、女が声をかけてくることはない。まぁ、鬱陶しくないだけマシか。
「アンドレ、遅いぞ。仕込みに入れ」
厨房に戻ると、先輩に怒鳴られた。遅いもなにも、あいつをロッカーに連れてってやったんだからしょうがねぇだろ。
「すみません」
苛立ちながら言い、俺は今日分の肉の固まりを切り分け始めた。
視界の端で、女がデセール担当の男に頭を下げて挨拶しているのがちらつく。おどおどした様子はないが、やたら肩に力が入っているようだ。大丈夫か、あいつに刃物持たせて。
まぁ、さっさと失敗して、店から出ていけば良いんだ。
俺はそう思い直し、肉を切ることに集中した。
厨房に入ると、デセール担当と思われる料理人と目が合う。
長身の、無表情な男だ。私は固くなりながらも挨拶するが、相手は無視。参ったなぁ、相当雰囲気悪いわ、この店。シェフはと言えば、自分の作業で精一杯というか、料理馬鹿のようで、従業員の管理は興味がない様子。女の料理人の扱いなんて、こんなもんか。
私は先輩が、どうやらパン作りから始めるらしいというのを見てとって、生地を発酵させるためにオーブンに火を入れた。冬場、低温で生地を発酵させようと思ったら、普通オーブンを温めた予熱を使うはずだと思ったからだ。
先輩が私を横目に見るのに気づき、目が合う。
「今日の皿盛り何ですか? 合わせたプチフール作ります」
少し生意気だったかな。そう思いながらも、先輩の反応を待つ。
彼は何も言わず、自分の仕事に戻ろうとするが、ふっと私に目をやって、「今夜は梨のフランだ」と静かに言った。
私は思わず微笑む。
「はい!」
そして、私とジャンのスペシャリテ、シューアラクレーム作りに取り掛かる。この出来一つで、ここでの居場所を作れるか否かが決まる。そう思って間違いないだろう。
さほど時間をかけることなく、生地の絞り出しまで終えた私は、温度の上がりきったオーブンの中にシュー生地を放り込んだ。
先輩のパン生地は、シュー生地が入っているオーブンの三つ上の段で、一次発酵中だ。
手が空いた先輩が、興味深そうに私の手元を見ている。別に珍しいことはしていない。今は梨のフランが出た後、食べるに相応しいだろうキャラメルソースを作っていた。少し小さめのシューの上に、これを塗るつもりだ。
「菓子作りはどこで覚えた」
黙っていた先輩の突然の質問に、私はヘラを取り落しそうになる。いきなり低い声出されて、すこしびびった。
「実家で働いていたパティシエに習いました」
「だからその若さで、その腕か」
シャトー・ド・ラ・ダームでの六年の修業を言われたのだと思う。
かなりやりづらいが、先輩の質問に答えながら、ソース、カスタードを作り、焼きあがったシューにクリームを詰めていく。仕上げにキャラメルソースを塗るが、そのすべての作業を、先輩はじっと見つめていた。
かなり研究熱心な人なんだな。雰囲気悪いと思っても、食に対する情熱は皆変わらないってことか。
「これで、シューアラクレームの完成です。お一つどうぞ」
先輩がその形と香りを確認して、一口齧る。次に訪れる彼の驚きの表情に、私はにっこり笑った。
慣れない厨房での初日の仕事が終わり、まずまずの存在感を示せたことに満足した私は、コックコートの上に外套を羽織り、そのまま帰ることにした。ロッカールームは、男ばかりだし。
「お疲れさまでーす。お先失礼します」
「お疲れさん」
今日一日で、ずいぶん距離が縮まったデセール担当の先輩は、名前をサミュエルというらしい。帰りの挨拶に返事をしてくれたから、明日からも、まぁ何とかなるだろう。
店を出ると、雪は降っていないものの、しびれるようね北風に迎えられた。襟を立てて、なるべく外気に触れないようにしながら、手をさする。ずいぶんと冷えるな。
「おい!」
夜の町に響く、やや大きな声。
「おい! お前だよ!」
そう言われて、やっとそれが自分に向けられたんだと分かる。
何事か、と振り返ると、あのやたら雰囲気の悪い、アンドレという男が立っていた。
「私に何か?」
そう尋ねれば、声をかけてきたのは彼の方のはずなのに、黙ってこちらを睨みつけるだけ。
感じ悪っ。
私は首をひねって、そのまま去ろうとする。
「待て!」
「じゃあ、早く用済ませてくんない?」
私のやや乱暴な口調に、少し驚いた様子のアンドレ。このくらいで驚かれても。優雅じゃない時だってあるでしょう。
「家、どこなんだよ」
「はい?」
「女一人で夜道とか、バカだろお前。これだから田舎もんは」
何だ? 心配してくれてるのか? 面倒な男だな。根は良い不良とか、そういうの嫌いなんだよね。独りよがりな感じで。
「一本向こうの通りのアパルトマンだけど」
「ふん、やっぱ金持ちか」
呟く彼の声に、今度こそ私はきびすを返し、帰りを急いだ。
石畳に響く私の足音。遅れて後ろから聞こえる誰かの足音。アンドレって男、付きまとう気じゃないだろうな。そんなら、こっちにも考えがある。
だいたいこういうのは最初が肝心なんだ。ルビー・ベルガモットの時は、初めに気の弱い態度をとったから、後々まで突っかかって来たんだし。
良い機会だ。田舎もんだなんて、言わせないように痛い目みせてやろう。
そういうところが、烏姫と言われて怖がられる所以だとは露ほども思わずに、私は次の建物の間の狭い路地に入り込んだ。私を見失った男の足音が乱れる。しかし、そのまま私が隠れた路地に向かって、近づいてくるようだ。
カツ、カツ、と音が大きくなってくる。
黒い人影が通り過ぎるのが見えた瞬間、私は飛び出した。
「なめんじゃねぇぞ、小僧!」
孤児院で習得したガラの悪さは、この十年封印していたが、ちゃんと魂に刻まれている。自分より大きな相手の背中から、相手の首の腕を回し、グイ、と締める。と同時に咬みつかれないように、相手の髪の毛を片方の手で引っ張った。
「お前みたいな目した奴が、一番嫌いなんだよっ!」
昔の自分にような。最も惨めな時代を思い出させる、アンドレの目。
そして、更に腕に力を入れると、男の苦しげな呻き声が聞こえた。まぁ、これくらいで勘弁してやるか。そう思い、掴んでいた髪の毛を離す。
しかし、その髪の毛はあのアンドレのような薄茶ではなく、赤褐色の縮れ毛だった。
驚いてぱっと腕をはなすと、激しく咳き込んで頭から倒れる男。
「や、やっちゃた……」
死んでないよね……。そっと首に手を当てて脈をとる。大丈夫。息はある。気絶したのか、酔っ払いだから寝ちゃったのかは分からないけど。
しかし、ほっとしたのも束の間。
「おい! そこで何をしている!」
振り返ると、夜中なのにパトロール中と思われる騎士のお兄さん。
や、やべ……。
必死で事情を説明するエメは、事の一部始終を誰かに見られていたなんて、まったく気づいていなかった。
明日更新お休みします
すみません!




