CASSER
王都での初めての夜が明け、私と兄は初めての出勤のために部屋を出た。
アルフレッド様は、近衛隊の仕事の傍ら、自分で買ったこの屋敷の部屋を貸して、家賃収入を得ているらしい。侯爵家の跡継ぎなのに……。
私たちにあてがわれたのは、他の部屋と同じ鍵付きの部屋で、中には簡易キッチンが付いていた。二つある寝室をそれぞれ使うようにしている。
「じゃ、頑張れよ」
「ルネ兄さんこそ。鼻血出したりしないようにね」
「な! 誰がんなこと!」
「じゃ、頑張れよ」
そう言って別れたものの、両者ともに胸の中は不安で一杯だった。
朝焼けの街は人気がなく、時々歩いているのは、浮浪者のようなボロを纏った人達。故郷では、そんな人を見ることはなかったが、それは私に遠い過去を思い出させた。
そういえば、私も昔、こんな風に建物がいっぱい並んだ街に住んでいた気がする、と。
『化物の生まれ変わり』
ずいぶんと忘れていたが、そうやって私を捨てた生みの母親を思い出す。もう、どんな顔をしていたか、忘れてしまったけれど……。
私は浮浪者たちを見ないように、店に急いだ。
――――グラン・メゾン
金字の看板と、手元のメモを見比べる。ここが、私の新しい職場。十字路に面した建物の一階と二階部分が店になっているらしい。かなり大きな店だな。
扉を開けると、カランカラン、と音を立ててベルが鳴った。踏み入れると、その店の広さに驚く。
入って目の前には、木造の曲線が美しい階段。
見上げると、灯の点っていないシャンデリア。テーブルに逆さまに乗せられた椅子は、一体何脚あるだろうか。足元には、毛足の短い濃紺の絨毯。いかにも高級店だ……。
「なんだ、こんな朝っぱらから」
突然かけられた低い声に、パッと振り返ると、そこには確かに母と同年代くらいの白髪交じりの男性がいた。
「初めまして、面接、受けに来ました!」
がばっと頭を下げて、相手の様子を窺う。
「面接だぁ? ああ、ジュリアんとこのか」
母の名を気安く呼ぶあたり、彼が母の友人のシェフで間違いなさそうだ。
「あいつ、そんなこと言ったのか。ったく。面接なんてねぇよ。ジュリアが俺に任せるって言うんだ。採用、採用」
「は? え?」
無精ひげの彼は、めんどくさそうに欠伸をすると、ひらひらと手をふりながらそう言った。
驚く私に「何か文句あんのか」と乱暴に言い、私が否定するのを見ると、「来い」とだけ言って店の外に行ってしまう。
ぼけっとして、気づかなかったが、付いてかなきゃいけないんだな! 慌てて追いかけると、彼はずいぶんと先を歩いていた。
「え! あ、ちょっと、待って下さい!」
石畳を蹴って、私は彼を追いかけた。
フルーヴ侯爵家の屋敷の門前まで来たルネは、身だしなみに乱れがないか確認した後に、呼び鈴を鳴らした。しばらくすると、お仕着せ姿の屋敷のメイドが現れて、俺が新しい執事だと聞くと、静かにその門を開いた。
「お嬢様は、だいたいこの時間にはお目覚めになります。貴方の仕事は、お嬢様付きの執事ということですが、基本的にお嬢様のお支度などは、わたくしどもが行いますので、お嬢様のご予定を管理し、それに合った指示をお願いします。それから、リネン室はここ、厨房は奥。使用人の控室は左手真っ直ぐ行ったところに。それと……」
執事の仕事は、コンシェルジュの仕事に似ている。頼まれたこと以上を提供する、シャトー・ド・ラ・ダームのコンシェルジュなら、慣れてしまえば問題ない仕事内容だ。じゃなきゃコネでもこの仕事は貰えない。勉強してて、本当に良かった。
じゃなきゃここまで来られなかった。
「では、お嬢様のお部屋に行きましょう。朝はこのオレンジジュースとを召し上がりますから、忘れずに用意してください」
メイド長の彼女に、オレンジジュースの入ったグラスを持たされて、オドレイお嬢様の部屋だという扉の前に立つ。ふう、と息を吐き、扉を叩く。
「どうぞ」
鈴の鳴るような、小鳥のさえずりのような可憐な声色。
心臓がうるさく脈を打つ。
「失礼します」
扉を開き、ベッドに居るであろう彼女に向かって頭を下げる。
「本日より、オドレイお嬢様に付くことになりました、執事のルネ・チュテレールと申します」
そう言って、ゆっくりと顔を上げる。
冬の柔らかな陽光に照らされて、その女性は一足早く来た春の女神のような姿で、こちらを見つめていた。金の柔らかな髪。青く澄んだ瞳はそのままに、その表情には昔はなかった冴え冴えとした知性の輝きと、開きかけの花のような妖艶さを湛えていた。
「ルネ、君?」
何度も頭の中で想像した再会の瞬間が、現実のものになった歓びに、ルネは我を忘れないよう、歯を食いしばった。
「お久ぶりです。お嬢様」
しかし、彼女の驚いて見開かれた目は、たちまち影を落として背けられる。
「……どうして、貴方が?」
そう言う声はとても低く、記憶にある彼女のものとは違っていた。ベッドに腰かけたまま、ルネを見ようとしないオドレイ。その白くて小さな手は、ブラウスの胸元をギュッと握りしめており、横顔は何か苦しみに耐えているようであった。
「お兄様ね。……余計なことを」
彼女の冷たい声色に、ルネは胸が詰まる思いだった。
背後に控えていたメイド長に、目で下がるように伝える。ためらう様子のメイドは、ルネの強い視線に負けて、結局は二人を残して部屋を去った。
ドアは閉めないでおき、ルネはオドレイの側に寄った。
「私は自分の意志で、ここに来ました」
「嘘よ」
「嘘じゃない。強いて言えば、父が紹介状を書いてくれましたが。本当にそれだけです」
彼女の背中は、頼りなく丸まっている。ルネはその背中にそっと触れようとして、その指を引っ込めた。
「……弱ってるところなんて、見せたくなかったのに」
そう諦めたように呟くオドレイ。
「私の婚約話、聞いたんでしょう? どうしてそうなったのかも」
何も言えないでいるルネに、オドレイはやっと彼に顔を向けた。
ひどく悲しげで、それでいて怒りの炎が見て取れる。
「どう聞いたかは知らない。でも、貴方には本当のことを知っていて欲しい」
オドレイの真剣な目。ルネはそれを真っ直ぐに見返した。
「エミールの言う通り、私の純潔は奪われたわ」
しかし、泣きそうな声で告げられたのは、全身の血が逆流するような気持ちにさせられるものだった。
どす黒い感情がインク染みのように滲んでいくのを感じながら、必死でそれを押し込める。一番苦しんでいるのは、彼女だ。
ルネは彼女の告白に、何も言うことなく、胸のポケットに手を差し入れた。
「それは」
はっとするオドレイ。
ルネがポケットから取り出して見せたのは、あの日、オドレイが手渡した一輪の花。茶色くなった今でも、彼はその胸に押し花にしたあの日の思い出を仕舞っていた。
まん丸の青い目に見つめられ、ルネは微笑む。
「昔も可愛かったけど、俺は今目の前にいる君の方が、数倍魅力的だと思う」
俯いた彼女が、ブラウスを掴んでいた手の力をスッと緩める。
何か決心した彼女が、首もとのボタンを、一つ二つ開けるのに、ルネはぱっと視線を逸らした。
「ルネ君」
しかし彼女に呼び止められ、恐る恐る彼女に視線を戻す。
見れば、彼女の胸元に輝く青い石。それはペンダントになって、彼女の首から下げられていた。
「それは」
先ほどのオドレイと同じように、はっとするルネ。
彼女は何も言わずに頷いて、指で石を撫でた。
その石は、間違いなく、ルネがあの日オドレイに握らせた、自分のとっておきの宝物だった。
家の庭で土遊びをしていた時、偶然見つけた綺麗な石。不思議な青い輝きを放つ、幼い日の自分の宝。
オドレイに、何か渡したくて、ルネはそのとっておきを彼女に持たせたのだった。
「だから、貴方には会いたくなかった……」
ルネは、そう言って震える彼女の肩に、今度こそ手を伸ばした。
その頃、妹のエメ・ノワーは、生まれて初めて市場という場所に足を踏み入れていた。
「毎朝、ここで食材を仕入れる。王都には国中から最高級の魚介、肉、野菜、果物が集まる」
前を行くシェフの言葉を聞きながら、私は見たこともないような沢山の食材の海に、早くも溺れそうになっていた。
「その分、地方に比べると新鮮さに欠ける。大事なのは、新鮮で上質な食材を、妥当な金額で手に入れること」
シェフの言葉に納得しながら、私は夢中で市場の様子を見て回った。そんな私を咎めることなく、シェフは私を待って歩き出す。
初めは、変な人だと思ったけれど、彼の言うことには、納得させられた。さすが母の友人。
そんなシェフは、魚やエビが山ほど盛られた一角の前に立つと、店の主人のおじさんを捕まえた。
「おう! ロラン、若い嬢ちゃん連れか、羨ましいな!」
おじさんに冷やかされて、ロランと呼ばれたシェフは、笑って否定した。てか、シェフの名前って、ロランって言うんだ……。そんなふうに思っていると、首根っこを掴まれて、おじさんの前に突き出される。
「これ、ジュリアの弟子で娘」
乱暴な紹介だな……。
「エメ・ノワー・チュテレールと申します!」
気を取り直して、勢い良く挨拶した私を、珍しいものでも見るように眺める魚屋のおじさん。
「さすがはジュリアの娘だなぁ! べっぴんだ!」
母の娘であることに、疑いもしないおじさんの言葉が、私はとてもうれしかった。
「お、おっさんもそう思うか! 俺も一目でジュリアの娘だって分かったんだ!」
シェフの言葉に、私は食いつく。
「そんなに、似てましたか!」
私の勢いに驚いたシェフは、ちょっと引き気味だが、確かに頷いた。
「勝ち気っぽい目とか、なぁ?」
そう言って同意を求めるシェフに答えるようにして、魚屋のおじさんが頷く。
「若い時のジュリアそっくりだ」
母に、そっくり。そんなの、初めて言われた。当たり前か。ラピスのみんなは、私が養女だって知ってたし。実際血は繋がっていないんだから。
「ありがとうございます」
「別に、礼を言われるようなことじゃないけど。まぁ良いや。ほら、見てみろ。この魚と、この魚、お前ならどっちを選ぶ?」
シェフに聞かれて、じっと魚を見比べる。
「こっちです」
私が指さしたのを見て、シェフは満足げに笑う。
「正解。よく鍛えられてるな」
その言葉が、遠回しに母を誉める言葉のようで、私は誇らしかった。
店に戻ると、既に何人かの料理人たちが出勤して来たところだった。
シェフの隣に私を見つけると、皆探るような視線で私の頭の先からつま先までを、じとっと見つめた。
私の方も、ざっと料理人達の顔を見る。女は、私だけのようだ。そして、私はあまり歓迎されていない。シェフと楽しく仕入れをした後だから、そのギャップに驚くけれど、初めはこんなもんだろう。
小娘がどうしてこんな所にいる? それが彼らの頭だ。
「紹介する。今日からここで働くことになった新人だ」
「エメ・ノワー・チュテレールです。よろしくお願いいたします!」
シェフの言葉に続くように自己紹介をするが、厨房はしん、と静まり返ったまま。
私が新人だと分かると、彼らは一層厳しい目つきになった。
「若いがシャトー・ド・ラ・ダームで六年修行を積んでいる。デセール担当に付けるから、そのつもりで」
シェフの紹介に、ざわつく厨房。そうか。ここでも、シャトー・ド・ラ・ダームの名は知られているのか。
「アンドレ!」
シェフが一人の若い料理人に声をかける。柔らかな薄茶の髪に、ヘーゼルの瞳。色彩は優しげだが、その表情と雰囲気は、周りにいる誰よりも殺気だっていた。
「ロッカー教えてやれ」
「はい、シェフ」
抑揚なく答えたアンドレが、私を刺すような目線で射ぬく。
嫌だな、この人に付いていくの。そう思っても、顎で付いてこいと言う彼に逆らうことは出来なかった。




