第二話 俺を裏切った彼女がなぜか不幸になっていく。俺は何もしていないのに、世界が彼女を拒絶し始めたようだ
どんよりとした雲が空を覆う翌朝。俺、天道善治の心も天気と同じように晴れないままだった。一晩中考え続けたけれど、結局答えなんて出なかった。「璃々夢の幸せを願う」という綺麗事と、「裏切られて悲しい」という本音が、頭の中でぐるぐると回り続けている。
「……おはよう」
教室のドアを開け、努めていつも通りに振る舞おうとした。けれど、声に覇気がないのは自分でも分かった。
すると、教室の空気が一瞬で凍りついたように静まり返った。
「ぜ、善治くん? どうしたの、その目……!」
クラス委員の女子が駆け寄ってくる。彼女は中学時代、いじめられていたところを俺が助けたことがある子だ。
「あ、いや、ちょっと寝不足でさ。目が腫れちゃって」
「寝不足って……そんなレベルじゃないよ! まるで一晩中泣いてたみたいじゃない!」
「そ、そうかな? あはは、花粉症かも」
誤魔化して笑ってみせたが、クラスメイトたちの視線は鋭かった。心配、困惑、そして――何かに気づいたような、探るような視線。彼らは俺の顔と、まだ登校していない璃々夢の席を交互に見ている。
「……ねえ、善治。璃々夢と何かあった?」
鋭い問いかけに、俺は心臓が跳ねるのを感じた。
「えっ、い、いや、何もないよ! 本当に!」
俺は必死に手を振って否定した。璃々夢の浮気を言いふらすなんて、そんなことはしたくない。彼女の評判を落とすような真似は、彼氏として――いや、元彼氏になるとしても、すべきじゃないと思ったからだ。
だが、俺が否定すればするほど、クラスの空気は重苦しく、そして冷たい怒りを孕んでいくように感じられた。まるで、俺が言葉にしなくても、彼らは既に『敵』を認識してしまったかのように。
その時、教室のドアが勢いよく開いた。
「おっはよー! あー、ギリギリセーフ!」
璃々夢だ。いつも通りの明るい声、完璧にセットされた髪、そして首元には昨日まではなかった新しいネックレスが輝いている。
彼女は俺の腫れた目に気づくと、一瞬だけギクリとした顔をしたが、すぐに「何も知らない」という仮面を被って近づいてきた。
「善治、おはよ。どしたのその目? 映画でも見て泣いた?」
無邪気さを装ったその声に、俺の胸がズキリと痛む。昨日の光景がフラッシュバックする。
「……うん、まあ、そんなとこ」
「ふーん。変なのー」
璃々夢は興味なさそうに言い捨てて席に着こうとした。
その瞬間だった。
ガタンッ!
璃々夢が座ろうとした椅子が、まるで意思を持ったかのように勝手に倒れたのだ。尻餅をつきそうになり、彼女は慌てて体勢を立て直す。
「キャッ! 何これ、誰か椅子引いた!?」
璃々夢が叫ぶが、周囲には誰もいない。ただ、古びた椅子の脚が一本、不自然に折れていた。
「あーあ、愛染さん。備品は大切に使わないとダメだろ」
冷ややかな声で言ったのは、普段は温厚なクラスの男子だった。彼は俺が以前、落とした財布を一緒に探してあげたことがある。
「はぁ!? 私なにもしてないし! 勝手に壊れたんだけど!」
璃々夢が反論するが、誰も彼女を助けようとしない。それどころか、クラス中から向けられる視線は、昨日までとは明らかに違っていた。蔑み、拒絶、敵意。まるで汚物を見るかのような目が、彼女に突き刺さっている。
「……なによ、みんな。気持ち悪い」
璃々夢は居心地の悪さを感じたのか、舌打ちをして別の椅子を持ってきた。俺は慌てて彼女に駆け寄る。
「大丈夫? 怪我はない?」
「うるさいな、平気だってば! 善治が大げさに騒ぐから、みんな変な目で見るんでしょ!」
八つ当たりのように怒鳴られたが、俺はただ「ごめん」と謝ることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
その日の璃々夢の不運は、椅子の件だけでは終わらなかった。
一時間目の数学。先生が璃々夢を指名した。
「愛染、この問題を解いてみろ」
「えっ、分かりません」
「予習してこいと言ったはずだ。立ってろ」
普段なら「まあ次は頑張れよ」で済ませる温厚な先生が、なぜか今日に限って厳しく叱責し、授業が終わるまで立たせたままにした。先生の奥さんは、俺がスーパーで重い荷物を持ってあげた常連さんだ。
昼休み。璃々夢が購買でパンを買おうとすると、お釣り銭をジャラッとトレーに投げ出された。
「あ、すいません。手が滑っちゃって」
購買のおばちゃんは棒読みで謝罪したが、目は笑っていなかった。おばちゃんは俺の大ファンで、いつも「善ちゃん、これオマケ!」とコロッケをくれる人だ。
そして放課後。
璃々夢がスマホを見ながら悲鳴を上げた。
「えっ、嘘でしょ!? 私のインスタ、なんで凍結されてるの!?」
原因不明のアカウント停止。さらに、裏アカとして使っていたSNSには、身に覚えのない誹謗中傷コメント(といっても事実に即した冷徹な指摘)が大量に届き、炎上状態になっていた。
「なんなのよ今日! 全然ツイてない!」
璃々夢はイライラと髪をかきむしる。俺はどう声をかければいいのか分からず、ただオロオロとするばかりだった。
そんな俺たちの様子を、廊下の窓際からじっと見つめる人影があった。
皇 帝雅だ。
彼は腕を組み、冷ややかな笑みを浮かべていた。その横には、生徒会長と風紀委員長が控えている。
「……始まりましたね、皇くん」
「ああ。これはまだ序章に過ぎない」
帝雅は低く呟く。
「彼女は気づいていない。この学校の教師、購買の職員、用務員、そして生徒の九割が、何らかの形で善治に恩義を感じていることを。彼らは善治が傷つくことを何よりも嫌う」
「天道くんのあの様子……相当ショックを受けていましたからね。事情を知った連中が、我慢できずに動き出したのでしょう」
生徒会長が眼鏡の位置を直しながら補足する。
「まあ、我々生徒会としては『校内の秩序を乱す不純異性交遊』は見過ごせませんし? 徹底的にやらせてもらいますよ」
「頼む。……それと、例の男の方はどうなっている?」
帝雅の問いに、風紀委員長がタブレットを操作して答える。
「蛇穴鋭一ですね。彼の方も順調に『因果』が巡ってきているようです」
◇ ◇ ◇
一方その頃、隣の高校。
サッカー部のエースを自称する蛇穴鋭一は、部室で青ざめていた。
「推薦取り消し……ですか? なんでですか監督! 俺、次の試合でもスタメンですよね!?」
「すまんな、蛇穴。大学側から連絡があったんだ。『素行不良の生徒は受け入れられない』とね」
「素行不良!? 俺は何もしてませんよ!」
「ほう? 繁華街での未成年飲酒、喫煙、万引き疑惑……匿名の通報と共に、かなり鮮明な証拠写真が送られてきているぞ」
監督が机の上に投げ出した写真には、蛇穴がタバコをふかしながら酒を飲んでいる姿がばっちりと写っていた。
「こ、これは……!」
「誰が撮ったかは知らんが、言い逃れはできん。部活は無期限の活動停止、退学も含めて処分を検討するそうだ。出て行け」
部室を追い出された蛇穴は、廊下の壁を蹴り飛ばした。
「クソッ! 誰だよチクリやがったのは!?」
イライラを抑えきれず、彼はバイト先のコンビニへと向かった。金さえあれば遊べる。今は憂さ晴らしが必要だ。
だが、店に着くなり店長に告げられたのは「クビ」の一言だった。
「本部の方にクレームが入ってね。『態度が悪い店員がいる店は利用したくない』って、地域住民から署名付きで要望書が届いたんだよ。君、何をやらかしたんだ?」
「はぁ!? 知らねえよ!」
蛇穴は制服を脱ぎ捨てて店を飛び出した。
何かがおかしい。昨日の夜までは順風満帆だったはずだ。可愛い彼女(人のモノ)を奪い、エースとして活躍し、人生イージーモードだったはずなのに。
「……あいつか? 璃々夢と付き合い出してからおかしくなった。まさかあいつの彼氏の呪いか? ……いやいや、あんな冴えない善人面にそんな力あるわけねえ」
蛇穴は恐怖を振り払うように、スマホを取り出した。璃々夢に連絡しよう。あいつと遊べば嫌なことも忘れられる。
『もしもし鋭一くん? ねえ聞いてよ、今日最悪でさー!』
電話の向こうの璃々夢も、どうやら同じように不機嫌そうだった。
『俺もだよ。なんか変なんだよ今日。……なあ、今から会えねえか? 気分転換にパァーっとやろうぜ』
『うん、行く。善治には適当に言って抜けてくるから』
◇ ◇ ◇
放課後の教室。璃々夢が鞄を持って立ち上がった。
「善治、ごめん! 今日もおばあちゃんの家に行く用事ができちゃって! 一緒に帰れない!」
見え透いた嘘だった。昨日と同じ、浮ついた空気を纏っている。俺は胸が張り裂けそうになりながらも、彼女を引き止めることができなかった。
「……そっか。気をつけてね」
「うん! じゃあね!」
璃々夢が教室を出て行こうとした、その時だった。
「待てよ」
立ちはだかったのは、帝雅だった。
その背後には、まるで親衛隊のように屈強な男子生徒たちが並んでいる。
「……なによ皇くん。私、急いでるんだけど」
璃々夢は帝雅の威圧感に気圧されながらも、強気に言い返す。
帝雅は冷たい瞳で彼女を見下ろし、静かに、だが教室全体に響き渡る声で告げた。
「君の『用事』というのは、隣の高校の蛇穴鋭一と会うことか?」
璃々夢の顔色がさっと変わった。
「な……なんで、その名前……」
「とぼけるな。善治を裏切っておきながら、まだ彼を利用しようとするその神経、反吐が出る」
帝雅の一言で、教室中の空気が「確信」へと変わった。クラスメイトたちの「やっぱりか」「許せない」というヒソヒソ声が波紋のように広がる。
俺はたまらず席を立ち、帝雅の元へ駆け寄った。
「帝雅! やめてくれ、璃々夢を責めないでくれ!」
俺が割って入ると、帝雅は痛ましげに俺を見た。
「善治……君はまだ、この女を庇うのか。君を愚弄し、踏みにじったこの女を」
「それでも……! 彼女がみんなから責められるのは見たくないんだ!」
俺の叫びに、璃々夢はハッとしたように俺を見た。
だが、その目は感謝ではなく、混乱と恐怖に染まっていた。
「なによこれ……善治、あんた何者なの? なんで皇くんが私のこと知ってんのよ!?」
彼女はまだ理解していなかった。自分が踏んでしまった虎の尾の大きさを。
「来い」
帝雅が短く命じると、背後の男子生徒たちが璃々夢の腕を掴んだわけでもないのに、逃げ道を塞ぐように包囲した。
「蛇穴も呼んである。校門前で待っているそうだ。……話をつけようか。君たちが犯した罪の清算を」
俺は震える璃々夢の手を取ろうとしたが、彼女はそれを振り払った。
そして、帝雅たちに促されるまま、青ざめた顔で廊下へと連れ出されていく。
俺はただ、立ち尽くしていた。
「俺は何もしていないのに、世界が彼女を拒絶し始めた」
そんな感覚に襲われながら、俺はふらつく足で彼らの後を追った。これが、終わりの始まりだと予感しながら。




